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磨き上げられた床に硬質な音が響く。
その後を追いかけるのは、静かで重みのある足音。
「陛下」
「なりません!」
頬を紅潮させた、うら若いその顔は怒りを隠さない。
「陛下」
引き止めようとしている男の声は、あくまで淡々としている。
「他に方法があるはずです」
「陛下」
「シュタイン公」
足を止めた女王は、怒りに輝く瞳を彼に向けた。
「あなたは、生け贄を作るつもりなのですか」
詰問する様な言葉に、シュタイン公は頷く。
「必要であれば」
「あなたは……!」
女王は胸の前で手を握りしめた。そうでもしなければ、相手を叩きたく
なる感情を抑えきれない。
「陛下、これはもう時間が解決する問題ではございません」
シュタイン公は幼い女王を見据える。
「魔獣の異常な発生、これには必ず原因があります」
既にいくつかの村は全滅し、北に近い街や村では王都へ逃げる流民が多
くなっていた。このまま続けば、北に領地を持つ貴族達は税も満足に納め
られなくなる。自領や傘下の貴族達の領地が北にある彼だからこそ、それ
が破滅を招きかねない事だと理解していた。
「魔獣が出ているのは、北だけではありません」
「だからこそ、必要なのです」
シュタイン公の言葉に、女王は首を横に振る。
「近衛騎士も、騎士団の騎士も、私には等しく国を守る騎士。その彼らを
死地に行かせることなど……」
「甘いことを仰る」
彼は低く嗤った。護衛の近衛がついていれば、非礼だと拘束されてもお
かしくない。
だが今、執務室に向かう廊下には二人しかいなかった。
「陛下、民を飢えさせるおつもりか?」
「その様な……」
「国庫にある備えは、3年分」
切り詰めて5年。
このままでは、国庫開放を行ってもその後が続かない。王都近隣や宰相
であるノルマン公の領地にも民達の為の畑はあるが、魔獣を恐れて農民達
が逃げてしまえば作物は実らないのだ。
今を逃せば、破滅は逃れられない。
「陛下、必要な犠牲とは申しません。だが、既に遅いとすら言える。この
状況をどうにかしなければ……」
貴族達は自領に魔獣が現れる事を恐れている。そして、それにより民が
いなくなり、税が取れない事をもっと恐れていた。重臣のみが集められる
女王の御前会議でも、貴族達があつまる議会でもこの話題が出ないことは
ない。
女王の判断は、下手に魔獣を刺激せず経過を見る、というものだ。
結果として、小さくない村が全滅している。これ以上の犠牲は回避しな
ければならない。騎士団を統括しているシュタイン公は各地の駐屯地や砦
に魔獣対策をする様指示をだしているが、それだけではもう持ちこたえら
れないのだ。
「陛下、政はいくつもの面があります。清らかなことも、濁ってなにも見
えないこともある」
「シュタイン公」
「あなたは、私に命じるだけでいい。それで全てが進み出す」
「やめ……」
「あなたは、清らかで優しい女王でいい。そう思われたいのであれば」
だとしても、これ以上は逃げられないだろう。
「やめなさい!シュタイン公」
女王は声を荒げ、そしてそんな自分に驚いた様にはっとした。
「わ、私は……」
「陛下」
シュタイン公は女王の前に両膝をつく。騎士として全ての自分を預ける
ことを意味する姿に、女王は震えた。
「陛下。ご命令を」
逃げられない事は判っている。だが、女王はそれでも逃げたいと思った。
自分が下した命で、騎士達の命が失われる。だが、命を下さなければ民
は飢え、流離うことになるのだ。
それも、理解していた。
それでも、その命を口にしたくなかったのだ。
「……」
