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ドリー種のもさもさした馬に、タビーは『ブレド』と名を付けた。
この世界には名付け辞典などない。馬喰に聞いたが名前などつけていな
い、と言われたので、悩みに悩んでつけた名前だ。
古語で『灰色の』という意味がある。そのままだ。
「ブレド、ブラシかけてあげるね」
馬房は狭いので、ギルドの許可を取って裏庭でブラシ掛けをする。ブレ
ドは砂遊びが好きな様だ。裏庭に小さな砂場があるが、入りたそうな仕草
をする。その砂場は解体用に使うものだから、遊ばせることはできない。
早めに旅にでて、思い切り遊ばせたいと思う。
旅にでるのは来月の1日に決めた。
明後日からは寮ではなく宿屋に泊まる。この世界の宿屋がどんなところ
か判らないので、ギルドに紹介して貰い、予約を入れた。
仕入れも順調で、メータとの契約もギルドに報告している。定期的にタ
ビーの所まで届けてくれるらしい。商業ギルドの秘密兵器を使って。
裏庭の木に手綱をかけ、一緒に持ってきたバケツからブラシや鉄櫛を取
り出す。ブレドはドリー種でも毛が多い方に入るのだろう。肌を傷つけな
いように探りながら鉄櫛で毛を逆立てていく。彼はこれが大好きで、大人
しくしつつも舌をベロベロとだしたり入れたりする。
どうやらこれは彼の感情表現の一つらしい。
嬉しいとき、気持ちいいとき、不機嫌なとき。彼はせわしなく舌の出し
入れをする。そのくせタビーの顔や手は舐めない。彼なりの何かがあるの
だろう。その代わりに頭を擦り付けてくることがある。それが彼の甘え方
の様だった。
丁寧にブラシ掛けまで終えた後、タビーは手綱を引き、ギルドの裏庭を
回る。運動量が多く必要な馬だ。早く旅にでようと気がせく。
ブレドを馬房に入れてから、荷馬車の確認をする。
簡単なメンテナンスは覚えた。故障したときの対応も。コツさえ覚えれ
ば荷馬車の扱いは難しくない。前世の車の様に電装が張り巡らせられたも
のより余程扱いやすかった。
ギルドによって積み込まれたものもある。荷馬車の棚はおまけだ、と聞
いた。布をかけて飾ることも出来る、雑貨向けの荷馬車だ。ギルドはタビー
が仕入れた分とは全く関係ない商品も積み込んでいる。いちいち宛名が書
いてあるが、渡せない可能性を考えているのだろうか。
「タビー、いるかい?」
声が掛かった。荷馬車の後ろ側から顔を出せば、受付の男が厳しい顔で
立っている。
「ギルド長が呼んでいる」
王都のギルドを統べる者、即ちダーフィトの商売という商売を知ってい
る存在。
「……え?」
思いがけない言葉に、タビーは持っていた布を落とした。
■
「状況が変わった、タビー」
ギルド長の部屋に入ったタビーは、部屋に入った早々に声をかけられる。
忙しなく部屋を行き来しているのは、入学前に餞別をくれた副ギルド長
だった。彼以外は誰もいない。
「あ、あの」
「私の事は手短に説明しよう。前任者の勇退に伴い、私がギルド長になっ
た。二年前だ」
彼は、以前の様に気取った言い回しはしなかった。
「は、はい」
「タビー、これを」
ついてきた受付の男が地図を広げる。よく相談に乗ってくれた彼がここ
にいるということは、彼もそれなりの役を持っているのだろう。何故、と
いう気がしたが、取りあえず広げられた地図に視線を向ける。
「来月から、護衛のない者が王都を出る事はできなくなった」
「え?」
「ここ」
北の街の一つを受付の男が指さした。
「ヘクスター?」
周囲の村や町よりも大きく名前が書いてある。この世界の地図では、そ
れなりに大きい街であることを意味していた。
「ヘクスターが魔獣に襲われた。街は半分、いやそれ以上の被害だ」
「この街と周囲の領地を預かっていたヘクスター男爵も命を落とされてい
ます」
「!」
タビーは顔を上げる。北は最果ての谷に近い。魔獣の被害も他の地域よ
り多いため、騎士団とは全く別の私軍がいる。これを維持しているのは、
シュタイン公爵とその傘下にいる貴族たち。だからこそ北の貴族は子息を
騎士団へと送り込む。いずれ己の領地を守れる様に。
