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顔をあげた先には、見たことのない男がいた。
年の頃は壮年、その瞳は遠目で見ても穏やかだ。
「こんばんは、お嬢さん」
タビーをそう呼んだ男は、にやりと笑う。そのまま、彼女に少し近づい
た。
「君を待っていたんだよ、お嬢さん」
生理的に受け付けられない声。それは子爵によく似ている。
「素晴らしく優秀な院生だ、と聞いているよ」
杖を握りしめる手に力をこめた。通用門は、相手の後ろにある。開放さ
れていないそこを通るには、自分で門を開ける必要があった。
「お嬢さん」
そう呼ばれて怖気だつ。思ってもいないくせに、そんな呼び方をされて
浮かれるほど、タビーも甘くはない。
「君は、箱を開けたのかね?」
優しい声で聞いてくるのは、箱のこと。それが何か、彼女は直ぐに判っ
た。
「……何のことか判りかねます」
箱の事を聞いてくるのは、子爵かそれに属する者。開けたか開けないか
を気にするのは、子爵と対する者だ。箱の中身を争っている、伯父という
のは恐らく彼のこと。
タビーは悟られない様に通用門との距離を測る。
魔術で飛び上がり、塀を越える方法。
相手を攻撃して、その隙に門をあける方法。
杖が手元にある今、どんなやり方も可能だ。だからこそ、敢えて慎重に
対する。
「君は、見たのだろう?あの箱を」
「……」
「素晴らしいと思わなかったかね?」
「……」
「あの箱は、子爵家の祖先が継承争いを避けるために作った。皮肉な事に
今はあの箱を争っているがね」
「私に、何の用ですか」
相手は貴族だ。爵位は持っていなくても、貴族は貴族。家名を持たない
院生がぞんざいな口を利いていい相手ではない。
「箱を、開けたのかね?」
男は繰り返した。
「それだけ、教えて欲しいんだよ」
優しく耳障りのいい言葉。その質問に答えるのは簡単だ。
「仰る意味が分かりかねます」
「これだよ」
男は懐から何かを取り出した。暗闇で形が捕らえにくいが、恐らく鍵だ
ろう。
あの箱の鍵を持つ者、それは子爵の伯父だ。
「見えません」
タビーは答えた。
「はは、夜だからね……君は特別だ、見せてあげてもいいんだよ」
猫なで声に、ぞっとした。子爵は短慮で激情家と判りやすいが、伯父の
方は粘着質でどこか不気味な雰囲気さえ感じられる。
「結構です」
あの箱のことを思い出すだけで気分が悪い。それを開けられる鍵など、
見たくも無かった。
「元々、あの箱は私のものだったのだ」
「……」
「先代……弟が、父を騙してね。私が子爵に相応しくないと。そして弟が
箱を受け継いだのだ」
男は鍵を指先で摘まんでみせる。
「おかしいと思わないかい?私の言う事を何も聞かずに弟に箱を譲るなど」
「わかりかねます」
恐らく、タビーには理解できない貴族の問題があった、もしくは問題を
捏造したのだろう。いずれにしても、タビーには関係のない事だ。
「夜も遅い。昔話にはよくない時間だ」
彼女の拒絶を感じたのか、相手は話を打ち切る。
「さて、お嬢さん。君は箱を開けたのかね?」
「開ける訳、ないでしょう」
第三者の声に、二人が視線を向けた。その隙に、男の指先にあった鍵が
奪われる。
「走って!」
タビーは弾かれた様に足を動かした。呆然としている男の傍らをすり抜
け、通用門へ向かう。
先程まで閉じられていた、今は少しだけ開けられた門へ。
「ま、待てっ!」
タビーの前を走るのは、ザシャだ。握られた手の中には、鍵がある。
ザシャに続いて、タビーは門へと駆け込んだ。すぐ後ろで門が閉まり、
間に合わなかった男は狼狽する。施錠された門をガタガタと揺すり、意味
の無い雄叫びを上げた。
不思議なことに、通用門にいる筈の警備は誰も出て来ない。
「ざ、ザシャ?」
「アーベル・ドゥーゼ、子爵の伯父です」
冷静なのはザシャだけだ。タビーは彼と子爵の伯父の顔を見比べる。
「いったい……」
「この件は、宰相府が預かる」
彼の言葉に、アーベルもタビーも動きを止めた。
「さ、宰相府?」
国の政治を司る最高機関だ。王に対しての助言を含め、相当の権力を持
つ機関である。その頂点にいるのが三公の一人、ノルマン公。宰相府が継
承について裁定をするのは、最後の手段だった。
「馬鹿な!この程度の話を、宰相府が……」
「証拠が必要ですか?」
ザシャはあくまで淡々としている。
「お帰りになれば、宰相府からの召喚状を見られますよ」
「何だと!?」
「タビーだけだったら、宰相府も動かなかったでしょうね」
だが、アーベルはジルヴェスターに会った。あまつさえ、タビーの身柄
と引き替えに、ブッシュバウム侯爵家の力を得ようとまで。
副宰相への就任も確定しているブッシュバウム侯爵、その嫡子を巻き
込もうとすれば、当然こういう結果になる。
ジルヴェスターから父である侯爵家への報告、そしてノルドの伯爵であ
るザシャの添え状。動かない方がおかしい。
「宰相府での裁定を、待たれる様に」
彼は鍵をつまみ上げた。アーベルは目を剥いて訳の分からない声をあげ
始める。
「タビー、行きましょう」
「……」
アーベルをそのままにしていいのか気になったが、さりとて庇うつもり
もない。ザシャが取り上げた鍵がどうなるのか、それも気になった。
「貴様!ノルドの犬め!」
己を罵る言葉にも、彼は反応しない。
「あのままで、いいの?」
「警備が追い払いますよ」
通用門から遠ざかり、寮が近くなったところでザシャは漸く歩みをとめ
た。
「宰相府が関われば、いずれも後戻りはできません」
「……」
「ジルヴェスターが早めに動いてくれて助かりました。正確には侍従が、
と言うべきでしょう」
「バスラー」
「そんな名前でしたか」
大人びた物言いをするザシャが、タビーの手に鍵を握らせる。
「な、なに?」
「預かっておいてください。エルトの袋があるでしょう」
「え?いや、でも、これは……」
「もう一つ」
彼は懐から巻物を取りだした。封じられているが、暗くて蝋に捺されて
いる紋が見えない。
「タビー、あなたにも召喚状がきています」




