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「あまりよく見えないな」
ぽつりと呟いたリリーの父親は、遠くで巻き上がっている砂埃を眺めた。
「あなた、リリーはあのような所に……?」
「ああ、私の愛らしい小鳥よ。そんな悲しそうな顔をしないでおくれ」
「リリーは、あそこです」
再び二人の世界を作ろうとしていた父親の言葉を遮り、彼らの長男は指
さす。
「ほう、リリーの騎士はまだいるのかね?」
腕を伸ばし、息子から遠眼鏡を奪った父親は、それを覗き込む。
「……む?」
「あなた?」
「どこかで見た事のある様な……」
彼は遠眼鏡を妻に差し出した。
そっと覗き込む彼女は、小さいながらリリーの姿を確認したのだろう。
ほっとした様に息をつく。
「……あら」
彼女は遠眼鏡を下げると、首を傾げる。
「あなた、リリーの側で戦いが……」
「うむ。私も気づいたが、片方は見た覚えがある。確か……」
「ブッシュバウム侯爵家のご子息です」
遠眼鏡を取り返した彼らの息子は、淡々と答えた。
「おお、そう言えば。以前夜会で見かけたことがあったな」
「……でも、先程の方とは違っている様な」
「アンナ、私たちのリリーだ。騎士も一人ではあるまい」
「まぁ!」
「戦っているのも、きっとリリーを争っているに違いない」
「父上、赤い髪の毛の方は先程も見ました。女性です」
息子は再び遠眼鏡を覗き込む。遠目ではあるが、戦っている様子はよく
見えた。どちらかというと、赤い髪の方が優勢だ。侯爵家子息の方は、何
度も転倒させられている。
「彼女はリリーを守る女騎士なのかもしれないね」
「あなた」
「アンナ、心配することはないよ。騎士であればリリーに危害をくわえる
者などいない」
「ええ、でも……」
「それに、あの女騎士はきっと試しているに違いない。彼がリリーに相応
しいのかどうか」
夫の言葉に、アンナは深く頷いた。彼女の夫は、とても頭が良い。彼女
が困ってしまう様なことも、簡単に解決してくれるのだ。
「そう考えると、どちらを応援したらいいのか……」
「両方だよ、アンナ。彼らは正々堂々と騎士として戦っているのだ」
「あなた……」
そう呟いて、自らの母が父の腕に寄り添うのを、彼らの息子は無視した。
生まれてから今まで、彼らが喧嘩したところは見た事もない。いつでも
仲が良すぎて、むしろ子ども達の方が辟易している程なのだ。
遠眼鏡越しに妹と、その近くで戦っている者達を眺めているところで、
低い音が聞こえた。角笛だ。
「もう終わりか」
角笛にはじまり、角笛に終わる。演習や実習戦の作法だ。
「早くないか?」
「撤収に時間がかかるからな……」
「どちらが勝ったのだ?」
周囲の侍従や私兵達も言葉を交わしている。結果まで見届け、報告をし
なければならないのだ。
「……なぜ、まだ戦っているのだ?」
彼は、呟いた。
遠眼鏡の向こうで繰り広げられる戦いは、角笛の音など意に介していな
い様だった。
■
低い角笛の音は、タビーとジルヴェスターの耳にも届く。
独特のその音は長く、四方に広がった。
「時間か」
タビーは息をつく。この後は教官達が点数付けの取りまとめを行い、両
軍の点数が発表される。
途中からジルヴェスターの相手をしていて、戦いの流れを見ていないタ
ビーには、どちらが勝つか判らなかった。正直に言えば、どちらが勝って
も構わない。
実習戦の様な高揚感や使命感は無かった。両軍どちらについても裏切る
つもりだったのだ。真剣に演習戦を戦った院生達には申し訳ないが。
タビーは杖を下ろす。ジルヴェスターは呆然としたままだ。
その手にある剣は、根元から割れて散らばっている。
罪悪感でも感じられればまだいい。残念ながら、彼女の中にはそんなも
のは無かった。自惚れていたといえばそれまでだが、誰も彼女を必要とし
てくれない、そんな現実を見たくなかったのだ。
(子どもか、私は)
嗤うしかない。手を挙げれば、きっと誰かがどちらかの軍に誘ってくれ
ただろう。その手を挙げることもせず、ただ飴玉が落ちてくるのを待って
いる。タビーの行動はそういうものだ。
自分で自分が忌々しい。彼女は小さく息をつく。拗ねているくせに、自
分はここにいると主張して見せつける。裏切った瞬間、それを知った南軍
の騒ぎと北軍の喚声、いずれもタビーを満たした。
だが、終われば何も残らない。
嗚咽が漏れそうになり、タビーは目に力をこめる。泣くことを許されて
いるのはタビーではない。
「う……」
ジルヴェスターは何度もしゃくり上げた。顔を見られたくないのだろう。
彼は俯き、肩を震わせている。
結局タビーが演習で得たものは、無かった。
