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ザ・スペシャルデイズ

作者: 犬山

 その日車内の人は疎らだった。

 終電が近いこともあるだろう。帰宅ラッシュも過ぎた車内は閑散としている。

 数人の乗客が余裕を持って悠々座席に座ることができている。

 なんとなく、座る気にならなくてドアの脇にもたれかかる。

 自動ドアがピシャリと閉じて、電車はゆっくりと発車した。

 

 多分私は景色が見たかったのだ。


 無機質な光に満ちたホームは既に遠く。

 右から左に流れていくぬばたまの闇。

 真っ暗な車外にはチラホラと街の明かりが浮かんでいる。その一つ一つが人の営みがたしかにそこにあることを主張する綺羅星なのだと思うと感慨深いものがあった。

 

 幼い頃、亡くなった人は夜空の星になると親に聞かされたことがあった。幼心に、それが本当だとすればいつの日か空は星々で埋め尽くされて暗闇は消えてしまうのではないか、と気を揉んだものだ。

 思い返せば子供ならではの微笑ましい心配だ。

 

 笑わないように、頬の引きつりを堪えていると、窓に映る光景に自然と目が留まった。

 

 外が暗く、中が明るいせいで、透明な窓ガラスはまるで鏡のように車内の光景を反射している。

 つまり、見えているのは私の背後。

 長椅子に撓垂れ掛かる真っ赤な顔の男性は、ベロンベロンに酔っ払っているらしく、先程から微かなイビキが聞こえてきている。彼の他に長椅子に座る者はなく、独占状態だ。そんな彼の前には吊り輪に掴まる若いニーちゃんが立っていた。

 どうしてこんなに空いた車内で立っているのだろう?座るばなんて探さなくても自然と見つかるだろうに。

 無視できないその違和感から、私は彼に注目していた。

 

 だらしなくワイシャツの胸元をはだけさせた酔っぱらいの右手の側には、投げ出された黒い手提げカバンが放置されていた。小指の先端が持ち手に辛うじて触れる位のギリギリの距離感。

 酔っ払いの傍に立つ青年は、周囲の視線を気にしているようだった。といっても乗り合わせた客は私を含めて数人。

 周りに無関心な彼らは、居眠りをするか、手元のスマホを弄るかのどちらかだ。

 青年はさりげなく周囲を見渡して、そして――

 

 盗った。目の前で行われた犯罪の決定的瞬間を目撃してしまった。

 カバンの内に片手を差し込んだ青年は、ごく自然な動作で中から財布を抜き出した。

 現金だけを素早く抜き取り、財布は元の場所に戻している。手慣れた動作は、彼にとってこのような窃盗が初めてではないことを窺わせた。

 

 こんな時どうすればいいのだろう。一番賢いのは、駅員か警察に後で連絡することだろう。実利と正義心を兼ね備えた素晴らしい選択だと思う。

 無視して見なかったフリも良いだろう。なにせこれほど無防備に眠り込んでいる酔っ払いに非がないとは言わせない。窃盗犯が野放しになるのはいただけないが、関わりを持ちたくないなら推奨される選択肢。

 だけど、私はそのどちらも選ばなかった。

 

 振り向き、背後から青年の肩を叩いた。


「何をしているんですか?」


 ぎょっとした風に振り返った青年。私の顔を見てひょろ長い優男だったことに露骨に安堵したようだ。ドスの利いた低い声で、脅すように詰め寄ってきた。


「なんだよ!?おっさんには関係ねぇだろ?」


「戻しておいた方がいい。偶然見えてしまってね」


「あぁ!!?てめぇには関係ねぇっつてんだろーが!」


 威勢よく叫ぶ青年。しかし騒ぎが大きくなり過ぎないように微妙に声量を抑えているようだ。常日頃の自分であれば、その怒声の強さに気圧されていてこんな余裕のある観察はできなかっただろう。冷静になってみると、滑稽な虚勢だというのがよく分かる。


「正義漢ぶってんじゃねぇよ!!無関係だろ、あんた」


 全く恐れる様子のない私に対し、嫌な予感を覚えたのか青年もようやく会話をするに気になったようだ。

 学生時代から文化部に所属していた私は、特殊な古武術を習得しているわけでも、暴漢撃退訓練を積んでいる警官でもない。ただの喧嘩もしたことがないしがないサラリーマンだ。暴力を振るわれれば、間違いなく一方的にやられてしまうだろう。

 私には何もない。あるのは余裕だけだ。

 

「人生の長い日々の中にはね、一日くらい正義ぶりたい日だってあるものさ。今日がまさに私にとってのその日だ。悪いことは言わない。やめておきなさい、そうしたら黙っていてあげるから」