統括するのは男爵とはいえ、それなりの力量があった私軍を打ち破った
のであれば、魔獣もそれなりの規模で動いていると考えられた。
魔獣を統率する者はいない。魔人という存在がいると言われているが、
彼らが魔獣を統率していたかまでは判らなかった。
「私軍も相当数の被害が出ているが、何より街が機能していない」
「流民が出る」
ギルド長の言葉に、タビーは反射的に顔をあげる。魔獣がいないときで
も、行き場を失った者が流民として王都に流れ込むことはあったが、そん
な小さい規模ではないのだろう。
「王都は、人の出入りを制限する。これは、秘密事項だ」
「それは……」
「タビー。旅に出たいのであれば、今のうちに行かねばならない」
ギルド長の言葉に、タビーは息を呑んだ。護衛のいない者が出られない
となれば、彼女も当然旅に出られなくなる。どこかの商隊に混ぜてもらう
か、護衛を雇うか。
「ギルドは……」
「私たちはヘクスターの復旧のため、物資を運ぶ。来月1日に勅使が立ち
ギルドに正式な指示を出す。そうなったら、私たちは君に協力できない」
勅使が立つ、即ち王命。
女王からの正式な依頼であれば、商業ギルドは拒むことができない。
「仕入れを急がせている。遅くても、明後日には用意が調う」
「あとは君がどうしたいかだ」
ギルド長の言葉に、タビーは緊張した。
「わ、私は」
彼女は心の中で教官の言葉を繰り返す。あくまで『冷静に』。
「私になぜそれを……」
教えなくてもいい筈だ。仕入れに協力したとはいえ、タビーに預ける荷
物は多くはない。雑貨類が中心だから、値もそれなりだ。
「……タビー、君が初めてここに来て何年がたった?」
ギルドの扉を開けることすら時間がかかった幼い子が、少しずつ成長し
て、今、魔術師としてここにいる。
「もう、10年も経ったんだ」
ギルド長は厳しい顔を少しだけ緩めた。受付でよく冗談を言ったり、大
げさな身振り手振りで彼女を笑わせてくれた副ギルド長。
「君の成長を見るのは楽しかったよ。学院からは定期的に報告もあったか
らね。会える機会は減ってしまったが、私に子どもがいればこんな風だっ
たろうか、と思う程に」
「……」
「その君が旅に出る。帰ってくるかは判らない。君が優秀な魔術師だとは
知っているが、もう一度、必ず会えるという保証もない」
それならば、精一杯の事をして送りだそうと思った。タビーは知らない
事だが、仕入れにはギルド長の私費が使われている。
「せっかくの門出だ。君を送り出すことに、ケチをつけたくない」
「……」
タビーはギルド長の目を見つめた。
「……ありがとう、ございます」
ようやくそれだけ呟く。
ギルドには、沢山のことを教えて貰った。
お金の種類、仕事のやり方、商業的な文字の書き方、そんな基本的なこ
とから商売のからくりまで。
商業ギルドの存在を知らなければ、タビーはあの小さな家でいずれ朽ち
果てただろう。ここで外の世界を見せて貰ったから、タビーは成長できた
のだ。
「私たちにも感情はある。成長していく者を見るのは楽しいし、堕落して
いくのを見るのは辛い。そういうことだ」
「……はい」
タビーは頷いた。
「あとは、先行投資ですよ」
受付の男が微笑む。
「優秀な人間には、金を注ぎ込む価値がある。それはいずれギルドに返っ
てくる。利益として」
「はは」
タビーは思わず笑う。そこまで気にかけて貰ったら、応えない訳にはい
かなかった。
「明明後日に、出ます」
「そうか」
ほっとした様に二人は頷く。
「仕入れは任せていい。まぁ、こんな状況なら、何でも売れると思うがね」
「わかりました」
「宿には連絡を入れますよ」
10日程度泊まる予定が1日に短縮になったのだ。
「上客を逃したと、文句を言われるな」
「黙って聞いておきますよ」
二人の会話を聞いているうちに、タビーの緊張もとける。
来月の出発が、少し早まっただけだ。
仕入れが終われば、いつ旅にでてもいいのだから。それに急な別れの方
が思いきりもつく。ブレドのためにもいいだろう。
何人かの顔が頭を過ぎったが、全て振り払った。
旅に出る、もうすぐ。
タビーは、高鳴る鼓動を抑える事ができなかった。




