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談話室でタビーは唸っていた。目の前に教本が山積みにされている。
騎士専攻はこの教本すべてを4年間で学んでいく。月に一度の試験や、
基準に達しない場合の追試もある筈だから、落第せずにここまで来られた
のなら、ある程度はできる筈だ。
「あ、ここ出た覚えある」
タビーの対面にはレオポルトが座っていた。彼も同じく教本をめくって
いる。しおり代わりの葉っぱを差し込み、また教本をめくり出す。
レオポルトは、どうにか面目がたった。1回目は体調が良くなかったと
でも言えばいいのだ。
クヌートは、タビーの隣で燃え尽きている。座ったまま椅子の腕起きに
頭を置くという器用な体勢でぴくりとも動かない。
「軍学は攻守どっちがでた?」
「両方出てるけど、守る方が多かった。俺はそこだけは頭に叩き込んでい
たから」
他はどうだったのか、聞かなかった。レオポルトは合格したのだ。点数
がどうであれ、合格は合格。近衛と騎士団のどちらを選ぶことも可能であ
る。
「教養は文章問題が多かった。あと何故か最後に計算の問題が大量に」
「全部終われた?」
「直ぐに判らないのを飛ばしていって、最後に計算問題あったからそれを
先に解いた」
正道だ。解きやすい問題から解き、厄介な問題は後回しにする。それは
クヌートにもしっかり言い聞かせた筈なのだが。
「クヌート!覚えてるのはないの?」
「……だ」
絶望に満たされた声が上がる。
「もう、僕はダメなんだ……」
「近衛受かってるじゃない」
「だって……」
のそり、と顔をあげたクヌートの目の下は黒い。睡眠不足ではなく泣き
すぎである。人目を憚らずに号泣したあと、彼は泣き疲れたのかそのまま
伏せて動かなかったのだ。
「ま、気持ちは判らないでもない」
レオポルトが同情の眼差しでクヌートを見る。
騎士団入団試験2回目は、1回目より大幅に人数が少ない。その中には
クヌートがいつも順位を争っている院生も複数いたという。
結果、クヌート以外は全員合格。
普段は最下位を争う仲間とも呼べる者達が全員受かり、自分だけが落ち
たという現実を直視できるほど、クヌートは心が強くない。浮かれた気分
が充ち満ちた騎士寮で、クヌートと、受かってしまったが故に微妙な立場
になったレオポルトは談話室で重たい雰囲気を出していたのだ。
「なんで僕だけ……」
あまりに落ち込んでいる彼に、タビーも罪悪感を感じる。あの教え方で
は駄目だったのだろう、少なくともクヌートは。
「はい」
ふるふると震える彼に、タビーは買ってきた買い物袋を差し出した。冷
えて少し硬くなっているかもしれないが、食べられない事はないだろう。
「いただきます……」
蒸しパンの様なそれを口にしながら、クヌートはぽろぽろと涙を零す。
結果を知ったタビーがその直後から教本を確認しているのには、理由が
ある。
騎士団の2回目と3回目の試験は同じ内容なのだ。
それであれば、まだ合格の可能性はある。
4回目の試験は受ける事自体が無謀だ。合格したいなら、3回目の試験
でどうにかするしかない。
「クヌート」
教本を閉じたタビーは、隣で蒸しパンを食べている彼に向き直った。
「ごめんなさい」
「え?」
蒸しパンを思わず落としそうになったクヌートは、慌ててそれを受けと
める。
「な、なんで?」
「結果がこれなら、私の教え方がまずかったと思う」
「ち、違うよタビー!」
クヌートは首を横に振った。
「だって、あの腕立て伏せがなかったら、教養の歴史とか法律なんか覚え
られなかったよ!」
「でも……」
「い、いや、今度は他の方法にして欲しいけど!タビーが駄目だったんじゃ
なくて、ええと、僕たち両方とも駄目だった、ってことだよ!」
蒸しパン片手にそう言う彼は、それでも目が赤い。辛い思いをさせてし
まった、と、タビーは反省する。
「で、どうすんの。お前」
レオポルトは教本を閉じてクヌートを見た。
「どうせ近衛に行くんだし、おまえんち、近衛の合格証書が届いて凄く喜
んだんだろ?」
「うん……」
「もう進路が決まってるなら、ここで諦めるのも手だ。3回目の試験、受
けるのはお前だけだから」
「僕、だけ……」
元々近衛に受かっている者は、箔付けの意味で騎士団の試験を受ける事
