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炎の魔術が訓練場を揺らした。
見学中の生徒達は頭を抱えて蹲り、目を強く閉じている。
ふわり、と空気が動いた。
風の魔術の様で、だがどこかしっとりとしたもの。
恐る恐る目を開けた生徒達の前で、薄水色の細かい塊が炎を止めていた。炎は見
る間に薄水色の塊に侵食され、消えて行く。
目を見張ったのは上級生達も同じだった。発動された魔術は上位のもので、それ
を打ち消すには同程度の魔術が必要である。
四散したうち一番大きい炎は、下級生がいた場所を抉っていた。
だが、上級生達が視線を向けた先に立っていたのは、フリッツである。倒れた下
級生の側に立って、長めの杖を翳していた。
皆が目を見張った所で、彼は二撃目の魔術を放つ。それは竜巻の魔術を発動させ
た生徒の足下に着弾し、一瞬燃え上がったが直ぐに収まる。
「タビー!」
炎の魔術に慌てている上級生は放置し、フリッツは膝を折った。
タビーが見たら、きっと驚いただろう。
今日の彼は、くねくねしていない。
「タビー!」
体に触れる。熱い。
服を脱がせる前に、大量の水を掛けていく。酷い火傷だから、とにかくまず冷や
さなければならない。
魔術を発動させながら、彼は顔を上げた。
「誰か、教官を呼べ!」
声に弾かれた様に、下級生の幾人かが駆けだした。相当の魔力が動き、結界に作
用している。魔術応用課程の教官なら、感じる事が出来ただろう。
普段なら訓練に必ず立ち会う教官がいないのも気になったが、フリッツはとにか
く体を冷やす。
水を流しながら、タビーの全身を見た。
火傷が酷い。このままでは傷が残るだろう。
「くそっ」
水を流し続けているせいで、周囲には水たまりができはじめていた。フリッツの
服も濡れ始めたが、彼は気にしない。
「教官!あそこです!」
「大丈夫かッ!」
下級生と共に、数人の教官が駆け込んできた。その頃になって、ようやく訓練を
していた上級生達も近寄ってくる。
「タビー、しっかりするんだ!」
神殿で祈りを捧げていた若い神官は、顔をあげた。
神の名は、神官長と司祭長しか知らない。呼んではならないもので、口にすれば
雷が落ちるという。
その雷はどこから来るのだろうか。
そんな事をぼんやりと考えながら、彼は立ち上がった。
この世界は、彼が名すら識らぬ神が創ったという。
神官や司祭、聖女達がもつ癒やしの術は、神からの贈り物だとも。
神殿の神官達は、ギルドや学院に与しない。幼い頃から神殿で神に仕え、神官と
なる。
反対に司祭達は神殿だけではなく、広く外へと足を運ぶ。
どちらが上か、下か、というものではない。
いずれも同じ神を奉り、神の教えを伝える存在だ。
「――――」
名を呼ばれ、振り向きつつ膝をついた。姿を見ずとも判る。神官長だ。
「学院で怪我人がでた様だ」
膝をついたまま、名を呼ばれた若い神官は深く頭を垂れる。
「行きなさい。そなたの力が必要だ」
「神の御心のままに」
そう答えた神官は、額を床につけ恭しく応えた。
今、タビーが会えるのはアロイスとライナー、ラーラとイルマ、そしてフリッツ
である。
それ以外は、救護室の教官が常に側におり、面会は禁じられた。
全身を包帯で巻かれたタビーは、その下が疼くのに眉を顰める。酷い火傷だった
と聞くが、動かない限り痛みが無いのでピンと来ない。
何より、目が醒めたときにはあの日から半月が経過していたのだ。
最初に目にしたのは、自室ではない天井で、視界が狭く思えた。それもその筈、
タビーの額から左眉下までも火傷があり、左目の所まで包帯が巻かれていたのだ。
片眼でみる世界は、案外狭い。
今はそんなことを考える余裕もあるが、最初はただただ混乱した。
