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次の日、お坊ちゃまは来なかった。
ヒジャ乳が強烈すぎたのか、はたまた筋肉痛で動けないのか。
いずれにしてもタビー『先輩』の鍛錬は終了になったということだろう。
タビーは、黙々と鍛錬を続ける。
膝の痛みもマシになった。素振りも回数を増やし、体全体を大きく動かす様
に使ってみる。身長のせいか、どうしてもまだ杖を持て余す部分があるが、そ
れでも前よりは見られる様になったと思う。
支度をして朝食、そして講義。
いつもと同じ生活だ。尾行もいないし、平穏である。
論文は清書を残すのみ、今日は訓練場に寄ることにした。もっと上手く杖を
使えるようになりたい。大概の魔術は魔獣に効果があるが、効きにくい、もし
くは効かない個体も存在する。そんな魔獣と遭遇したら逃げるだけだが、逃げ
るにも隙を作らなければならない。それに毎回魔術を使っていれば、いざ大物
が出た時に魔力切れを起こすことに繋がる。
(一度、王都外に出てみたいな)
冬が近づく今は無理だが、長期休暇なら出来る筈だ。騎士専攻の面々に混ぜ
てもらうのもいい。まずは外に出てみないと始まらないと思う。
訓練場を覗くと、まだ誰もいなかった。講義が終わって直ぐだからか。この
分なら着替えてきても間に合う。タビーは急ぎ足で寮に戻った。教本を机に置
き、練習着に着替える。手袋も訓練用の滑りにくいものにして、再び外に出た。
ヒジャの声がする。
いつもなら放っておくが、ヒジャの声は絶え間なかった。以前、出産したヒ
ジャも良く鳴いていた。
「産まれたのかな」
心配になり、裏庭へ回る。暖かい陽射しの中、ヒジャは2頭とも元気に鳴い
ていた。
その柵の側に、見覚えのある小さな体。だが、周囲には彼以外誰もいない。
「……ジル、様?」
声をかけると、彼はばっと振り向いた。顔が真っ赤だ。特に鼻は赤く、目を
丸くしてタビーを見ている。
「タビー先輩」
「何かあったんですか?ヒジャ、ですか?」
暢気なヒジャ達は人の思惑など関係なく、鳴きながら草を食む。
「ち、違う」
「?」
「ご、ご……」
「ご?」
「……さい」
小さな声。だが、タビーには聞こえた。『ごめんなさい』と、囁く様な声だっ
たが。
そのままジルは嗚咽を繰り返している。
どうしたものか、と考えつつ、タビーは彼の前に立った。
「どうして?」
貴族は謝ることを厭う。自分の非を認めたがらない。それはどろどろとした
政争を生き抜く為の知恵だ。幼い頃から、そういうものは叩き込まれている。
今、ジルはタビーに謝った。
その理由が『鍛錬に参加しなかったから』だとすれば、それは訂正してあげ
たい気もする。タビーはあくまで自主鍛錬をしているのだ。誰かに言われたか
らでも、押しつけられたからでもない。ジルにも参加を強制したことはないの
だ。
「……今日、起きられなくて」
その後は鼻水を啜る音で聞き取れない。
「来たら、先輩、もういなくて」
タビーが来たから安心したのだろうか。ジルが本格的に泣き出した。
「あ、ああ、いや、その」
彼女は慌てる。泣くことではない、と言いたいが、どう説明すればいいのか
悩む。何より、自分の前で泣かれるのは苦手だった。
「ああ、もう」
タビーはエルトの袋から布を引っ張り出す。タオル代わりに使っているもの
だ。洗ってあるから汚くはないが、ジルの顔を拭うには少々躊躇う。最も、涙
が次々と溢れてくる現状では、使わないという選択肢はない。
膝をついて、顔を拭う。やはり布の当たりが痛いのか、ジルは顔を顰めた。
「嫌だったら、泣き止んでくださいよ」
目の前で人に泣かれるのは困る。どうしていいか判らないし、下手をすれば
こちらが泣きたくなるからだ。
強引に何度か拭ううちに、涙は止まってきた。ほっとして、頬や鼻も拭う。
布を何度も折り返して使ううちに、ようやく見られる顔になってきた。まだ
顔も鼻も赤いけれど。
「侍従の皆さんは?」
「……寮」
ぽつりと呟くジルに、いつもの勢いはない。
「一人でここに?」
頷いた彼に、タビーは溜息をつく。
