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タビーと騎士の犬  作者: 弾正
貴種
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 あれからどうやって調合室まで辿りついたのか。

 気づけばタビーは、無心で調合につかった鍋を洗っていた。深い鍋は厚い

金属製で出来ていて、ちょっとやそっとの力を込めたくらいでは破損しない。

 その鍋を力任せに磨いているうちに、ようやく冷静になれたのだ。


『タビタ』


 そう呼ばれる事を忘れようと決めて、どの位が経過したか。

 トビアスがその名を呼ぶまで、意識すらしたことがなかった。フリッツに

呼ばれた事があったが、その時とは比較にならない位、悪意に満ちた呼び方

だ。


 貴族に隠し子がいたり、落とし胤がいることはそれほど珍しいことではな

い。その子が長じて英雄や優れた魔術師になった童話や小説は、世間にいく

らでもある。

 

 力を込めていた手が痺れてきた。タビーは漸く肩の力を抜く。


 トビアスがどこからこの話を入手したのかは判らない。

 あの様子であれば、くだらない脚色をつけた噂話は明日にでも出回るだろ

う。一度流れてしまった噂は、とどまる事を知らないのだ。

 ハイモの様に、巡っていくうちに脚色され、面白おかしく吹聴される。

 所詮、暇つぶしの噂話でしかない。


 ドルン家が窮乏しているとは、思ってもみなかった。

 彼女をあの家に囲い、閉じ込めているつもりだったのだろう。タビーがた

だの幼子であれば、そのまま閉じ込められていた筈だ。

 

