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陽が昇る少し前、マルタ・アンデは目を覚ました。
冷え込む部屋だが、寒さには慣れている。何より彼女は王立学院の教官である前に魔術師なのだ。寒さの凌ぎ方など難しいことではない。
寝台から降り、服を着替える。着ていない服は直ぐに冷たくなるので、寝る前に温石を仕込んでおいた。ほのかにぬくもりが残る程度だが、これで十分。上着を重ね、手袋をはめて籠を持つと廊下へ出た。
王立学院の教官達は、専用の宿舎に部屋を与えられる。家族がいる者は王都で家を借りたりすることもあるが、殆どは宿舎住まいだ。寮監を担当する教官は学院生のいる寮住まいになることもある。
女性の教官は貴族の出身であることも少なくない。マルタも実家は貴族だが兄弟姉妹も多く、贅沢は許されない立場だった。自身が学院生だった頃から自立を模索し。幸い、薬術の教官として働くことが出来、今に至る。誰とも添い遂げることはなかったが、教え子は己の子の様なもの、寂しく感じることは無かった。なにせ魔術応用に進む学院生は一癖も二癖もあることが普通だから、あれこれと手を焼いているうちに気づいたら一年が終わっているのだ。
宿舎から外に出ると、まだ薄暗い。予定通りだ。
マルタは己の管轄下にある薬草畑へ向かう。
空を駆ける青い炎の馬と、それに乗った教え子。
鮮やかな赤毛が印象的で、頭はよく基礎課程から首席を譲ることもなく、素行にも問題なく――――それでいて、何か騒動があるといつもその中にいる様な存在。
それぞれの道を選んだ教え子達が学院に来ることもあったが、今回の様な訪問は今までにない。おそらく、これから未来もまずないだろう。
マルタは襟巻きを首元まであげ、足を早める。あと少しで夜明けが来てしまう、気が急いたがどうにか自分を落ち着かせて薬草畑までやってきた。
「やはり…」
昨日、こっそりと植えた種。
教え子が薬草畑に少しだけ不思議な力を降らせていったのだ。直ぐに部屋へ戻り、大切に保管していた種を持ち出して植えた。普通なら収穫まで5年近くかかり、水以外にも魔力を補充しながら育てる薬草だ。
それが今、大量の身をつけ青々とした葉を茂らせている。
マルタは薬草の葉に軽く触れる。潤沢な魔力に満たされたそれは、真冬だというのに枯れることもなく溢れんばかりの魔力を彼女の指先に伝えてきた。薬草を一通り確認してから、持参した鋏で茎を切る。何度かそれを繰り返し、根まで収穫すると籠に入れていた柔らかい布を広げ、その中に全てを収めた。その頃になって、ようやく辺りが明るくなる。間に合った、と一息ついてマルタは思い出した様に薬草畑の土を手に取った。この薬草は育てるのに手間暇がかかる上、土の力も奪っていく。普段ならば、薬草が植わっていた場所の土はボロボロになる筈だが――――。
薬草畑の土を握りしめたマルタは、微笑んだ。
■
「では、まいりましょうか」
執事に促され、ゼヴラン・ルニャールはため息をつく。
領地にいる父親からの帰還命令を無視し続けていたが、業を煮やした父が執事と馬車を寄越した。ここまできて拒否はできない。安全のために、王都のルニャール侯爵邸は閉鎖された。
(馬鹿馬鹿しい)
王都が戦乱に巻き込まれることなど、あり得ない。彼とは派閥の違うトビアス・ディターレは、派閥の枠を越えて国難を乗り越える必要があると主張していたが、ゼヴランも同じ考えだ。できれば王都に残り彼の手伝いをしたかったが、父の命を絶対とする執事まで寄越されてはどうしようもない。
(しかも…)
昨日、王都を横切った青い炎の馬。騎乗していたのは、数年前に学院を卒業した魔術師だという。ゼヴランもその馬を見たが、騎乗していた魔術師の顔までは判らなかった。
そして、昨夜もたらされた戦勝の知らせ。
あの青い炎の馬と魔術師がそれを成し遂げたという。ナード砦の海賊達を壊滅状態にし、海上にあったノルドの船を全て屠った――――たったひとりで。
(ありえない)
王宮魔術師でもない魔術師に、そんなことができる訳がない。おそらく何らかの陰謀か、嘘の戦勝報告だとゼヴランは考えている。王位簒奪を考えているシュタイン公爵か、実は王族の血を引いていないらしい女王が膠着する戦況を誤魔化すためにばらまいた適当な噂としか思えなかった。
(俺なら、あんな馬などいらない。陸上からいくつか魔術を打ち込めば終わりではないか)
ナード砦とて同じだ。騎士団の砦だというのに、海賊の上陸を許した。その段階で生き残った者は騎士を辞めるべきだろう。ナードと砦とて、それこそ魔術師達を10人くらい揃えれば砦など吹き飛ばすこともできる。領民は避難させればいいだけだ。
(あれくらいなら、俺でも出来た)
ルニャール侯爵家は北でそれなりの地位にあり、代々のシュタイン公爵にも重用されてきた。ゼヴランの曾祖母は公爵家から嫁いできている。英雄の血はゼヴランにも流れているのだ。どこの馬の骨か判らぬ魔術師が英雄になれる訳がない。
「ま、待ってくれ!」
馬車に乗ろうとして、学院の門のあたりから声がかけられる。顔をあげれば、見覚えのある人物がこちらを目指し走ってきていた。
「トビアス殿」
呆然としている間にも、彼はゼヴランの所までやってくる。
「領地、に、帰るって…」
息をつぎながら、トビアスは額に浮かんだ汗を手の甲で無造作に拭った。
「ええ、父の命で」
「そう、か…」
残念そうな表情をしたトビアスは、思い出した様に小脇に抱えた袋を執事へ手渡す。
「急だったから、その、あまり何も用意できなくて」
袋を開け中身を確認した執事がゼヴランへそれを差し出した。貴族としては当たり前のことだが、自分が受け取りたかったと思いつつ、彼も袋の中を見る。日持ちのしそうないくつかの焼き菓子と、小さめのパンが入っていた。
「これは」
「口にあうといいんだが…うちの料理長が作ったんだ。味は保証する」
「わざわざ…ありがとうございます」
二人は顔を見合わせ、頷く。
「早めに戻ってきます」
「…もっと色々話したかった。よかったら手紙をくれると嬉しい」
「ええ」
強く握手を交わし、ゼヴランは馬車に乗り込んだ。その後に執事が続き、扉が閉められる。御者が手綱をとり、馬が走り出す。
トビアスはその場で馬車を見送り――――そして、少しだけ嗤った。