「騎士寮の裏庭ですが、危ないですよ。一人は」
「タビーは、いつも一人だ」
呟かれた言葉に苦笑する。いつも、というからには、普段の生活も見られて
いるのだ。無論、直接ではなく、侍女や侍従という立場のものが見張っていた
のだろうが。
「そうですね」
「だから、我も一人でいいのだ」
騎士になるのだから、と続けた彼に、タビーは戸惑う。
「ジル、起きられない日もあっていい。気にしなくていいよ」
貴族のお坊ちゃま相手の言葉遣いとしては不適だが、タビーはあえて普段通
りの口調だ。
「我が嫌だ」
お坊ちゃまは案外頑固なのかもしれない。タビーは少し笑って、頭を軽く撫
でた。
「鍛錬は、無理をするものじゃない。また明日、来ればいいよ」
「……許して、くれるのか?」
驚いた様に目を丸くするジルに、タビーは頷く。
「父上は仰ったのだ。『人との約束を破ってはいけない』と」
「そっか」
「我は約束を破った。教えを乞う者としては、一番いけないことだ」
また瞳が潤みだす。
「いや、待って。泣かないで、こ、この程度で泣いたら駄目だから!」
鼻を啜り、ジルは頷く。どうにか涙は溢れなかった。
「……ジル」
タビーは彼の手をとった。そして掌を合わせてみせる。
「ジルと私の手の大きさはこんなに違う」
「……」
不満そうに唇を尖らせた彼は可愛かった。少女の様だ。
「出来ない事があっても、私くらいになったら出来るんじゃないかな」
「我は、騎士になりたい」
今すぐにでも、と続いた言葉に、タビーは微笑む。可愛らしい願いだ。憧れ
かもしれないが、ここまで真っ直ぐだとお坊ちゃまでも憎めない。
「騎士になって、何をしたいの?」
タビーは問いかける。
「騎士は何でもできる。我は騎士になってこの国を守りたいのだ」
「……騎士じゃなくても、国を守ることはできるよ」
「タビー先輩は、父上たちと同じことを言うのだな」
拗ねた物言い。
「我は騎士がいい。王都に魔獣が近づいた時も、騎士達は勇敢に戦った」
「見ていたの?」
「……」
痛い所をついたらしい。ジルは少し目を彷徨わせ、そして観念した様に頷い
た。
「あの時は大騒ぎだったから、バスラーに頼んで」
バスラーとは侍従か何かなのだろうか。
「塔の上から見た」
「塔?」
ジルは頷く。王都には商人が備蓄に使う塔等がある。そこから見たのだろう
か。
「騎士になりたいのだ。先輩、我は騎士になりたい、いや、なるのだ!」
強い口調。
「絶対に、絶対に騎士になるのだ。だから、先輩。頼む」
ジルはタビーの両肩を掴む。
「頼むから、駄目って言うな」
「……」
彼女は息を一つついた。
ここまで懐かれると、揺らいでしまう。タビーがしているのは、騎士になれ
る様な鍛錬ではないのに。
「ジル」
心を鬼にすべきか、それとも。
「……明日から、また頑張ろう」
結局こうなる、とタビーは内心自嘲した。自分の手に余る事を受けてしまっ
た気がする。だが、この小さなお坊ちゃまが騎士を目指したいのなら、手伝う
くらいはいいだろう。もしかしたら来年度、ジルが魔術応用や財政課程に進ん
でしまうかもしれないが、それでも鍛錬は無駄にならない。
どんな仕事でも、持久力と忍耐力は必要だ。
「いいのか?」
ジルは目を丸くする。
「うん。来られる様なら一緒にやればいいから」
何しろ朝が早い。その分、夜も早く寝る必要がある。
貴族寮では、夜更かしをしながらお茶を飲むという風習があると聞いたが、
鍛錬をしていればそれに参加するのは難しい。その折り合いをつけるのはジル
自身だ。
タビーは、ただ待ってればいいのだ。
「タビー、先輩……」
ジルは彼女から手を離すと、ぎゅっと抱きつく。
「あ、あ、あり……とう」
小さなお礼の言葉。タビーは苦笑した。そんな事まで言わなくていいのに。
こうやって抱きしめられた記憶は殆ど無い。せいぜいが知人同士の軽いもの
だ。前世の自分は、どうだったのだろう。抱きしめられる、抱きしめる様な相
手はいたのか。
こんなに心が凪ぐものとは、知らなかった。
彼女はジルの背を軽く叩く。
再び泣き出した彼をかるく宥めながら、タビーは澄んだ空を見上げた。




