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お坊ちゃまことジルヴェスター・ブッシュバウムが怪我をした。
訓練場の階段を走って昇っている最中に、躓いて前のめりに転倒したのだ。
丁度訓練場に居合わせたタビーは、発狂しそうな侍従バスラーを宥め、救護
室へ行かせたのだが、今、それがあらぬ方向へ転がっている。
曰く、侯爵の弟が嫡子を追い落とそうとして、手の者を使い突き飛ばした。
曰く、侯爵家に恨みのある者が嫡子を害そうとした。
曰く、侯爵を副宰相にしたがらない反ノルマン公一派の攻撃だ。
そのいずれも見当外れで、実際ジルが自分で転んだ所をタビーは目撃してい
る。疲れのせいか爪先しか階段に掛からず、体重の移動がうまくできなかった
だけなのだ。
だが、貴族は噂を事の他面白がるもの。
貴族寮は勿論、基礎課程でもその噂はあっという間に広まった。魔術応用専
攻のタビーの耳に入るほど。
ジルの怪我は前のめりに転んだため、見かけは酷い状況だ。鼻や頬、額には
大きい擦り傷が、腕や膝も同様に。だが実際は見た目より酷くない。それでも
噂には歯止めがかけられなかった。
「……大丈夫かなぁ」
タビーは今、訓練場の見学席にいる。
今日は基礎課程2年目の学院生達が、希望進路に進むための進路専攻説明会
がある。説明会と言っても、実際は試験と同じだ。タビーも魔術応用に進むた
め、この時に杖を作った。
教官達が駆り出されるので、一部の講義は休みになる。タビーは午後の講義
が全て休講となったため、騎士専攻課程の説明会を見に来たのだ。
騎士専攻の説明会は午前中に説明、午後は適性確認を兼ねた体力審査である。
広い訓練場だが、学院生が整列しているのでジルを捜すのは容易い。体格の
いい者に囲まれているせいか、目立つのだ。
「お坊ちゃま……」
隣でハンカチを握りしめ、凄まじい形相をしているのはジルの侍従であるバ
スラーだ。元々この説明会に参加させない事が目標だったが、ジルの熱意はそ
んな企みを一蹴した。カッシラー教官ですら『取りあえず受けさせてみるか』
と言った程なのだ。
「大丈夫です、大丈夫です、大丈夫です」
呟きながら、手を組んで見守っている年嵩の侍女と、顔を青ざめさせながら
その側に立つ侍女。タビーの周りは、ジルの関係者で一杯だ。
「……大丈夫なのか、おい」
反対側に立っているヒューゴは、来年度の新入生を見るために見学をしてい
る。
「どっちが」
「……」
無言でちらりと集団を見やった彼に、彼女は首を横に振った。
侯爵家ではジルの進路は財政専攻だと決めている。
ジルの体では騎士専攻には付いていけないし、何より侯爵家は有能な官吏・文
官を輩出する家柄だ。一族の中で騎士になった者はいない。
それでもジルの熱意に負けた侯爵夫妻が『審査に通ったら、騎士課程に進ん
でもいい』と許可したという。
一方、学院側では試験以前にジルの体格的な問題や性格等を考慮して、担任が
騎士への希望をどうにか諦めさせようとしていた。ジルは成績もよく、財政課程
に進めば、侯爵家の者として立派な官吏になる。担任としては、庶民も多い騎士
課程に進むのをなんとか断念して欲しかった。故に、騎士専攻教官のカッシラー
に相談したのだ。
その経緯でタビーの鍛錬にジルが混じる様になり、結局ジルは第一志望を騎士
専攻にしたまま、ここまで来た。カッシラーはジルの担任に『話が違う』と詰めよ
られ、教官室で騒ぎに発展。そこにジルの怪我が混じり、この説明会まで彼の周
囲は混乱を極めていた。
「あっ!」
「越えた?越えました?」
「越えた筈だ、お坊ちゃまが投げたのだぞ!」
「ああ、タビーさん。あの距離はどうなのですか?合格ですか?」
「……判りかねます」
ヒューゴの脇腹を軽く肘で突いてみたが、彼は関わらない事を決めたらしく、
素知らぬ顔で基礎課程の学院生達を見ている。
頭をさげて元の位置に戻るジルは、頬の傷も痛々しい。ほんの少し一緒に過ご
したタビーとしては、受かって欲しい気持ちと、財政か魔術に進んで欲しい気持
ちが半々である。
「次は?次はなんでしょうか」
「走り込みは最後と聞きましたわ」
「今は球投げですね。先程は素振りで……」
ジルの侍従達は、どこで貰ったのか羊皮紙を持っていた。先程見せて貰ったと
ころ、体力審査の項目が書いてあり、彼らはこれを見てああでもない、こうでも
ないという話をしているのだ。
ブッシュバウム侯爵家だけではない。貴族でも騎士を目指す者はいる。見学席
のあちらこちらで、侍従や侍女達が固まっているのが見えた。
「ヒューゴの時も、こんな感じだった?」
「うちは受からなかったら勘当だったから。受かるものとして誰も来なかったな」
「……」
それも極端だ。北方に領地を持つシュタイン公派の貴族達は、騎士になること
を最上としている。一族の中で、男女問わずに騎士がいるのが当たり前なのだ。
「大丈夫かな……」
審査は淡々と進む。ジルより体格のいい学院生でも、規定に届かない者もいた。
単純な力押しでは騎士になれないのか。杖一本を作る魔術応用とはまた違う厳
しさがある。
「ああ、出て来た」
「誰?」
「今年の一番出来」
基礎課程の中でも群を抜いて体格が良く、武器の扱いが上手いと言う。
「へぇ……」
彼の投げた球は、遠くへ飛んだ。文句無しである。
「まぁ、今、出来が良くても後で伸び悩む場合もあるから」
「そういうもの?」
「うん。俺にもあった」
元々ある程度出来るから、一度躓くと長引くらしい。そこを越えれば、また強
くなるが、越えきれない者もいる。
「試行錯誤だよ、騎士も」
柵に肘をのせ、ヒューゴは審査を眺めた。
「みんな受かればいいんだけどな」
「難しいね」
魔術応用に進みたくても、杖が生み出せなければ進めない。
騎士専攻は体力審査に合格しなければならない。
説明会はあるが、特に審査のない財政へ進むのが一番楽だが、その分、進んで
からは大変な思いをする。
教養課程は花嫁修業の様な専攻だが、財力がなければそもそも進めない。
どこを希望しても、何らかの壁はあるものだ。
球投げが終わった学院生達は、数人単位で細い台の上に乗る。
「体幹の出来を見てる」
「あれで判るの?」
「バランスがきちんと取れれば、ある程度は」
一定時間以上、片足で立つ様だ。すぐにジルの番が来て、彼は落ちそうになり
ながらもどうにかこらえた。タビーはほっと息をつく。
「心臓に悪いわ」
「タビーは教官に向かないな」
「家庭教師くらいなら、出来そうだけどね」
とにかく怪我をせず、無事に終わってほしい。
歓声をあげる侍従達を横に、タビーは拳を握りしめた。