味方を裏切り、ヒューゴにひっぱたかれ、ジルヴェスターには戦いを挑
まれる。
自分が望んだものではあったが、砂を噛む様な不快感は残った。
それでも、後悔はしていない。してはいけないのだ。
タビーは杖を下ろす。
その瞬間、衝撃を感じて彼女は転倒した。握りしめていた杖が手から離
れる。
「!」
立ち上がり杖を取ろうとしたところで、足を固められた。
「じ、ジル!?」
思わずジルヴェスターを愛称で呼んでしまう。その彼は、タビーの足に
しがみついていた。
「まだ」
「?」
「まだ、終わらない!」
赤くなった目は、輝きを失っていない。足を抜こうとするが、思い切り
掴まれていて、動く事も難しかった。
「ちょ、ジル!離して!」
「嫌だ!」
舌打ちをし、体を捻る。
片足が抜けた。そのまま彼の側頭部を狙って蹴るが、易々と止められる。
「!」
タビーの動きが止まった瞬間、ジルヴェスターは更に距離をつめてきた。
胸ぐらを掴まれる。手を払おうとするが、彼はそれすら許さない。
ふわり、と体が浮いた。
目の前の風景が一転し、地面が一気に近づく。
反射的に受け身をとったが、叩きつけられた背中は痛い。そしてようや
く、タビーは自分がジルヴェスターに投げ飛ばされたと理解した。
「ッ」
立ち上がろうとすると、背中に力が入らない。それでも受け身を取った
分、ましだろう。足下がふらついた所で、ジルヴェスターが殴りかかって
きた。
「!」
間一髪、それを避ける。がら空きになった彼の腹に、拳を叩き込んだ。
「ぐふっ!」
体を二つ折りにして苦しがるジルヴェスターが嘔吐く。咳き込みながら
胃液の様なものを吐き出す彼を、タビーは見下ろす。
「ま、まだだ!」
口を拭ったジルヴェスターは、再びタビーに殴りかかった。それを掌で
受け止め、組み合う。足で太腿を狙うが、それは避けられた。二人の間に
空間が出来る。
「どうして、どうしてですか、先輩」
うわごとの様に言う彼と、何も言わないタビー。対照的だ。
「どうして!」
ジルヴェスターが再び距離を詰める。胸ぐらを掴まれる前に、こちらか
ら手を伸ばした。結果、互いが互いの胸ぐらを掴んでいる状態だ。
「私は、先輩、私は……」
「泣くな、お坊ちゃま」
ちょっと力を抜けば、ジルヴェスターに持って行かれる。タビーはから
かう様な口調で彼を呼ぶ。
「くっ!」
今度は彼の足技だ。膝に打ち込まれそうになったが、軽々と躱す。だが
ジルヴェスターはタビーを休ませるつもりはない様だ。立て続けに蹴り技
が彼女を襲う。そのうちのいくつかはタビーの足に当たったが、彼女は倒
れない。
頬を狙ったのであろう足技を、腕を交差して止める。腕の骨が軋む。
だが、相手の体勢は不安定だ。タビーは腕に力をこめ、押し出す。よろ
けたジルヴェスターは、数歩下がり、そして構える。
騎士専攻では体術が必須だ。タビーも体術の講義を受けたが、魔術応用
と騎士専攻では全く違う。あくまで護身目的、多少の攻撃技くらいしか教
えられない応用の体術でジルヴェスターと相対するのは厳しい。
ジルヴェスターの腕が伸びる。襟を狙った手を腕で払い、押し下げた。
反対側の腕で首元を押さえつけられる。息が、詰まった。だがここで焦
るのは愚策。首元を掴んだ腕に己の腕を巻き付け、全体重をかける。布の
裂ける音がしたが、気にしない。
タビーの上着は、首元から腰まで裂け目ができていた。もう一枚下に着
込んでいるので見栄え以上の問題はない。それでも一瞬気まずそうな顔を
したジルヴェスターの隙をタビーは逃さなかった。
「はいッ!」
足を大きく踏み出し、肘で顎下を狙う。辛うじて避けた彼に、もう一度
肘を打ち込んだ。頬を狙ったが、それは逸れ、ジルヴェスターの肩を強打
する。
「くっ」
それでも、彼は立ち上がった。
タビーの背が、ぞくりとする。そして、訳も分からぬほどの高揚感。
いつの間にか、彼はここまで成長していたのだ。
朝の鍛錬、それ以外は素振りや簡単な打ち込みくらいしか一緒にしてい
ない。騎士専攻に進んだ『お坊ちゃま』は、ゆっくりではあるが騎士の階
段を上っているのだ。
そのうち、タビーも魔術なしでは勝てなくなる時が来る。そう遠く無い
未来に。
戦っている最中だというのに、タビーは笑いを抑える事ができなかった。
もう、自分がいつも気にしている必要はない。
ジルヴェスターはジルヴェスターの道をみつけ、辿り始めた。それを実
感できる日が、こんなにも早く来るとは思わなかったが。
胸に溢れた気持ちを、タビーは抑えられなかった。
まだ構えたままのジルヴェスターを、見る。
胸が詰まった。何も見いだせないと思っていた演習。だが、それはタビー
の早合点だ。
見るべきものは、ここにある。
タビーは、静かに微笑んだ。




