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タビーは視線に気がついていた。
布を手に取るふりをして相手を確かめる。さりげなく顔を逸らした男の
顔を覚えて、彼女は店主を呼んだ。
「はいよ、嬢ちゃん。何が欲しいんだね?」
杖を持っていても、嬢ちゃん扱いだった。もっともタビーは未だ魔術師
ではない。このくらいの扱いの方が気楽だ。
「この布より、もう少し薄手のものはありますか?」
「こっちだな。色は?」
「染めていない方がいいんですが……」
「そいつは品切れだな。薄い色でよければ、こいつだ」
出されたのは僅かに赤みがかった布である。無地がよかったが、ないも
のは仕方ない。その布を購入して店の外に出る。
つけ回される理由は一つしかない。ドゥーゼ子爵の件だ。あんな厄介な
話であれば、教官長本人もしくは教官が引き受ければいいだけの事である。
それをしない、ということは、それなりの理由があるのだ。
――――引き受けると、厄介事に巻き込まれる。
教官長も教官も学院に所属する者、そして雇用主は女王だ。無論、直接
雇用ではないが『王立』であるからには、官吏と同じくらいの才覚、適性
が求められる。
そんな立場の彼らが、一貴族に深く関わる事をよしとする筈がない。
だからといってタビーに押しつけようとした訳でもなかった。要は、彼
女に断って貰いたいだけだ。自分たちが断ると角が立つが、魔術師の卵で
あればそれ程でもない。しかもタビーは卒業後、王宮魔術師としての出仕
をしないと名言している。最上級生の首席が断る、これ以上の力量を持つ
者はいない、として、子爵の依頼を退けたのだ。
伊達に教官長の名を掲げているわけではない。狸の中の狸だ。
市場は南北、東西をそれぞれ貫く大通りを中心に、路地裏まで沢山の店
があった。
路地に踏み入れば人気は少なくなる。相手の出方が判らない今、わざわ
ざそんな場所に行くほどタビーは危険好きではない。いつもの通り店をひ
やかし、欲しい物を買って、行きたい店を我慢するだけのことだ。
市場から学院はそれ程遠く無い。タビーはいつも歩いている。だが今日
は仕方ないだろう。タビーや偶然やってきた乗合馬車の御者台にに素早く
飛び乗った。こういうことは少なくない。御者は乗り賃さえ貰えば何も言
わないものだ。念のため運賃に少し色を付けて渡し、幌で覆われた客席へ
座る。後ろを見たが、男の姿は見えない。
(馬鹿馬鹿しい)
勢力争いや家督争いは貴族の十八番だ。どの家でもなにがしかの問題を
抱えている。それが表にでるか出ないかの違いだ。貴族の中だけでやって
いればいいものを、関係の無い第三者を巻き込むから余計に火が回る。
タビーはぼんやりと外の景色を眺めた。いつもは歩いている場所を乗合
馬車で進んで行く。見える景色も違っていた。
馬車は客に声をかけられれば止まる。面倒くさかったり、荷物を持って
いない客は好きな所で飛び降りるのが常だ。
学院の門前で、タビーもひらりと馬車から飛び降りる。乗合馬車は歩み
を止めず、そのまま走って行く。
周囲を見回したが、誰もいない。タビーは鼻歌を歌いながら、門の中へ
入っていった。
■
勢力争いや家督争い以外にも、貴族の十八番はいくつかある。
淑女の嗜みといえば、夜会や茶会、観劇に刺繍、それこそ枚挙に暇がな
い。学院の淑女養成課ともいえる教養課程では、その全てを完璧に教えこ
まれるという。教養課程で優れた成績を残した者の中には、王妃になった
者もいる。貴族の子女達が憧れる、それが王立学院の教養課程だ。
タビーがその教養課程にいたのであれば、問題無く断れただろう。
残念ながら彼女は魔術応用所属、そして騎士寮在寮、むくつけき男達の
中で生活し、淑女の教養とは縁遠い。
「奥様からの招待状でございます」
だから、呼び止められていきなり封筒を恭しく差し出されても、それな
りの対応ができないのだ。
差し出してきた相手には見覚えがある。ジルヴェスターの若い侍女だ。
彼が騎士寮に住む様になってから、洗濯や掃除など身の回りのことはバ
スラーが通いで行っている。沢山いた侍女、侍従は全て侯爵家に戻された。
そのせいか若い侍女は以前とは違う、一目で上等なものと判る服を身に
つけていた。これが侯爵家の侍女服ならば、憧れる者も多いだろう。
「あ、急いでいますので」
思い返しても、タビーの対応は最悪だった。
言い訳が許されるなら、その時の彼女は、次に行われる薬術実習に向け
て移動中、しかも講義開始時間が迫っていたのだ。
侍女とはいえ、侯爵家の使いである。タビーは言動は不遜以外の何物で
もない。講義が終わってから、ふとその使いの事を思い出したタビーは青
ざめた。ジルヴェスターと懇意にしている事を、鼻に掛けていると思われ
てもおかしくない。侯爵家から咎められたら、タビーに逃げ道はなかった。
「奥様からの、招待状でございます」
よって、二度目に呼び止められた時、彼女は逃げる訳にいかない。
侍女は先程きた者ではなく、タビーに練習着の事を聞きに来た、侍女長
らしき者だ。
「あ、あの……」
招待状を受け取りたくない。だが角の立たない断り方が思いつかなかっ
た。
奥様、と言うからには侯爵夫人だ。
侯爵夫人と言うからには、ジルヴェスターの母親でもある。
そんな高貴な身分の方が、何故タビーに招待状を出すのか。
「さ、先程は侍女の方に失礼をいたしまして……」
頭を下げつつ言葉を濁した彼女に、侍女長は少しだけ微笑んだ。
「お急ぎのところに、お声がけした私どもの至らなさ。こちらこそ申し訳
なく思います」
「い、いえ……」
ますます断りにくい。
「あの、申し訳ないのですが……私に招待状を戴く理由がなく……」
言い訳になっていない。どう断れば許されるのか、タビーは困惑する。
「お忙しいことは重々承知しております。ただ、奥様は是非、お会いした
いとのこと」
侍女長は改めて封筒を差し出す。
「どうか、お越しいただけないでしょうか」
「……」
受け取るべきか、断るべきか。
「……」
差し出された封筒を、タビーは受け取った。上流階級に通用する断り方
を知らずにいた自分自身に、内心悪態をつく。
「ありがとうございます」
にこやかな笑みを浮かべた侍女長に、タビーもどうにか愛想笑いを返す。
「あ、あの、ご招待は光栄なのですが……私、その、ドレスとかは……」
「制服でお越しくださいませ」
「……」
「当日は、馬車でお迎えにまいります。バーデン伯爵もお越し下さるとの
ことですので、ご一緒に……」
「え?」
バーデン伯爵。それはダーフィトの貴族ではなく、ノルドの貴族。
その名を、ザシャと言う。
「ザ……バーデン伯爵も、一緒……ではなく、伯爵に、同行するというこ
とでしょうか」
お互いに呼び捨てにしていても、ザシャは伯爵だ。対外的にはタビーが
下である。
「さようでございます」
「……」
「それでは、当日お迎えにまいります」
深々と頭を下げた侍女長と、少し離れた場所に立っていた護衛らしき
2人を、タビーは呆然と見送る。
その姿が見えなくなって、彼女はようやく我を取り戻した。その瞬間
走り出す。
――――行き場所は、決まっている。




