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これは、夢だ。
『兄上、これはどうですか?』
見せられたのは、幼子が着る小さなドレスだった。
『白金の様な髪ですから、濃いめの方がいいでしょうか』
悩む彼の周囲には、様々なものが置いてある。服、小物、靴、絵やクローゼッ
ト、茶器や様々な生地まで。
『……お前の、望む様に』
喉がつかえた様な声しか出ない。
『目の色は、琥珀でしたよ。私と同じですね』
彼の目は母譲り。父に似た自分は黒髪と黒い目。色的には対照的だ。
『私に妹でもいれば、もう少し気の利いたものが選べたと思うのですが』
困った様な顔をする彼は、共に育ってきた弟だ。
学院を卒業し、本来ならば官吏になるところを飼い殺しにされてきた。
それも、もう終わる。
6年間の歪な生活は、だが弟の気性には影響しなかった様だ。そのことが、逆
に辛い。
16歳から外に出ることを許されなくなり、ただ子を成すことを要求された弟
を、彼は助けたかった。
もう、二人きりなのだ。
父も母もこの世にはいない。いれば、この様な愚行を許さなかった筈だ。受け
入れたのは弟だが、止められなかったのは自分。
数日後に、彼は一人になる。
『ああ、この形はいいけど……ここに青い石で何か入れたらどうでしょう』
『……お前の、好きな様に』
同じ様な言葉を繰り返すことしかできない。
弟は、子の成長を見ることなく消える。母似の彼と、亡国の姫君の間に産まれ
た子は、王を父として生きていくのだ。
弟は、最後の我が儘と称して、色々なものを買い求めた。直接注文できない彼
の為に、出入りの商人を呼び寄せ、様々なものを揃えたのは彼だ。
もはや会うこともできない己が娘の為に、父として残しておきたい、と。手紙
やそれに準じるものを残すのは禁じられている。ならばせめて、娘が使うものだ
けでも、と。
使って貰える保証はない。この部屋を弟の娘が知ることもなく生きていく可能
性の方が高いのだ。
目の前の風景が変わる。
離宮の一角にある部屋の寝台に、弟は横たわっていた。
見守るのは自分と宰相と先代のディヴァイン公。
先程寝る前に呑んだ毒は、眠くなり、そのまま死へ誘うものだ。
その証拠に、弟の呼吸は徐々に弱くなってくる。
襟元を掴んで、毒を吐き出させたい。
否、せめて時間を戻せればいい、6年前に。
こんな生き方をするために、弟は産まれたのではない。
母に良く似た瞳、少々体が弱いとはいえ、官吏の仕事なら問題なくこなせた筈
の弟だ。いずれ愛らしい妻を娶り、シュタイン公爵家を共に支えるべきの弟。
弟は、生け贄になるために生きてきたのではない。
何か吐き出そうとしたところで、弟の呼吸は静かに止まった。
叫ぼうとして、あがく。だが、体は何かに包まれたかの様で、身動きがとれな
い。
泣き喚きたかった。
その場にいる誰も彼をも呪って、世界が壊れてしまえばいいと。
開かぬ口を開こうとして、彼は大きく喘いだ。
「!!」
反射的に体を起こす。夢だ、否、現実。
滴り落ちる汗を、彼――――シュタイン公は静かに拭った。呼吸はまだ荒い。
外はまだ暗い。夜襲の恐れはない、と報告を受けていた。そもそも、近衛騎士
隊に夜襲の能力などないだろう。宵闇に紛れるため、黒い服を着る事すら厭うの
だ。王族の盾と剣になる近衛と騎士団では在り方も戦い方も違う。
口元に手を当てた。時折見る悪夢は、彼の神経を苛む。再度寝るのは諦めて、
彼は寝床を出た。
窓の外は闇だ。王女達が地下道に入って、随分と時間が過ぎている。
王女がノルマン公の下へ辿りつけば、シュタイン公の勝ちだ。王女が王になる。
その為には、王子とディヴァイン公を極力騎士団に引きつけておかねばならな
い。王が意識を取り戻し、王女を後継者と認めるまでは。
椅子の背にかけたマントを羽織り、シュタイン公は剣を持つ。
眠気は、どこかに消え失せている。
■
休憩を済ませた王女達一行は、地下道を進んでいた。
王宮に近くなる程、道は複雑になっている。迷路の様に曲がりくねって交差し
た道、急な斜面、腰までつかる水路を渡る場所。障害という程ではないが、道は
厳しい。
「ああ、見えて来た」
先頭を行くフリッツが、上を見上げる。円形の穴を潜ると、高い天井のある場
所に辿りついた。
「ここは……」
「離宮の側」
「離宮?」
