179
クヌートは呆然と陣を眺めていた。
彼を抱えている騎士専攻の同期をどうにか説き伏せ、東側の本陣に戻って
きたのだ。
だが、これは。
陣へ行く前の道は、何故かなだらかな下り坂になっていた。
その先は、奧にかけて曲がり上へと続いている。
「総隊長?」
上から覗き込んできた魔術応用の院生が声をかけた。
「こ、これなに?」
「ええと……タビーが、陣周りを変えてもいいといったので」
上へ続く部分は湿っている。担ぎ上げられたまま手を伸ばして触れば、ず
るりと指が滑った。
とてもいい、湿り具合である。登るには足場も何もかも不安定すぎた。
「僕はどうやったら上がれるわけ?」
「な、無理だって言ったろ?」
クヌートを抱えていた騎士専攻の院生は苦笑する。
「タビーのお仲間だからな。このくらい当たり前だ」
「何、感心してんの!」
クヌートは悲鳴をあげた。
戦いの渦からどうにか逃げた、と思ったら、本陣には辿り着けない。この
ままではまた相手に追いかけ回される。
「さ、行くぞ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
クヌートの静止も彼は聞かなかった。
「よい戦いを!」
本陣にいる応用の院生達に声をかけられ、クヌートを担いだ男は照れた様
に手をふる。
「さ、行くか」
「いやだからちょっと待って、待ってってば!」
■
「……」
ザシャは手元の羊皮紙に兵の動きを記していた。だが目は集団戦から離れ
ていない。
「なんで柵を倒さないんだ?」
ジルが不思議そうに呟くが、無視する。ザシャの頭の中では、様々な可能
性が巡っていた。
「先輩は見えないし」
ジルは不服そうである。見学席より近いとはいえ、人の顔を認識できる程
ではない。もっと近くで見たいのだろうが、これ以上近づくと教官に見つか
る可能性があった。
「……本陣が、動いてる?」
集団戦を見ていたザシャが呟く。ジルはその視線の先、東側本陣を見た。
「なに、あれ」
いつの間にか、崖の様な形になっている。本陣はやや突き出し、その下が
曲線を描いてそげ落ちていた。あれでは本陣に辿りつくのは難しい。敵はも
ちろんのこと、味方もだ。
「……本陣には、誰もいないのか」
普通であれば総隊長が指示を出す。だがあの状態ではクヌートもしくは彼
のかわりに指示を出す者が本陣にいるとは思えなかった。
「どこにいる?」
ザシャは目を凝らす。総隊長の腕に巻かれた布を取られれば負けだ。相当
の人数が守っているはずである。だが敵味方入り乱れている集団戦の中に、
それらしき塊はない。
(逃げている?逃げ切れるのか?)
総隊長が誰か、知らされなければ逃げるもの一つの手だ。だが、この集団
戦は総隊長が誰かも知らされている。無闇に中衛あたりにいるとは考えづら
い。
ザシャは手元の羊皮紙をまとめ、周囲の木を見回す。
「ザシャ?」
ジルの不思議そうな声にも返事をせず、彼は木を降り始めた。
■
「タビー!」
呼ばれて彼女は足を止めた。
「本陣の守りはがっちりだったぜ」
「よかった」
「後ろを心配しなくていい、ってのは楽だな」
「そうだね」
「そうだね、じゃないよッ!」
騎士専攻の男は、クヌートを担いでいた。
「僕だって戻れないじゃないか!」
「あそこにいたら、狙われるよ」
「ここだっておんなじ……きたっ!」
打ちかかってくる相手を素早く避け、杖で遠ざける。
「カール、交代するぜ!」
「おうっ!」
前衛から戻ってきた味方が声をかけてきた。カールは担いでいたクヌート
を、相手に放り投げる。悲鳴は、黙殺された。
「ようやく出番だな!」
意気揚々と走っていたカールを見送り、院生はクヌートを担ぎ直す。
「タビー、前衛は危ないぞ。ぶつかり合ってる」
「応用が入れる様な場所じゃない?」
「お前、多分殴られて終わるぞ」
「……」
血気に逸った者は何をするか判らない。クヌートの布を取ろうとする者も
いれば、代理で指示を出す副隊長や走り回るタビーを潰そうとする者もいる
筈だ。前衛に行くのは得策ではない。
「さっき、魔術応用を全員倒せなかったんだよね」
「あいつらは下げられた。どうする?」
放り投げられたショックで目を回していたクヌートが、ようやく持ち直す。
「な、なんていう……」
