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扉の内側は、白。
目を痛めそうな白と、中心に寝台。
そこに誰かが横たわっていた。
よろよろとした足取りでタビーは中に入る。何かに追い立てられるかの様
に寝台のそばに歩み寄った。
「老師……」
深い皺をその顔に刻み、眠っている様に見えるのは、あの日に出会った老
師だ。違うのは、彼が眠っていること。呼吸はあるのかないのか判らないほ
ど静かだ。
「老師」
扉が閉まる。自分のいる世界と切り離された様な気がして、彼女は振り向
いた。灰色の瞳をした神官は、静かに寝台へ進み、そして上掛けの上に出て
いる手を包み込んだ。
「老師」
優しく呼びかける声。それすらもタビーには毒だ。自分の意識まで白く塗
りつぶされそうになる。
何度かの呼びかけの後、眠っていた老人はゆっくりと瞳を開けた。濁って
いるのに、どこか澄んだ眼差し。だが彼は言葉を発する事はない。しばらく
目を開けていた老師は、再び目を閉じた。それだけだ。
「癒やしの術のせいですよ」
握った手をそうっと上掛けの上に戻して、神官は微笑む。
「癒しの術、って……」
「人を癒せることに、代償がないと思ってますか?」
問いかけに、タビーは沈黙した。
「血止めや軽度な病であれば、問題にはならないと?」
「……」
「それが積もれば、どうなると思いますか?」
神官は本能的に後ずさりしたタビーの手を掴む。
「タビー、貴方が大怪我をしたとき。癒やしの術を施したのは私です」
彼女は目を丸くした。思いがけない事故、全身に火傷を負ったタビーは、
フリッツの手配した神官が癒やしの術を使ったと聞いている。だが、それが
誰か、彼女は知らなかった。
「それ、は……」
「貴方の怪我は酷かった。一度では治せないほど」
「……」
「数日通い詰めて、ようやく貴方の怪我は落ち着きました。覚えています
か?」
問われて、タビーは首を横に振る。
「癒やしの術を使い続けるということは、自らの命を使い続けるということ」
「ありえない」
タビーは反射的に応えた。
「なぜ?」
「だって……魔獣を倒したとき……」
王都が魔獣に襲われたその時、神官も後方支援に回っていた。タビーは彼
らが癒やしの術を使うのをその場で見ている。
彼らは、力を惜しみなく使っていた。癒やしの術が命を使う事と同じなら
あんな治療はできない。
「王族に癒やしの術は使えません。一度使えば彼らは際限なく求めるでしょ
う」
神官や司祭、聖女達の全員が癒やしの術を使える訳では無いのだ。少なく
はないが多くも無い。
「暴君が深い怪我を負う、癒やせるからと神官達を使い捨てにする。それを
許さぬ戒めなのですよ」
理屈では判る。だが、理解できなかった。
「老師は……癒やしの術を使い続けて、この様に?」
意識がはっきりしてくる。タビーは掌に爪を立てた。
「そうですよ」
神官は微笑む。
「癒やしの術を使いすぎて、自分を壊した……判っていたでしょう?前に老
師と会った時。あの時には既に彼は壊れていた」
違和感を感じる。人に『壊れている』などと使うのか。人は人で、道具で
はない。
「……嘘です」
「ほう?」
「事実かもしれないけれど、私は信じない」
癒やしの術を使うことが命を削り取ることだというなら、タビーの治療を
した目の前の男も消耗している筈だ。
「不思議だ、貴方に否定されると、胸が疼きます」
神官は片方の手を胸に当てる。
「貴方が、私の力で命を取り留めたからなのでしょうか」
反対側の手が、タビーの髪に触れた。全身に怖気が走る。
「私から貴方に、一つ贈り物をしましょう」
神官は胸から離した手でタビーの手を握った。
「英雄と並び称される魔術師アーヴァインは、また優秀な癒し手でもあった
そうですよ」
「!」
タビーは顔を上げた。神官は変わらず微笑んでいる。
「いつか、また会うでしょう。私の名は、ヤン」
タビーの視界にいる神官が滲みだした。白い空間に落とされた、一つの染
みの様に彼の体が滲んで広がって行く。幻覚だ、と思う前に意識が囚われる。
「貴方は真実に辿りつき、そして私を殺める」
密やかに囁かれ、意識が混濁していった。
「ずっと、待っていたのです」
貴方を、と言われた様な気がする。
タビーは意識を失った。
■
フリッツは何度か呼ばれて顔を上げた。
いつの間にか、部屋には小間使いがいる。困った様な顔をしている彼女は、
フリッツの部屋付きだ。
「お手紙をお持ちいたしました」
「置いておいて」
小間使いはちらりと視線を横に投げかける。フリッツの部屋の一角には、
書類と混じって沢山の手紙が積み上がっていた。無論、どれも開封されてい
ない。
「あの、差し出がましい事を申し上げる様ですが」
「なに?」
「お手紙、よろしいのでしょうか」
「知らない人からの手紙を開けるほど、酔狂じゃないよ」
「はぁ」
小間使いは首を傾げ、だがそれ以上を口にすることは控えた。積み上がっ
た手紙の一番上に今日の分を置き、そのまま退室する。
王宮魔術師として出仕したフリッツは、専用の部屋を与えられ、その中で
魔術の研究をしていた。通常、出仕して数年は師となる魔術師につき、仕事
を覚えていくものだが、彼の場合は出だしから違う。学院首席で詳細不明と
されながらも何らかの功があり、出仕直後から役職もち。そんな彼を手元に
置こうとする魔術師は誰もいない。そして彼もまた師を必要としていなかっ
た。
膨大な量の書類や文献を漁り、仮説を立て検証する。彼が任されているの
は青と茶の攻撃魔術だ。より効果的な魔術を作り出すことが、フリッツの仕
事でもある。
とはいえ、彼は決して研究だけに没頭している訳ではない。決められた時
間に出仕し、決められた時間に帰宅する。無駄に徹夜や居残りをしないのが
彼の特徴だ。
フリッツは時折抜け出す事がある。
理由は、勿論ラーラだ。
2年の訓練期間を経て、ラーラは王都の警邏部隊に配属されていた。
王都内の警邏は地域毎に決められており、いくつかの部隊がその役目を担っ
ている。騎馬で巡回する者と、人混みの多い所を徒歩で巡回する者がおり、
ラーラは後者だ。
警邏部隊の予定は、日々フリッツに知らされる。それが自分の勤務時間内
であれば、彼は何らかの理由をつけて外出し、朝方や夜間であれば心置きな
くラーラを見守っていた。
そんな行動に出ているのに、彼はラーラに直接接触していない。
相変わらず毎日の手紙と、最近は時折ちょっとしたものを添える程度だ。
2年間の訓練の間にも、手紙は欠かしたことがない。騎士団付きで送れば
それぞれの部隊へ配達される。特別な事情が無い限り検閲はされないが、毎
回分厚い封筒でやってくるその手紙は、騎士団でも噂になっていた。
ただ、部外者でそれを知る者は殆どいない。
傍目から見れば、フリッツは男爵嫡子で王宮魔術師、将来的には王宮魔術
師長も夢ではない立場だ。男爵という、貴族では一番低い家格でありながら
大量の縁談が舞い込んでくるのは、それに目を眩まされている貴族達が多い
事を意味している。
それらの全てを無視し、フリッツは相も変わらずラーラへの手紙を書き記
す。返事が来ないことを、悲しんだり憤ったりすることもない。
ただひたすら、手紙を送り続けている。