「今は……義兄様が住まわれているのです」
王女の言葉にタビーは相槌を打つ。
「ということは、王宮敷地内には入ってる?」
「入ってる」
フリッツは天井をぐるりと見回した。ザシャやタビーには判らないが、どこか
に印でもあるのか。
「さて、ここらだと思うんだけど」
「……何がですか」
嫌な予感しかしない。
「いや、多分ここらあたりに仕掛けがあった筈」
「それも『たしなみ』ですか」
「その通り」
皮肉も通じなかった。というよりは、判っていて返してくる。
「……なんだか、潮の匂いがする」
ザシャが呟いた。
「潮?」
「海というか……」
「王宮の下にですか?」
「まぁ、疑似的な海水だと思う」
ザシャとタビーは顔を見合わせた。
「殿下は壁際に」
フリッツの言葉に、王女は壁際に寄る。
「ザシャは武器、持ってる?」
「残念ながら」
騎士団で軟禁状態にあったのだ。武器や刃物は全て取り上げられている。
「タビー、短剣貸してあげて」
「……」
何故知ってる、という事はもう聞かない。フリッツはこういう人間なのだ。普
通ではないことが彼の普通である。
「はい」
腰の後ろに差していた短剣を鞘ごと手渡す。
「ありがとう」
「ザシャは王女を。タビー、いいか、使えるのは赤だけだから」
何が、と聞く前に、フリッツは水路を覗き込んだ。暫くして、水面が震えだす。
「来るぞ!」
ひょい、と体を下げた彼と、『それ』が跳ね上がったのはほぼ同時だ。
「ううううう、嘘ッ!!」
やたら長い胴体と巨大な顎を持つ『それ』は、大きな音を立てて水路に沈んだ。
今まで通った水路はせいぜい腰までの深さである。だが『それ』はもっと巨大
だ。
魚というにはあまりにもグロテスクだった。前世でいう深海魚の様な魚。開い
た口には巨大な牙まである。
派手な音をたてて落ちた『それ』は、一旦潜水した様だ。波紋だけが残る。
「……せ、先輩、あれ、あれなんですか」
「ミルドラッセ……」
ザシャが呟いた。
「な、なにそれ」
「海竜の一種です。でも、深海にしか棲めないと……」
「!!」
タビーは思い切り顔を引きつらせる。深海にしか棲めないということは、この
場所の水路はそれなりの深さがあるということだ。魔術で空間を歪め、深海を模
していようとも、結論はただ一つ。
――――落ちたら、助からない。
思い出した様に、天井から水が垂れてきた。先程飛び上がったミルドラッセと
やらが濡らしたのだ。道理でここだけ天井が高い筈である。
「先輩、か、回避しましょう」
学院でも常々言われている。危険なものに、無理矢理手を出す必要はないと。
命の危機ならばともかく、地下道を壁寄りに歩けば避けられる筈だ。
「回避っていっても、あそこにいかなきゃ」
フリッツが杖で差すのは、水路を越えた所にある扉だった。だが、そこまでは
人が一人通れる程度の長い道しかない。橋の様に桁がある訳でもなく、高さは水
面とほぼ同じだ。通ればひと呑みにされる。
「他の道は!?」
「ない」
フリッツは相変わらずだ。くねくねしていないだけで、焦る風も怖がる様子も
ない。タビーの足はがくがくしているのに。
タビーは王女を見た。王女の顔も、タビーに負けず劣らず引きつっている。白
い肌がそそけ立ち、恐怖で目を見開いていた。それでも声を出さず、必死に耐え
ている。
タビーの震えが、少しだけ収まった。
「さて、タビー。そろそろ大丈夫かな」
「先輩、勝算は?」
「僕たちの魔力が尽きるか、あっちの体力が尽きるか」
「持久戦とか……」
絶望しつつ、タビーは目を閉じる。しかも通用するのは赤、赤魔術のみだ。赤
魔術は攻撃系のものが多いが、その分魔力を消費する。威力の強い赤魔術は、そ
う何度も使えない。タビーが使える赤魔術は、複数の矢を射出するものと、火の
玉を当てるもの、強制的に乾燥をさせるもの、の3種類。
「大物過ぎて、寒気がします」
「風邪でもひいたんじゃないの?」
フリッツは笑った。
「取りあえず、私は回数撃てる方にします」
「じゃ、僕は大きい方か。タビーの魔術で誘導して、僕が当てる、と」
「わかりました」
タビーは若干壁際に寄る。ザシャと王女は、壁に貼り付く様にして立っていた。
「殿下、辛かったら座っていてください」
いざとなれば、自分たちでミルドラッセを引きつけ、その間にあの扉まで辿り
ついて貰う事になる。
再びざわめきだした水面を見て、ラビーは杖を握り直した。