文句すら浮かばない衝撃だった様だ。
「右か左か……手薄な方に回るか」
「一緒に行くか?囮で」
この場合の囮は彼でもタビーでもなく、担ぎ上げられたクヌートである。
「前衛が判らないしなぁ……副隊長は?」
「最前線でお楽しみ中だ」
肩を竦める相手に、タビーは苦笑した。
「よし、手薄な方に行ってもらえる?」
「おうよ」
「攻めてくる人数が増えてきたら、中衛に下がって。そしてまた手薄な方へ」
「それって囮じゃない!?」
クヌートの抗議を、二人はさらりと無視する。
「じゃ、よろしく」
タビーは攻め手の勢いが激しい左側へと走り出した。
ヒューゴが指揮する西側の先陣はタビーがいるあたりまで入りこんでいる。
総隊長のクヌートは常に動いている状態だから、本陣に座らせておくより
安全だ。
「こっちも、向こうへ行かないと駄目か」
なんとかヒューゴを引っ張り出したい。既にクヌートが前衛や中衛あたり
をうろうろしていることに気づいている筈だ。それを聞いて前に出てくるか、
逆に動かずに駒だけを進めてくるか。
だが、相手が入り乱れる中を突破するのは容易ではない。特にタビーは騎
士寮にいることもあり、顔が知られている。容赦なく狙ってくる者も多い。
またヒューゴ自身が守られている可能性がある。彼だけではなく、他の院
生を相手にすれば、タビー自身が持たない。
「出て来てくれないかな」
その方が攻めやすくなる。そう簡単にはいかないだろうが。
打ちかかってきた相手を避け、格子状の柵に駆け寄る。そろそろ柵が倒れ
そうだった。足で柵を蹴ると揺れる。かわした相手が再度打ちかかってきた
ので、そちらに神経を集中した。
タビーの武器は杖だ。剣と競り合うのはコツが必要だが、槍であればほぼ
対等である。振り回された槍を強引に押さえつけ、抑え込む。競り合いにな
れば、タビーが有利だ。全体重をかけ、じりじりと押さえ込みながら競って
いく。相手が力を抜こうとした所で押し込み、膝を蹴り上げた。
「いってぇぞ、タビー!」
「ごめん!」
顔見知りと戦うのはやりづらい。顔を顰めた相手に言葉だけ投げつけて、
タビーは乱戦状態の左側へ飛び込んでいく。
「柵が倒れるぞ!」
「押し込め!」
こちらに入りこんできた相手方を柵に押しつけ、体重を掛けていく。柵は
ぐらぐらと揺れ出した。
「もう少しだ!」
押し返そうとする相手の手を、タビーが魔術で弾く。大した威力ではない
が、瞬間的に手を放させる事ができた。
「押し込め!」
再度の声がけに、味方が一斉に柵へ飛びつく。させまいとする相手方を足
で蹴り、手で押しのけ、全員が力を込めて押し込んだ。
「倒れるぞ!」
悲鳴の様な声が上がり、柵がゆっくりと倒れていく。相手方は潰されない
様に一斉に退いた。
「今だ!」
その声に、タビーも全力をこめて柵を押していく。何度か揺れた後、柵は
重い音をたてて倒れた。土埃が舞う。
「げ、げほっ」
土埃を吸い込んでしまったタビーは派手に咳き込んだ。目も痛い。
「足下気をつけて!」
それでも進む味方に声を掛けていく。左側の柵が倒壊した影響で、中央、
そしてその先の右側柵も傾いでいた。
「行かせるな!」
相手方の前衛が叫ぶ。それを止めるかの様にタビー達が進んで行く。
「出過ぎるなよ!」
どこからか副隊長の声が聞こえた。タビーは足を止め、杖を翳す。
「弾け!」
小さい火球がいくつも浮かぶ。タビーが杖を振ると、その魔術は敵方の足
下を襲った。
「うわっち!」
唐突な足下への攻撃に慌てる相手方を、味方は徐々に散らしていく。彼女
は杖で応戦しながら、中央へと進んだ。
「弓隊、構え!……放て!」
遠くからの声に、タビーは空を見上げる。矢が飛んでくるのが見えた。
「頭!気をつけて!」
何人かには当たった様だ。先は丸めてあるとはいえ、それなりの速度で飛
んでくるものは痛い。タビーも必死で避けたが、2本ほど腕を直撃した。
「いたた……」
じわじわと広がる痛みをやり過ごし、打ちかかってくる相手を避けつつ杖
を大きく回す。相手方が反射的に避け、タビーから距離を取った。そこに味
方が突っ込んでくる。
「陣を狙うぞ!」
副隊長の檄に、味方が吠えた。
その声に後押しされる様に、タビーは走り出す。
目指すは、ヒューゴだ。




