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タビーは、紋様の写しを眺めていた。
複雑に絡み合った線と点で構成されている紋様は、結界への手がかりと言
われてもピンとこない。むしろこれのどこが手がかりになるのか、とさえ思
う。
初めて会った時、少しだけ見た他の紋様も同じだった。点と線。あれを髪
飾りの編み図に変えたフリッツの能力は、愛だから、なのか。
紋様を指先で辿る。
複雑に見えるが、点と線さえ見誤らなければ複写も容易だ。指で辿ってい
けば、点がない部分に行き着く。ここから先が、フォルカーの持っていた図
に繋がるところか。
『最果ての谷』は、その深さも判らず長さも大地を分断するほど、と教本
にあった。
英雄譚でも、谷の東端から西端まで絶え間なく魔獣が沸いたと記されてい
る。それだけ長い距離の結界が、こんな小さいものなのか。
「……つなげていくのかな」
タビーの手元にある紋様はこれだけだ。卒業し、彼女の望みが叶う頃には
どのくらいの紋様が揃っているか判らない。
全ての紋様を揃えた時、この結界が発動できるのか、それとも単なる手が
かりで、他に結界を張る方法があるのか。フォルカーは魔術師でなければ出
来ない、と言っていたが、それが真実かはやってみなければ判断できない。
タビーはしまい込んでいたフリッツの編み図を取り出した。
編み図と写しを重ねると、一部分は同じだったが他の部分は違っている。
これはフリッツが手を入れた所だ。編み図は正方形になっており、端は飾
り編みで止められている。写しには飾り編みの部分はない。
「愛かなぁ」
フリッツの、ラーラに対するあの行動は、愛というよりは執着、粘着とで
もいうべきものだとタビーは思っている。直接話す機会があっても、彼はそ
うしなかった。照れている、気恥ずかしい、そんな感情ではなさそうだ。た
だ見ているだけ。社交界に入ったばかりの子女でもないのだから、さっさと
口説けばいい、とタビーは思っている。手紙ではなく、言葉で。
その愛の一つである髪飾りは、手慣れていれば誰でも編める筈だ。フリッ
ツの時は特製の糸が用意されて――――。
「糸」
タビーはもう一度編み図を見る。そして、写しに視線を移す。
「これが編めるなら……」
写しにある紋様も編める筈だ。線になればいいのなら、糸を張るだけでも
いいかもしれない。ただその場合、弛んでしまったら意味がないが。
「編める?」
タビーはエルトの袋から補修用の糸とかぎ針を取り出した。何処にでもあ
る道具だ。フリッツの編み図を参照しながら、写しの紋様を編んでいく。
基本は、点と線。
点というよりは小さな輪になったが、それを基点に糸を編んでいく。前世
のレース編みの様なものだ。糸が撚れない様に強めに編む。点と点同士が結
ばれた所で手を止めた。
「編める……」
タビーは紋様を少しずつ辿る。
『だけど結界が見える訳じゃないんですよね。叩いてもわからないし』
結界は目に見えない。
『アーヴァインが作り出した結界は、複雑な紋様をしていて』
だが手元にある写しの図は、単なる点と線の集合体だ。解釈本を信じるの
であれば、結界はもっと複雑な紋様の筈である。
この手がかりをフォルカーはどうしようとしているのか、タビーは深く聞
かなかった事を後悔した。
失われた魔術は結界を創り出す魔術。
この紋様を揃えるだけでいいのか、それともそこに何らかの力が必要なの
か。それこそ、膨大な魔力が。
魔力は目に見えないのが普通だ。己に魔力があるかどうかは、確認の為の
道具を使う。タビーも学院の入学試験で体験した。その後、講義の中で何度
か魔力の量を量った事があるが、いずれも道具に嵌めこんである石や球の色
変化で判断している。魔術を行使、展開した時に炎や風の刃等が見えるのは
魔力が力になったからであって、魔力を見ているものではない。
タビーは立ち上がり、そして机の上に置いた移しと編み図、そして編み物
を見比べる。
「糸や図では、何の意味もない」
フリッツはローブの裏側にこの紋様を入れていたが、何の効果もないと言っ
ていた。一部分を書いただけでは発動しないとタビーは推測する。
「……魔力を、使えば?」
彼女は写しを見つめる。
糸でも図でもなく、魔力を使ってこの紋様を作り上げる。
「そんなこと」
講義では聴いた事がなかった。それにもしこれを魔力で作るなら、見えて
いないと正しく作れない。
最低でも紋様の全容が判らなければ、結界がどんなものか識ることもでき
ないのだ。
タビーは真剣な眼差しで写しを見つめる。
今はただの、点と線の集合体を。
■
『最果ての谷』の傍らに、彼は立っている。
日の光が沈みかけたこの時間、辺りには誰もいなかった。
巨大な谷。覗き込んでみても深さはどれだけあるか判らない。
民たちはこの谷底が魔の国と繋がり、魔人や魔獣を生み出すと信じている。
その為、巡回の騎士や命知らずの冒険者でも無ければ、ここに近づく事は
なかった。
彼は己の耳に触れる。
次の瞬間、その手には不思議な形のものが出現した。二重の輪、そしてそ
れを貫く様に剣が伸びている。
輪の外に出ている柄を持ち、彼は軽くその場でそれを振った。
澄んだ音――――結界だ。
英雄の一人が張ったこの結界は、谷から出てくる魔獣や魔人を封じるもので
ある。年月を経て結界は弱まっている筈だが、それでも効果はあった。少なく
とも、彼は谷へ下りることができない。
不思議そうに首を傾げ、彼は空を見上げた。太陽は完全に落ち、昏い青と紅
色の空が不思議な色を生み出している。
「まだ早いのでしょうか」
神官服が風に翻った。
「私はまだ、ここにいるのに……」
反対側の手を伸ばす。なにも見えないそこで、だが彼の手は壁にぶつかった
かの様に留まる。
「タビー、早く来て下さい」
切ない声で彼は呟いた。
「貴方が来てくれなければ、私は……」
輪が手から落ちる。それは地に着く前に光となり、彼の耳へ戻った。
種は蒔いた。
あとは彼女が来るだけだ。
「私は、もう、待ちきれない」
壁に当たった様な掌、彼は爪を立てるかの様に指を曲げる。
「早く、来て下さい」
切なく身を捩る物言いは、聞いた者の心を動かさずにはいられない。
もっともここは『最果ての谷』。彼以外に誰もいない。
「待っているのです、タビー」
ずっとずっと待ち続けている。
今度こそ、違えぬ様に。




