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タビーは大将旗を見上げた。南軍の大将旗は獅子だ。北軍は――――。
「なんだろう、あれ」
彼女は首を傾げる。何かを描いてはあるのだが、その形がよく判らない。
「足は4本だから、熊か」
自分で口にして、タビーは納得した様に頷く。腹部も出ているし、足も
大きい。少々意匠化されているとはいえ、熊なら強そうだ。
「タビー」
大将旗を見上げている彼女に、声がかかる。
ラーズがそこにいた。その後ろには、ヒューゴ、レオポルトをはじめと
した北軍の面々。
「まにあった」
タビーはほっとする。正面でぶつかっている両軍は、南軍優勢ながらも
混戦状態に近い。もう少し遅ければ、北軍が敗走してしまう所だ。
「タビー」
前に出たのはヒューゴ。大将を庇う意味もあるのだろう。彼女も騎士寮
住まいだからラーズの事は知っていたが、交渉が出来るほどではない。ど
ちらにとっても妥当な人選だ。
「相変わらず規格外だな、お前は」
ぶよぶよとした膜の話は聞いているのか、ヒューゴはリリーとその後ろ
に隠れているクヌートを見やる。
「ようやく使えるところまで持ってきたんだ」
嬉しそうなタビーに、ヒューゴは苦笑した。
「前、アンカーと戦った時に考えてたんだけど……まぁ、まだ中から攻撃
はできないんだよ」
「俺たちは幸運だった、ということか」
「さて、どうかな」
互いに薄ら笑いを浮かべたタビーとヒューゴに、ラーズは背筋を震わせ
る。
「どのくらいまでいけるんだ、これ」
「どうぞ」
彼女は恭しく一礼をし、防御膜に覆われたリリーたちに掌を向ける。
「ちょ、タビー!」
クヌートの悲鳴と、ヒューゴの剣先。
どちらが早かったか、誰にもわからない。ただ、ヒューゴの剣はレオポ
ルトと同じくぐにゃりとした膜に受け止められ、リリーに傷一つ与える事
が出来なかった。
流石に緊張していたのだろう、リリーが小さく溜息をつく。
「万能だな、こいつは」
「そうでもない」
「そうなのか」
「うん」
二人の会話は同期が何気なくかわす会話そのままだ。敵味方と分かれて
いる現実を忘れてしまいそうだった。
「もっと効率をあげて、最終的には中から攻撃出来る様にならないと」
人が中から出られるのだ。魔術も中から出すことが出来る。その代わり
魔術を放つと膜は消えてしまうが。
そんなことまで説明する気のないタビーは、もう一度大将旗を見上げる。
「強そうだね」
「だろう」
「うん、確かに足も速いし力も強い」
「そうだな」
「いい小遣い稼ぎにもなるし」
「は?」
二人は互いの顔を見つめた。
「……小遣い稼ぎ?」
「え?だって肝とか高く売れるよ?」
「肝?」
どうやら話が通じていない様だ。タビーは再び大将旗に視線を戻す。
「強そうな熊だね」
「熊!?」
ヒューゴ以下、北軍の面々が顔を引きつらせる。
「え?」
「タビーさん、違う様ですね」
膜の内側からリリーが呟く。
「いや、でもあれ熊でしょ?」
「……だ」
クヌートは覚悟を決める為か、目を閉じて手を合わせていた。
「え?」
「犬だ!騎士と言ったら犬だろうが!!」
ヒューゴに怒鳴られ、タビーもむっとした様に彼を睨みつける。
「犬?どこが!?」
「全部だ、全部!」
「どう見ても熊じゃない。犬はあんなにお腹出ていないよ」
「筋肉だ!」
「……さっぱりわからない」
「た、タビー。その辺で。お願いだから」
呻く様にクヌートが呟く。目は閉じたままだ。
「犬……」
大将旗と、顔を引きつらせたヒューゴを交互に見やり、タビーはもう一
度、首を傾げた。
「……ヒューゴが描いたの?」
