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タビーは馬を走らせていた。
障害物はないが、少し坂になっている馬場だ。訓練用のここは、併走で
きるのは3頭までと制限されており、その分全速力で走らせることが出来
る。
タビーは馬を追った。手綱と拍車から出される指示に、馬は更に速度を
上げる。耳元で風が音を立てた。
坂道を登り切ったところで軽く手綱を引き、速度を落としていく。ゆる
く駆けさせながら、馬の首を軽く叩いた。
タビーは馬が好きだ。
馬に限らず動物は好きだった、前世の頃から。前世の記憶は曖昧で、何
かを飼ったという覚えもなかったが、今後どこかに落ち着いたら動物を飼
いたいと思っている。いずれは、馬も欲しい。
速歩程度まで速度を落とし、平地の馬場へ向かう。学院に来るまでは騎
士団にいた馬たちだ。訓練はされていたが、学院でも時折訓練をつける。
訓練をつけられるのは教官から許可された院生だけで、タビーは今年度
に入ってから許可が貰えた。ヒューゴたち騎士専攻の院生達は、もっと早
くから許可を得ている。
「よーしよし」
軽く頭を上下に振る馬を宥めながら、四角い馬場に入った。ここで軽く
走らせ、馬の調子を整える。
「よう、タビー」
馬場の柵から、カッシラーが声をかけてきた。
「教官」
彼は柵をひょいと越えると、馬の手綱を取る。
「呼び出しかかったぞ」
「え?私ですか?」
「ああ。ベック教官長だ」
ベック教官長は魔術応用の責任者だ。杖を創り出した後も、何かとタビー
を気に掛けてくれていたが、呼び出しを受ける様な心当たりはない。
促されてタビーは馬から降りる。入れ替わってカッシラーがひらりと馬
に乗った。
「後はやっとくから、さっさと行け」
「何の用とか、仰ってましたか?」
「いや。じゃ伝えたからな」
教官は機嫌良さそうに馬を走らせ始める。馬は任せても大丈夫だ。それ
よりも呼び出しを受ける理由が判らなかった。
訓練だったため、杖もなく服も練習着だ。杖を取りに戻るべきか、と思っ
たが、取り急ぎこのまま行く事にする。咎められたら出直せばいい。
ベック教官長の部屋は、教官室がある学舎の最上階だ。馬場からは随分
と距離がある。急ぎ足で向かったが、部屋に着いた頃には随分時間が経過
していた。
一息ついて扉を叩く。
「タビーです」
中から応じる声がしたのを確認し、静かに扉を開けた。
「ようこそ兄弟よ。深淵の縁に集う者よ」
ベック教官長はタビーを見て頬を緩める。
「遅れまして、申し訳ありません」
「気にしなくて良い。呼びつけたのはこちらだ」
教官長はゆっくりと立ち上がると、執務机の前にある椅子を指さした。
「座りなさい、タビー」
「はい」
彼女はゆっくりと視線を動かす。そこに先客がいたことには気づいてい
たが、紹介される前に眼を合わせたり、じろじろと見ることは礼儀として
許されていない。顔を俯かせたまま、タビーは椅子に座った。
「紹介しよう。ドゥーゼ子爵だ」
相手が貴族であれば、タビーの立場は明確である。さっと立ち上がり、
深く礼をした。
「タビーと申します」
「どうぞ、顔をあげてください」
「ありがとうございます」
タビーが顔をあげると、子爵は椅子を勧める。子爵の表情は柔和で、育
ちの良さが感じられた。金色の髪は後ろでまとめられている。
「失礼します」
彼女はもう一度椅子に座り直す。最初から紹介しないのは、教官長に何
らかの考えがあるか、もしくは子爵とタビーの立場をすっかり忘れていた
かのいずれかだ。
「子爵殿、いかがなされる」
「教官長から、お話いただけますか。私はその後に」
「ふむ」
執務用椅子にゆったりと背を預けていた教官長は、姿勢を正す。
「タビー」
彼の声は落ち着いている。
「子爵殿は今、非常に困っている」
「はい」
「それでここに助けを求めてきた」
タビーは耳を傾けた。
「ドゥーゼ子爵殿と紹介はしたが、実は子爵殿は未だ正式に爵位を継いで
いない状況だ」
この段階できな臭い。先を聞きたくは無かったが、中座が許される立場
ではなかった。
「子爵家では後を継ぐ者に残される箱がある。跡取りはその箱をあけ、中
のものを身につけた状態で陛下へ拝謁をするのだ」
