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まもなく、夜が明ける。
王女が休んでいた部屋の中に、シュタイン公はいた。
この部屋にある全てのものが、彼の弟が選んだもの。定められた死の前に、父
を名乗れぬ娘のために、彼が選んだものだった。
弟は、青を好んだ。
王女用のドレスや部屋着、寝具にいたるまで青系なのは、彼のこだわりだ。
素朴に見えるクローゼットやドレッサー、銀色の猫足がついた湯船、天蓋つき
のベッド。その全てを彼は楽しそうに選んでいた。
あの日が来なければ、と、どれだけ願っただろう。
元々丈夫ではなかった弟だが、あんな死に方をする為に生きた訳ではない。
8年近くを王妃の相手として過ごし、離宮や後宮に軟禁状態にされた弟は、そ
れでも何も言わなかった。
王妃と彼の間に愛情があったのか、ただの情だったのか、それはシュタイン公
には判らない。
だが、彼は産まれた子を一度だけ抱いて『悔いは無い』と言ったのだ。
そんな訳が無いのに。
夜明け間近の空は、薄暗い青色をしている。部屋は海の色に見えた。
この色が鮮やかな陽射しに変われば、戦いが始まる。
そこかしこに、弟の気配を感じて、シュタイン公は俯く。
彼は、何もできなかった。
毒を呷る手を止めることも、どこかに逃がすことも。
その後悔が、今でも胸にある。
■
扉を開けると、小さな部屋があった。
何かの細工がされているのか、先に部屋に入ったフリッツはあちらこちらを確
認し始める。部屋に辿りつき、どうにか中に入った王女はそこでへたりこんだ。
「……ザシャとタビーが、いないわ」
「休みながら来るでしょう」
フリッツは気にしない。心配になって階段を見に行こうと思ったが、王女の足
には力が入らなかった。
この部屋に入る時も、立ち上がるのが怖くて中腰で転がり込んだのだ。緊張し
ていた体は汗ばんでいたし、手足は今でも震えている。腰も痛い。
それでも、王女は扉に近いところで階段を見守った。
やがて、ザシャの姿が見えてくる。王女はほっとした。その後ろにはタビー。
二人とも四つん這いの状態だ。確かに中腰よりは安定感がある。
王女が見守る中、部屋に辿りついた二人は、そのまま腹ばいで転がった。
「つ、ついた……」
タビーは呟き、ザシャはその言葉に頷くだけ。二人の呼吸は荒い。
「大丈夫ですか?」
王女も四つん這いで二人に近寄る。
「ああ、殿下」
体を起こそうとする二人を、彼女は留めた。
「少し休んでください。まだ、先があります」
「殿下も……」
ザシャが呟くと、王女は頷き、その場に座る。
あれだけの階段を登って、まだ立っていられるフリッツはそれなりに体力がある
方なのか。タビーは顔だけ起こし、壁を触っている彼を眺めた。
少し落ち着くと、ゆっくりと体を起こす。全身が痛い。緊張し過ぎたのだ。
タビーはエルトの袋を開く。捜していたものを探り当て、それを引っ張り出した。
「それは?」
「果物を、乾燥させたものです……ザシャ」
タビーの声に、彼ものろのろと体を起こした。瓶の蓋をあけたものを差し出す。
「ひとつだけだよ」
タビーの物言いに苦笑して、ザシャはそれをつまんだ。口に放り込む。周りにつ
いた砂糖と、果物の甘味が体に染み渡る様だった。
「殿下も、いかがでしょうか」
王女が乾燥果物を食べるとは思えなかったが、勧めてみる。少し戸惑った様な表
情をした王女は、恐る恐るそれをつまんだ。
「……甘い」
端を少し噛んだ王女は、ぽつりと呟いた。
「とても、美味しいわ。タビー」
「お口にあって、安心しました」
王女は少しずつ乾燥果物を口にする。今までは瑞々しい、旬の果物しか食べたこ
とがなかった筈だ。
タビーも一つを取り出し口に含む。フリッツが壁を触りつつ、片手を後ろ手に出
していたので、仕方なくお裾分けをした。
「ああ、甘さが染みる……」
疲れが飛んでいく様だ。砂糖のじゃりっとした食感と、少し弾力のある果物の風
味。しかもこれは少々高めのものだ。いつも食べているものより美味しい。
果物を食べ終えた後、タビーたち三人はそのまま座っていた。フリッツがあちら
こちらを触っているが、仕掛けが判らない様だ。
「開くんですよね?これ」
「向こうからは確実に開く」
「向こうって……」
王宮側からなら問題ないということだが、逃亡するにはここは厳しいのではない
か。上りはともかく下りはますます怖い。逃げるということは急ぐということで、
急いた足取りであれば間違いなく落下する。
「もしかしたら、こっちからは開かないかもしれないな」
「ちょっ」
タビーは慌てて立ち上がった。
「ここまで来て?先輩、それはナシですよ!」
「世の中は不条理だな。ま、開かなければ開けるまでだ」
フリッツは諦めたのだろう。壁から離れて床に座った。
「魔術、通ります?」
「たぶん」
フリッツが手を差し出すが、タビーはそれを無視した。とっておきなのだ、王女
ならともかく、彼にいくつも差し出すつもりは無い。
「通らなかったら……」
「戻るしかないな」
ザシャと王女が青ざめた。あの階段を降りるなど、正気の沙汰ではない。
「時間もない、もう少し捜して見つからなかったら強行突破だ」
ザシャとタビーは顔を見合わせた。タビーもいくつかの攻撃魔術を知っているが、
それが通用するかもわからない。厳しい状況だ。
「……それしか、ないのですね?」
この中で一番冷静だったのは、王女ルティナだった。
「はい」
「わかりました」
王女は息を吐く。
「最後にもう一度捜して……」
皆が王女を見つめていた。
「それでも見つからなければ、魔術を使いましょう」
王女の決断に、タビーも頷く。後戻りは、もうできないのだ。
「御意」
立ち上がったフリッツが、最敬礼をした。