 だが、タビーは前世の記憶を持っている。

 そして、そこでも彼女は似た様な境遇にあった。


 最初は、家の扉を開き、周囲を歩く程度。

 慣れてきたら少しずつその行き先を増やし、市場やギルドの存在を知った。

 商業ギルドに仕事があること、6歳になれば仕事が請けられることも。

 その頃からタビーは家の事を忘れる様にしていた。


 家に囲われたタビーを気にする者はいなかったし、せいぜい飢え死にしな

い様、人を使って食料を置いていく程度の扱いだ。その段階で、タビーは家

族という者と縁が無いということを悟った。前世の事もある。それからは、

一人でどうにか生きてきたのだ。


 トビアスは、タビーの事をしらない。

 彼の思い込みで作られた、貴種であるタビタという存在と、彼の同期でも

あるタビーの存在を同じと見なしている段階で誤っている。

 とはいえ、真実の入り混じった虚構ほど早く回るのだ。


 噂に煩わされるであろう日々を予想し、タビーは重い溜息をついた。



 ダーフィトの貴族は、大まかに三つの派閥に別れている。


 近衛騎士隊を擁するディヴァイン公爵派。

 血族から代々の宰相を出し、文官に大きな力を持つノルマン公爵派。

 そして、強大な騎士団を持つシュタイン公爵派。


 いずれの貴族もこのいずれかに与しており、中立や日和見派というものが

殆どいない。まれに派閥を越えて縁組みをしたり、他の派閥へ鞍替えするこ

とはあるが、基本的に派閥内の結束は固い。

 逆にいえば派閥外の貴族については、必要最低限の情報しか持っていない

ことが多かった。


「ドルン子爵?」

 同期に聞かれたヒューゴは、その家名に聞き覚えがあった。

「確か、ディヴァイン公爵の傘下だったか……」

 必要最低限の情報しか持っていない、とはいえ、どこで本人や縁者に会う

か判らない。家名と最低限の情報については、貴族の子息、子女であれば大

体把握している。

「そうなのか?」

「ああ、というより、何故いきなり子爵の話が」

「なんだ、まだ知らないのか」

 同期は周囲を見回し、声を潜めてヒューゴの耳に口を寄せる。

「タビーが、ドルン子爵の落とし胤だって噂だぜ」

「……」

 彼はその話に少しだけ目を見開き、そして呆れた様に笑った。

「どこでそんな話が」

「いや、俺もさっき聞いたんだけど。なんか、少し前から噂があって」

「子爵令嬢、か」

 学院には本物の子爵令嬢も多数いる。彼女達は大抵が教養課程に所属し、

日々淑女としての知識を学ぶのに忙しい。他の専攻課程に比べれば、時間が

ゆったりと流れて、世間ずれしていない令嬢達ばかりだ。

「タビーが?」

 相手と己に問いかける様に彼は呟き、次の瞬間ぷっと吹き出した。

「あ、あれが……子爵令嬢」

 くくく、と笑いをこらえるヒューゴに、同期は戸惑った表情をする。

「違うのか?」

「お前、考えてみろよ。子爵令嬢なら、他にも応用にはいるだろう?」

「そりゃそうだけど」

「比べたら一発だ。ありえん」

 魔術応用には貴族子女もいた。確かに彼女達と比べれば、タビーは全く令

嬢らしくない。

「で、でもさ。落とし胤だと知らなくて、普通に育ったらさ」

「まともな貴族なら、そこら辺は抜かりない」

 出自不明な落とし胤ほど怪しいものはない。子どもの父親を一番良く知っ

ているのは母親だ。本当に落とし胤であれば、それなりの対応をするのが貴

族である。

「本人が知らないって事もありえるだろ?」

「知らないならますます不思議だ。どこから出た、その話」

 噂話は貴族の嗜み、とはいえ、根拠の無い噂を口にするほど貴族も馬鹿で

はない。特に家にまつわる噂話は相続が絡むため、下手な口出しをすると巻

き込まれる。

「まぁ、百歩譲ってタビーが子爵令嬢としてだ」

「ああ」

「それが何か、俺たちに関係あるのか?」

 ヒューゴの問いかけに、同期は首を傾げた。確かに、彼女が貴族令嬢であ

ろうと庶民であろうと変わりは無い。

「そういえばそうだな」

「ドルン家は、かなり前から大変な状況らしいからな。相続するものがある

わけでもなし」

 現在のドルン子爵は病床にあり、当主の仕事は一人息子が代理で行ってい

る。屋敷等の処分も、その息子が手配していると聞いていた。

「じゃ、やっぱり嘘なのか?」

「そこは俺もわからん。ドルン家の状況から考えて、本当に令嬢だったら今

頃どこかの商家とか大貴族に嫁がせているだろう」

 貴族の娘を妻にする、ということは、貴族位を持っていない富裕層にとっ

て憧れのものである。実際、多大な援助と引き替えに嫁ぐ貴族子女の話は珍

しくない。

「そんなもんか」

「しっかし、よりによってタビーが……令嬢……」

 ヒューゴは笑いをこらえているのか、唇が変な風に歪んでいた。

「おい、笑ったら悪いだろ」

「いや……あのタビーが、ひらひらの服を着て『ごきげんよう』とか……だ、

だめだ、くくっ」

 ついには吹き出してしまた彼に、同期もつられて笑う。

「言われてみれば……やべっ、見たいような見たくないような」

「そもそも、あいつ踊れるのか?絶対に相手の足を踏むぞ」

 貴族子女の嗜みに、夜会でのダンスがある。どう贔屓目に見ても、タビー

が優雅に踊れるとは思えなかった。

「ヒューゴ、お前案外言うな……」

「いや、あまりにどうしようもない話で……」

 苦しい、と言いたげに、ヒューゴは机に突っ伏す。暫くしてから顔をあげ

た彼の眦には、笑いすぎのせいか涙まで浮かんでいた。

「誰が言い出したか知らんが、恐ろしく現実離れしてるな」

「だよな。いや、悪ぃ。変なこと聞かせちまって」

「動揺するのは判る。あんな杖を振り回しているタビーがなぁ……」

 再び笑い出したヒューゴに、同期は呆れた様な眼差しを向けた。

「そこまで笑ったら、可哀想だろ。アイツも一応女なんだし」

「そうだが……駄目だ、本気で腹が……」

 ようやく笑いをとめたヒューゴは、真顔になる。

「変な噂だが。もし気になるなら、本人に聞いてみたらどうだ?」

 タビーは人見知りをするほどではない。非常に私的な話ではあるが、噂の

真偽を確かめたい、と聞けば、答えてくれるだろう。

「俺は、否定する方に賭けてもいいな」

「何を賭けるんだって」

「向こう一週間の夕食を全部」

 平然と言い切るヒューゴに、同期はお手上げだという様に笑った。

「しっかし、言われて見れば変な噂だよな。何でだ?」

「さぁな。まぁ、寮長になったこともあるし、変なやっかみじゃないのか?」

「あー、そういう面倒いの、俺ダメだ」

「俺も遠慮したいな。ようやく自分の事に集中できる様になったんだ」

 寮長の仕事は多岐に渡る。副寮長になったヒューゴだが、今までよりも時間

に余裕ができる様になった。最終学年、騎士団の入団試験に向けて全力で向き

合いたいと思っている彼には、今の立場が丁度良い。


「あー、ヒューゴ。悪いけど、この話は……」

「言わない。というか、言えるか、こんな話」

 馬鹿にされるのがおちだ、と続け、ヒューゴは肩を竦める。

「だな。まったく、変な噂が出たもんだな」

 手をあげて去って行った同期を見送り、彼はまだ笑いをこらえた様な表情の

まま、次の講義の支度を始めた。


(誰が流した噂だ?)

 表情とは裏腹に、ヒューゴは胸の内で考える。

(本当かどうかともかく、この時期にこんな噂を流すのは……)

 予想がついたところで、彼は胸の内だけで溜息をつく。財政に進んでから、

性格の悪さに磨きがかかった様な男の顔が思い浮かんだ。


(トビアスめ)

 タビーを使って騎士寮に揺さぶりをかけてきたのか、それとも収まった庶民

排斥運動の一環かは判らない。だが、この様な噂を流すのは、彼くらいしかい

ないだろう。

 くだらない内容でも、信じてしまう者がいる限り噂は止まらない。

(どうするか)

 講義開始の鐘が鳴る。

 教本を開きつつ、ヒューゴは厄介な噂をどうするか考え始めた。



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