女王は華奢な肩を震わせ、天井を見上げる。美しく象眼された柱、類い
希な芸術家と評された画家が描いた天井画。
それら全てが虚しく思える。
彼女が王女であれば、そうやって逃げることを許されただろう。
だが、今の彼女は女王である。ダーフィトに住む全ての者を生かし、守
るべき立場だ。
女王は視線をシュタイン公に戻す。彼は今だ両膝をついたまま。
「シュタイン公」
重い口を開き、震える言葉で女王は彼を呼ぶ。
「……を、……」
微かな声を聞き届けた彼は、静かに頭を垂れた。
■
騎士寮の名物は、牛肉の煮込み。
1ヶ月に1回だけ出されるそれは、数日かけて煮込まれるものだ。寮生
にも人気があり、例え体調が悪くてもそれだけは食べる、という者が少な
くない。
そんな牛肉の煮込みを前に、クヌートはしゃくりあげながら大きな匙を
口に押し込む。
彼の前にいるのは、タビーとヒューゴとザシャ。
「それで、最後まで書けなかった、と」
ザシャの言葉に、クヌートは頷く。頬が栗鼠の様に膨らんでいた。
「試験問題は2回目と同じだよね?」
「良く取れば、前は解けなかった問題の回答を書いていて時間切れになっ
たと思いますが」
「そうであってほしいな」
はぁ、とヒューゴが息をつく。試験会場から一人で帰ってきたクヌート
はタビー達の顔を見た瞬間、泣き出したのだ。
「で、でも、論述問題は書けたんだよね?」
タビーの問いに、クヌートはまた頷く。
「単純に考えて、論述が取れていればどうにか……」
「教えた通りに書けていれば、ですが」
渋い顔をするザシャを見ない様にして、クヌートは煮込みを食べる。
既に頭の中には詰め込んだ知識など無かった。終わった瞬間に全てふき
飛んだのだ。
「後は待つしかないか」
「そうですね」
タビーも頷く。思い出した様に、手を付けていない煮込みの皿をクヌー
トの方へ押しやった。
「……なにこれ」
「あげる」
正直、一日緊張していたタビーはお腹が空いていない。談話室で彼が帰っ
てくるのをひたすら待っていたのだ。ちびりちびりと飲んでいたお茶で、
お腹の中はたぷたぷだった。
クヌートは無言のままタビーの皿を受け取る。それをどこかほっとした
様な気持ちで見守った。
ここまでやったのだから、後は待つしか無い。合否は卒業式の一週間前
に通知が来る。
「よく頑張ったな」
ぽつりとヒューゴが呟いた。ザシャも肩の力を抜き、そしてやはり目の
前にあった手つかずの皿をクヌートの前に押しやる。
「……こんなもので、ごまかされないから」
そういいつつ、クヌートは皿を引き寄せた。余程の事が無い限り、おか
わりは無い煮込みだ。くれるというならありがたく貰う。
ぽろぽろと涙を零し、しゃくりあげながら、彼はスプーンを口に運ぶ。
「これもやるよ」
ヒューゴは皿の中の芋と野菜をクヌートの皿に入れる。
「ちょ、ちょっと!なにこれ」
「よーく頑張ったな。ご褒美だ」
「だったら肉にしてよ、肉!」
小柄で童顔とはいえ、彼もまた騎士寮の住人。野菜よりは肉が好きだっ
た。
「俺はタビーやザシャみたいに心が広くないからな。これを食べられるの
は今日が最後だし」
卒業まで一ヶ月を切っている。当然だが一ヶ月に一回の煮込みは、最上
級生にとって最後なのだ。
「……ごめん、クヌート。やっぱり返して」
手を伸ばしたタビーに、クヌートは猫の様に目をつり上げ、皿を抱える。
「だめだって。何を今更」
「最後だって忘れてた。あ、猪の干し肉ならあるよ。交換でどう?」
「なんで寮にいるのに、そんなの食べなきゃいけないの!?」
「騎士寮だから」
真顔で返した彼女を、クヌートは呆れた様に見、そしてようやく笑う。
「タビーらしいや」