途端に顔を赤くした彼に、彼女は同情的な眼差しを向ける。残念ながら
ヒューゴは『絵心』をどこかに忘れてきた様だ。
吹き出しそうになるのをこらえるタビーに、ヒューゴはますますいきり
立つ。
「ま、待ってください」
慌てて二人の間に入ったのはラーズだ。
「寮長……じゃなくて、タビー。勝手に突出して、ナータンが怒るぞ」
「そう言われても、今朝味方になったばかりだし」
「南軍の応用は後方支援だろう?」
「さぁ、知らないな」
タビーはとぼける。ナータンが何を言おうと、タビーの行動を妨げるも
のではない。命令違反と咎められても良かった。
「タビー」
ようやく気持ちを落ち着けたヒューゴが、ラーズに並ぶ。
「いくらお前でも、最低限の魔術と杖だけで、俺たち全員を倒すのは難し
い」
「……」
タビーが不満そうに片眉を上げる。
「交渉だ。タビー、北軍につけ」
「いいよ」
「そもそもお前は南軍に……」
言いかけ、ヒューゴは口を噤んだ。その場にいた北軍の誰もが、目を丸
くしている。
「……え?」
「だからいいよ、って」
「はァ!?」
ヒューゴの声は、その場にいた北軍全員の気持ちを見事に代弁していた。
「で、どんな感じでいくの?」
「……」
ラーズは思わず一歩後じさり、レオポルト達も顔を引きつらせている。
ヒューゴに至っては、口を丸くあけていた。
「あれ?」
タビーの予想と違っている。ここはヒューゴ達が喜んで受け入れるはず、
というのが彼女の予想だった。
「リリー、投降も裏切りもあり、なんだよね?」
「ええ」
それを考えて隊を動かす必要がある。裏切る可能性のある者を側におく
のか、潰す事前提で最前線に放り込むのか。
「タビー」
ヒューゴが漸く立ち直った。
「聞かせてくれ。お前はどうして南軍についた?」
「人数が多かったから」
タビーは即答する。
「それだけか」
「人数の多い方から少ない方に寝返った方が、面白いでしょ」
どこか投げやりな言葉を返されて、ヒューゴは自分が止められなかった。
乾いた音。
「タビー!」
リリーが口を覆う。防御魔術が解けた。だが誰も動かない。
「った……」
ヒューゴは嫌な感触の残る手を握りしめた。それが震えるのを、どうし
ても抑えられない。
「お前は……」
彼の声は、怒りに彩られている。
「お前は、そんな考えで……お前は」
そこまで言うと、ヒューゴは絶句した。何を言えば良いのか、わからな
い。演習では敵味方に分かれても、仲間だとどこかで思っていたのだ。魔
術応用で、女で、それでいて男達の中で戦う彼女を、ヒューゴは大切な同
期として認めていた。
そんな感情が、一気に溢れて抑えられなかったのだ。
「だ、ダメだよヒューゴ!女の子を叩くなんて!」
驚いて飛び出てきたのはクヌートだ。涙目どころか半泣きである。今更
遅いが、彼はこれ以上はさせないとばかりに両手を広げた。
「く、熊の様に強くても!へんな魔術を使っても!タビーは女の子なんだ
よッ!」
ひっぱたかれたタビーの口元に、リリーが布を当てている。今更ながら
後悔が押し寄せた。だが、ヒューゴはそれを表に出さない。
タビーは、仲間なのだ。
どんなにいい加減な言動をしても、敵になっても、味方でも、彼女は彼
にとってかけがえのない一人の大切な仲間。
だからこそ、どこか自虐的な言葉を吐いた彼女を許せなかった。
ヒューゴは大将旗を見上げる。
正面の北軍が押し込まれ、後退しているのが見えた。
「タビー」
「ちょ、ヒューゴってばっ!もう本当にダメだから!」
必死なクヌートに、思わず笑みがこぼれる。ついこの前、実習で一緒に
なっただけの彼でも、タビーに巻き込まれて、引き寄せられていく。