爵位を持つ者が世代交代をした場合、王もしくは女王への拝謁が許され
る。公・侯爵であれば個別に、伯爵であれば貴族達が揃う中で、それ以下
は決められた場所に『偶然通りかかった』王や女王に、離れたところから
視線を向けられる程度だ。彼らの機嫌がよければ、近くに招かれたり声を
かけられたりすることもある。
これを持って、爵位継承を認められた、という流れになるという。
「その箱を、君に開けて欲しいのだ」
「……」
タビーは教官長の顔を見つめた。相手の思惑がまったく見えない。
「箱には、鍵がかかっている」
ぽつりと子爵が呟いた。
「その鍵は、伯父上が持っているのだ」
その先は聞かなくても判る。恐らく伯父が爵位を継ぎたいがために鍵を
渡さないのだろう。箱が開けられなければ、中身を身につけられない。
だがそれだけで、学院のしかも魔術師の卵でしかないタビーに話がくる
とは思えなかった。
「……時間がない、ということでしょうか」
「是である」
「王宮魔術師へ、依頼をするべき件だと考えますが」
事は爵位継承に関わるものだ。一介の院生であるタビーが受けられる様
な案件ではない。
彼女の言葉に、教官長は視線を子爵へ移し、頷いてみせる。
「伯父上の奥方の弟が、王宮魔術師として出仕している」
下手をすれば箱そのものが相手に渡ってしまう。その可能性が否定でき
ないからこそ、王宮魔術師には依頼できない。
子爵の言葉に、タビーは状況を理解した。
「そもそも、私の父は次男で爵位を継ぐ立場にはなかった。本来であれば
伯父上が継ぐはずだったのだが……」
その先は言葉を濁される。某かの不祥事があったのだろう。そこを聞き
たいとは思わなかった。
「箱の鍵に、複製はないのでしょうか」
「ない。鍵は代々の当主が持つ」
「ですが今、鍵は……」
「伯父上が持っている。亡き父からだまし取ったのです」
悔しそうな顔をする子爵に、タビーは何も言わず教官長を見る。
「子爵殿は様々な方法で鍵を開けようとしたが、それは叶わなかったそう
だ」
そして最後の可能性として見出したのが、ベック教官長だと言う。
ドゥーゼ子爵も学院の卒業生で、教官長を知っていた。その微かな伝手
に縋るしかない状況なのだ。
タビーは困惑した。
彼女は魔術応用の院生で、魔術師の卵という立場だ。学院で教わる魔術
は一通り発動させることができるが、それならば出仕していない独立した
魔術師に頼む方が確実である。
「魔術で壊すという……」
「それはいけません」
子爵が強い言葉で拒否した。タビーと教官長の顔を見て、恥じた様に彼
は俯く。
「申し訳ありません。ですが、箱を破壊せずに開けなければ……中身が壊
れてしまうかもしれないのです」
「失礼を承知で伺いますが、中身は何でしょうか」
「子爵家紋章の入った、ブローチの様なもの、と聞いています」
継承時以外に箱が開けられる事がないため、継嗣でもそれ以上は判ら
ない。
「魔術を使わずに開ける、ということでしょうか」
「魔術は使っても構いませんが、箱を破壊しないで頂きたいのです」
「それが叶わない場合は」
「伯父上から、鍵を奪還して頂きたい」
「教官長」
タビーはすっと立ち上がった。子爵は彼女の行動に目を見張る。
「この件について、私では対応できかねます」
「なぜか」
「魔術で開ける事を試す、それは構いません。ですが、奪還となるとこれ
はもう私の出るものではない筈です」
人から強引に物を奪う、それは略奪と同じだ。説得して渡して貰うこと
よりも先に『奪還』という言葉が出る段階で、タビーの出る幕はない。
「ま、待って下さい。本当に、もう頼るところがないのです」
「冒険者ギルドに行けば、盗賊や魔術師がいます。きちんとした依頼なら
ば、彼らは受けるでしょう」
「冒険者ギルド!その様なところに、頼むことではありません!」
やや感情的になりだした子爵を、タビーは静かに見つめた。
「私では、お役に立つことはできません」
これ以上、話を聞く気にはなれない。聞けば聞くほど泥沼にはまる。
継承が絡むと厄介なことになるのは、王女の時に経験済みだ。
「ここでの話は、他言いたしません。教官長、失礼します」
それだけ告げると、タビーは引き留められる前に部屋を飛び出した。