動けない体に苛立ち、炎が襲った瞬間の記憶が蘇って悲鳴をあげ、涙を流して傷
が痛み。
ようやく状況を把握したのは、つい最近である。
助けてくれたのは、フリッツらしい。
彼が水をかけ続けたおかげで、タビーの火傷は広がらなかった。
痛みも最小限に抑えられ、更に神殿の神官を呼んだのも彼だという。
タビーは、神を信仰していない。
というより、前世である日本人らしい宗教へのこだわりのなさが影響してか、食
事の前後に手を合わせるものの、その教えには全く興味がなかった。
神官や司祭が癒やしの術を持っていると聞いても、そうなんだ、としか思わない
位だ。
そんなタビーでも、神官を呼ぶのはなかなか難しいと知っている。
嫡子とはいえ男爵の家系であるフリッツが何故神官を呼べたのか判らないが、こ
こは素直に感謝するべきなのだろう。
神官の癒しは火傷の大半を治し、意識を回復させた。ここから先は、体の治癒能
力で治すべきという判断で、タビーは静養に努めている。
最近は本を読む許可も得られたし、自力で手洗いに行く事や、座って食事をする
事もでき、随分と気楽になった。
たまに同期生からの言付けで差し入れがされたり、授業を受け持つ教官が少しだ
け勉強を教えてくれたりする。特待生として授業に出られないのは不安だったが、
特例で次回の査定を無しにしてもらえたのは幸運だ。
その分、遅れた範囲は自分で取り戻さなければいけないが。
タビーは左腕をついて、体を起こした。背中も火傷を負っているため、寄りかか
ることが出来ない。寝るときも左を下にしている。
左腕に火傷がない訳ではないが、他より軽度で、動かすにも支障が無い。
一日に二度、包帯を外して薬を塗りつけるのがたまらなく痛いが、この薬であれ
ば痕も残らないと言う事で耐えている。
季節は、秋も半ばをすぎていた。
いつもだったら冬に備えて、野菜の酢漬けや果物の砂糖漬けを用意している頃だ。
市場を巡り、葉物野菜を大量に買い付け、前世でいうところの甘酢に近い酢に漬
ける。
それがたった1年前のこと、という方が不思議に思えた。学院に馴染んでしまい、
一人きりの生活は遠い記憶になり始めている。
ノックの音がした。
痛みを我慢しつつそちらを見ると、イルマが入ってくる。
「具合はどうだい?」
「なんとか」
表情もなかなか上手く動かせなかった。今は、ほぼ無傷の唇周りを動かすことで
感情を伝えている。
「これは、授業で使ったメモだそうだ」
丸めてベッドサイドへ置かれた紙に、タビーは微笑む。
「ありがとうございます」
「みんな、心配してたよ」
イルマは付き添い用の椅子を引き寄せ、そこに座る。
「私も、早く戻りたいです」
「そうだね。タビーがいないと、寮もつまらないし」
「そんな」
唇の両端をあげて、きゅっと笑う。
「ヒジャ、どうです?」
「大きくなったよ。そのうち市場に連れて行って、種付けしようか、って話をして
る」
「女の子だったんですか?」
「そうだよ。この前は木に前足をかけて、葉っぱを食べようとしてた」
イルマが笑う。
「届かなくてね。不満そうに啼くもんだから、木の枝を二つ三つ落としてた」
「そうですか……冬は大丈夫なんですか」
「一応、飼い葉を蓄えてはいる様だよ。まぁ、ここには馬もいるし」
授業や実習で使う馬の世話は、生徒達の仕事だ。冬場の餌集めも同様である。
「まだ、痛むかい?」
「動かすと」
「そうか……辛いけど、もう少し我慢するしかないね」
「暇過ぎて退屈ですよ」
イルマがもう一度笑う。
「そろそろ行くけど、教官の言う事、ちゃんと聞くんだよ」
「はい」
「じゃ、またね」
手を振ってから救護室を出て行くイルマを視線で見送り、タビーは溜息をつく。
「いつ、戻れるのかなぁ……」