タビーは、不思議な存在だ。
諸々の思いをすべて押し込め、ヒューゴはタビーに目を移した。
風にひらりと赤い髪が流れる。頬は赤いが、血はそれほど出ていない。
どこか安心したヒューゴは、ラーズを振り向く。
「大将、タビーは味方になってくれるそうだ」
「え?あ、う、おおう!」
急に話をふられ、ラーズは狼狽える。
「それで……」
ヒューゴはタビーの側にいるリリーと未だに手を広げたままのクヌート
を交互に見やった。
「お前達は、どうする?」
「私は、タビーと一緒に」
リリーは彼が予想したよりも冷静だ。
「ぼぼ、僕も!」
クヌートも慌てて頷く。ここで南軍に戻りたいなど言えない。言った瞬
間に、彼は戦わなければならなくなる。
しかも相手がヒューゴかラーズ。同期のよしみでレオポルトにしてくれ
るかもしれないが、逆に全員で打ち掛かられる可能性もある。
どれを取っても勝ち目がない。
「さて、そういうことだ、大将」
ヒューゴはラーズの肩を軽く叩いた。彼は顔をあげたタビーを、リリー
を、クヌートを見つめ、そして笑う。
こんなに面白いことがある。
だから辛い訓練にも耐えられるのだ。
「集団戦は無理だ」
「一点突破で敵の本陣に突っ込むか?」
「応用の連中をどうにかしないと無理だろう」
ラーズが剣先で引いた一本の線を挟み、彼らは必死に頭を回転させる。
「応用はこっちで抑えるよ」
タビーがようやく口を開いた。やはり痛むのだろう、少し顔を引きつら
せている。
「届くのか?」
「距離?問題無いよ。下級生に出来て私たちにできないわけがない」
彼女はリリーと顔を見合わせ、二人で笑う。
「まずは、これ以上後退しない様に」
「正面へは俺たちが行く」
レオポルトと数人が前に出た。
「タビーの裏切りを、広めるんだ」
「了解」
正面へ向かった彼らを見送り、タビーは杖を翳す。
「さて」
「ええ」
リリーも杖を翳した。
魔術応用の院生がいれば、二人の呼吸がぴったりと合っているのが判っ
た筈だ。
「弾け!」
「弾け」
タビーの声が一瞬早い。だが、展開した魔術は揃って南軍へと飛ぶ。
「……どういうことだ?」
「外的循環を合わせるのではなく、内的循環を合わせました」
「これだと、多少のずれは許容範囲になるんだ」
教官の理論は正しかった、と感心しつつ、タビーはまた杖を翳す。
「疾く!」
「疾く」
タビーの声は力強く、リリーの声は穏やかだ。だがその魔術は組み合わ
さり、思った以上の凶暴さで南軍の陣を襲う。
「なんだ!?」
唐突な破壊音に、ナータンは驚く。
「て、敵です!魔術が!」
「い、いやぁぁぁ!」
「やだ、おいていかないで!」
一定の間隔で魔術を打っていた応用の院生達が散っていく。その先に、
また魔術が落ちた。
基本的な魔術だから、威力は知れたもの。
だが、圧倒的優位に立ち、展開した魔術で北軍を一方的に攻撃するだけ
だった彼らは、立場が逆転すると脆い。
「ま、待て!」
ナータンが慌てて声をかけたときには、既に遅かった。南軍本陣近くに
いた応用の院生たちは、どこかに逃げてしまっている。
「くっ!」
また、魔術が放たれた。今度は最前線より少し後ろ、南軍よりだ。恐慌
状態に陥っている味方が見える。
北軍にも魔術応用の院生はいた。だが、南軍と同じで後方支援に回って
いる筈だ。
何よりも、北軍の魔術は南軍が突かれたくないところを的確に抉ってく
る。
――――まるで、見てきたかの様に。
「!タビーか」
今朝、味方になったばかりの寮長。その力を信じて前線においたのが仇
になったのか。
いずれにしても、状況の把握が最優先である。
ナータンは本陣から駆けだした。




