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タビーとジルは、いくつかの約束をした。
無理なときは休む。
鍛錬の事は誰にも言わない。
もしここで騎士寮の学院生と会った時には『先輩』と呼ぶ。
最初に会った時には、まず挨拶をする。
あまりにもくだらない約束に聞こえるが、重要な事だ。
タビーが自主鍛錬をしていることは、騎士寮に住む者なら大体知っている。
今までは無かったが、ジルが参加して興味を持った寮生が来る可能性があっ
た。彼らに対して『苦しうない』と言ったり、挨拶もなくいきなり話し出し
たりすれば、まず揉める。 前世でも今世でも、体育会系は上下関係に厳しい
のだ。騎士になれば能力で判断されるが、彼は学院生、しかも基礎課程。トラ
ブル回避の為には最低限の事を教えておくべきである。
当初、カッシラー教官からの申し出では数人、という話だったが、ジル以外
の取り巻き達は皆辞めたらしい。初日にタビーが相手をしなかったのが気に入
らないという理由で。いかにも貴族様らしい理由だった。
だから、ジルは一人で裏庭にやってくる。
正確には、侍従と侍女を一人ずつ伴って、だ。あまりに大挙して来られても
邪魔でしかない。この件は侍従―――やはり、バスラーという名だった――と
話し合い、決めたことだ。つんけんした、どことなく高慢な印象の侍従だった
が、ジルの事はとにかく甘やかしている様で、この結論に辿りつくまでも大変
だった。
侍女達は交代だが、バスラーは常にジルに付き従っている。そして転んだり
苦しそうな顔をして走るジルを見て、心配そうな顔をしてうろうろするのだ。
■
王都の冬は寒い。
ダーフィトという国そのものが、多少の差はあれ寒いという方が正しいか。
北は豪雪地帯、王都のある南はそこまで酷くはないものの、やはり雪がつ
もる。雪が積もれば、走り込みは難しい。地面に横たわっての腹筋や腕立て
もできない。
冬場の鍛錬といえば、前世の知識にあるスクワット、前屈や脇伸ばし等の
ストレッチ程度しか知らないタビーは、ヒューゴに助けを求めた。餅は餅屋
だ。
「驚いた。タビーにそんなことを聞かれるとは」
「あはは」
ヒューゴはカッシラーから直接事情を聞いている。更に自分でもジルの姿
を直接確認していたから、特にタビーには何も言わなかった。
ジルはタビーの『個人的な鍛錬場所で、自分も鍛錬をしている』というこ
とで、見て見ぬ振りをしているのだ。
基礎課程で騎士専攻を志望する者は、放課後の訓練見学等に参加できる。
基本的に参加できるのはそれだけのため、侯爵家子息が騎士寮の住人から
個人的な手ほどきを受けている、と知れたら面倒な事になりかねない。
カッシラーとしてはあくまでも『騎士課程を諦めさせる為に鍛錬へ参加』
させている。ヒューゴを始めとした寮生は『どこの誰かは知らないが、裏庭
でくるくる回っている小さいのがいる』という認識だ。
「雪だと、俺たちも室内になるからな」
「走り込みを継続した方がいいと思うんだけど。私は訓練場でできるけどね」
「そうだな」
ヒューゴは少し首を傾ける。
「彼は、講義後の見学に参加してるのか?」
「してるみたい……見かけないとか?」
「いや、訓練場は広いし、特に指定しない限りは自由に見学して貰ってるか
らな。何処で誰が見てる、とか把握はしていない」
「見学って、何かしながら見ていたら駄目かな」
「模擬試合の時だけは、集中が必要だから黙って貰ってるが。大騒ぎするの
でなければ、大丈夫だ」
「うーん」
タビーは腕を組んだ。
ジルの鍛錬は、あの日からずっと続いている。ここで止めるのは勿体ない。
来年度、騎士専攻に行くにしろ行かないにしろ、体作りは止めない方がい
いとタビーは考えている。
「……見学席の階段はどうだ?」
「階段?」
「結構な高低差があるからな。下から上まで駆け上って、上から下に駆け下
りる。平地の走り込みより厳しいが、階段はいくつもあるから人が少ないと
ころでやれば危なくないだろう」
「階段かぁ」
良い案だ。慣れてきたら一段抜かし等をすることによって負荷がかけられ
る。転ぶと酷い事になるのでそれだけが不安だが。
「うん、階段ならいいかな。階段つかって、休憩時には見学もして、朝は体
を温める様な運動」
「いいんじゃないか?」
「真似する基礎課程の子が出てくるかもしれないけど、大丈夫?」
「あんまり酷かったら注意するけどな」
「そっか。何かあったら、私にも教えてくれる?」
「タビーは見ないのか?」
「いや、私も走り込みとか打ちあいしたいし……」
ヒューゴは苦笑した。
「タビーは、一体何を目指してるんだ?」
「え?」
「魔術師になりたい連中は、放課後もあっちでドッカンドッカンやってるだ
ろう?」
彼が親指で指した先には、魔術応用専用の訓練場がある。魔術応用の学院
生は大抵が図書室で調べ物、もしくは訓練場で魔術の訓練、が講義後の過ご
し方だ。
「一人で旅に出られる魔術師、かな?」
「なんで疑問系なんだ」
やや呆れた様なヒューゴに、タビーは肩を竦めてみせる。
「でもまぁ、ちょっとほっとした」
「何が?」
「ん?タビーが誰かの面倒をみる、って、あんまり見なかったから」
騎士寮の面々はその気質もあってお互いをフォローしあう事が多い。先輩
後輩の序列はあるが、無理難題を押しつける様な輩はいないし、後輩達も積
極的に先輩達と関わっていく。面倒見のいい連中が多いのだ。
「そうだね」
タビー自身も不思議だった。王女やザシャと知り合ううちに、母性本能で
も目覚めたのだろうか。
「まぁ、一応来年度の専攻が決まるまで、の短い期間だしね」
「そうだな」
ジルの小柄な体は、以前よりもしっかりとしたものになって見えるが、背
は伸びていないし、体重もさほど増えていないという。
騎士専攻に進むには、かなり厳しい筈だ。本人は鍛錬を欠かさず、苦手な
ヒジャ乳の代わりに牛乳を飲んでいるが、効果は見えていない。
「あと少しだもんね」
新年が過ぎれば、進路を決めねばならない。魔術応用を目指す基礎課程の
学院生は杖を作らなければそちらに進めないし、騎士課程では体力検査があ
る。身長等の規定はないが、ある程度の運動が出来ないと受け入れて貰えな
いのだ。
「もう少し早かったら良かったなぁ」
「なんだ、随分入れ込んでるな」
「あそこまで騎士になりたい、って思っているとね……」
叶えてあげたくなるのだ。
最もタビーは童話に出てくる魔法使いではないので、簡単に彼の願いを叶
えてはあげられないが。
「そうか」
ヒューゴは頷いて、タビーの肩を軽く叩く。
「ありがとう」
去り際に告げると、彼は後ろ向きのまま手をひらひら、と振る。
窓の外で舞う雪を眺めながら、タビーもまた歩き出した。