が多い。だが敢えてそこまでしない者も勿論いる。騎士団を第一志望にす
る院生は、2回目までの試験で全員合格していた。近衛に行く彼が、わざ
わざ一人で試験を受けに行く必要はない。
「で、でも、3回目の試験って、今回と内容同じなんだよね?」
「ああ」
騎士団入団試験では3回目の試験はなかなか実施されない。大抵が2回
目までに合格するから、誰もいなくて中止になる事が多いのだ。
「だ、だったら僕……」
どうしよう、と迷っているクヌートをタビー達は見守る。
「僕……」
じっと手の中の蒸しパンを見つめていた彼が顔をあげた。
「僕、僕は」
「な、辛い思いをしたと思うけど。いい経験だと思って」
レオポルトが宥める様に軽く背を叩く。
「僕は……」
クヌートはタビーを見た。
■
今日は騎士団から人が来て、入団前の注意事項と騎士団の仕事を説明す
る日だ。
これは参加者を限定しておらず、生の騎士の声が聞けるという事もあり
騎士専攻の院生達はできる限り参加する。最優先は最上級生だが、座れな
くてもいい、騎士団のことを聞きたい、という下級生達も多いのだ。
クヌートも、その説明会に参加している。
試験には受かっていないが、気持ちをかき立てる為には有効だろう。
タビーのやり方にも問題があったが、クヌートの気持ちにも問題がある。
――――近衛には受かっているから。
クヌートの行き先はもう決まっているのだ。だからどこか本気になれな
い。家が厳しいレオポルトや、本当に近衛か騎士団か迷っている院生とは
違う。彼らしいといえば彼らしいが、その甘さがどこか本気になれない理
由なのだろう。
タビーは教本をめくり、2回目の試験情報から集めた問題を羊皮紙に書
き写す。対面ではザシャが教本を読み、どうすれば理解しやすいかを考え
ていた。
「本気になったということですか」
ぽつりと呟いたザシャに、タビーは顔を上げる。
「かなり甘やかされて育っていますから、彼。そこさえどうにかできれば
近衛だろうが騎士団だろうが、どちらでもやっていけるでしょう」
「でも、あれはクヌートの武器でもあるよね」
いつの間にか集団に入り込み、皆と騒ぐ。場を笑わせるのもうまいし、
誰もが『クヌートなら仕方ないか』と思ってしまうのだ。
「私もザシャも、あそこまで愛想良くできないし」
「……」
想像したのか、ザシャは一瞬、嫌そうな顔をする。
「羨ましいとは違う意味で、いいな、って思うよ」
「そうですか?ただの甘えたい子どもに見えますが」
彼の評価ももっともだ。試験では他人に頼り切り、苦手な事や出来ない
事からは極力逃げるし、楽しい事は全力で楽しみたい。いいところだけが
欲しい、という態度は普通嫌がられるが、クヌートはそうではない。
「そもそも、近衛に行って彼は大丈夫なのですか」
「大丈夫でしょ。近衛にも暢気な部署はあるみたいだよ」
近衛も様々だ。家格が低くても実力でのし上がる者もいれば、王族警護
の補佐をして、ある程度経験を積んだら実家に戻って家を継ぐ者もいる。
一生を近衛に捧げ、結婚もせずに引退を迎える仕事中毒の様な近衛もい
るらしい。貴族なのにそこまで仕事に入れ込めるというのは、ある意味凄
い事だと思うが。
「それで、今度は?」
「ん?」
「前みたいに訓練場でさせる訳にもいかないでしょう。どうしますか」
「ザシャならどうする?」
「……教官から鞭を借りてきます」
どうやら財務はそういう教官がいる様だ。ザシャが鞭を振るったら似合
いすぎるな、と思ったタビーは慌てて首を横に振った。
「鞭は無理として……」
「そうですか」
「まぁ、試験まであと2週間だから、出来る事って案外ないんだけど」
タビーは談話室の窓から学舎の屋根を眺める。今頃、ヒューゴをはじめ
とした面々は説明会の最中だ。卒業後に向けて、少しずつ動きが加速して
いる。
「……今回の件、手伝いますが」
ザシャがぽつりと呟く。タビーは視線を彼に戻した。
「ひとつだけ、頼み事をきいて貰えますか?」
「頼み事?私に、出来る事なら……あ、お金は駄目だけど」
「それはないですよ」
ザシャは笑った。
「まぁ、全てはクヌートの試験が終わってから、ですね」
『だ、だめかもしれないけど、もう一度だけ、受けてみたい』
そう言った彼に、できるだけ協力したいと思う。
タビーは再び教本に目を落とし、試験に出たという部分を写し始めた。