「ってめぇ……」


 何か言葉が癪に障ったのか、顔面を一面朱に染めた青年は、拳を固め振りぬいた。

 キレる若者といっても、これは喧嘩早すぎだろう。

 頭のどこか冷静な部分が他人事のように言った。

 素直なストレートはまっすぐに私の頬目掛けて飛んでくる。頭でわかっていても避けるには至らない。せめて体を鍛えていたら華麗に回避することが出来るのだろうか。

 いくら精神的余裕があっても、出来ないことは出来ない。

 私にできることは首を回して痛みを和らげることだけだった。

 ガツン、と衝撃が脳を揺らす。くらくらと視界が揺れる。踏ん張って、倒れないように必死に堪える。丁度運良く電車が揺れたおかげでインパクトのポイントがズレたらしい。思ったよりも軽傷で済んだ。何本か歯がグラグラしているが、まあ構わないだろう。

 


「気は済んだか?戻しておきなさい」


 本当にすっきりしてしまったのか、それとも少ないながら居合わせた乗客の視線が気になったのかは定かではないが、青年は次の駅で叩きつけるように紙幣を酔客に投げつけて、足取り荒く下車していった。

 ぱちぱちと疎らな拍手。私と同じようなサラリーマンと、ほろよいの中年OLが私の行為を褒めてくれていた。

 照れ隠しで、お辞儀を何度か返す。

 騒動の原因でありながら、ずっと眠りこけていた酔っ払いは、その拍手の音でようやく目覚める。言い争いの声ではピクリともしなかったのに。

 散らばったお札が自分のものだと気づくと、慌てて拾い集めて乱暴にカバンに押し込んでいく。

 顛末を知らないのだから無理もないが、その際に間近にいた私には謂れのない非難の視線が向けられた。

 まあ酒精で判断力も低下しているだろうから仕方ない。ほんの少しさびしく思いながら、次の駅で降りていく髪の薄い酔客を見送った。酔いが冷めたのか、たっぷり眠れたのが良かったか、足取りはしっかりしている。無事に帰宅できることを願う。

 

 さて騒動は片付いた。あとは自分の用事を済ませるだけだ。

 じんじんと痺れる頬をハンカチで抑えながら、人の居なくなった車内に座る。

 あの青年は犯罪をやめてくれるだろうか。私が一度注意したくらいでは改善してはくれないか。

 あの酔っぱらいは過剰な飲酒を控えてくれるだろうか。未遂ではなく、実際に痛い目に遭わなければ生活習慣を改めるのは難しいか。

 

 ささやかな善行は、未来になんの影響ももたらさない些細なものだ。私が今日ここにいてもいなくても、彼らの人生は大きくは変わらないだろう。

 変わらない日々に、しかし参加できたことを嬉しく思う。

 

 車外を見る。

 命と生活の証である星星はだんだんと数が減っている。山や川といった自然が増え、人工の明かりは圧倒的な暗闇に押されがちである。

 

 ついに目的地に到着した。他に降車した客は誰も居ない。私一人だ。

 昼間ならば景勝地もあるこの駅は大勢の観光客で賑わうのだろうが、真夜中ともなれば寂しいものだ。

 改札を通過して、車の殆ど通らない田舎道を歩いていく。

 一歩一歩、草の匂いを嗅ぎ、星明りに目を細め、虫のさざめきに耳を澄ます。

 失われつつある自然の残滓がここにはあった。開発の目の届かない、路地の暗がりや草木茂る空き地。権利者が複数に渡るせいで買収のしづらい狭所。

 資本の投入が遅れている寂れたシャッター通りも、どこか郷愁を感じさせるもので。


 長い旅路に出る前の、見納めの景色としては悪くない。

 

「人生に一日くらい、自分のしたいように正義を為す日があってもいい」


 記念すべき今日。数十分もしない内に今日の日付は終わってしまう。

 記念すべき日。他の誰かにとっては一年三百六十五日のうちのありふれた一日でも、私にとっては唯一無二の記念日だ。

 記念すべき――

 

 できるだけ迷惑は掛けたくない。しかし全く迷惑をかけないというのは不可能だろう。

 意味もないかもしれないが、一応は先に謝っておく。

 

「ごめんなさい。掃除とか、いろいろご迷惑をお掛けします」


 立つ鳥跡を濁さずという諺もある。本来ならば私自身が綺麗にしておくのが筋なのだが、こればっかりはどうしようもない。

 旅立ちを前にして、顔も知れぬ清掃員の苦労を思い、申し訳なさで胸がいっぱいになった。

 あれ?泣きそうだ。もっと泣くべき事柄は幾らでもあるだろうに。

 後悔とか、辛いこととか。涙の話題には事欠かない筈なのに。どうしてか、人の迷惑ばかりが思われて、泣けてくる。

 それは自分が空虚な人間だったからなのか。それともこんな状況でも他人のことを思いやれる人間だったからなのか。

 後者の方が外面がいい。そういうことにしておこう。それくらいの見栄は張っても許されると思う。

 

 橋の袂に立つ。深い渓谷の底のほうではざあざあと水音が響いている。先日の台風で増水した影響がまだ残っていたのか、随分と激しい勢いである。

 まあ普段の川を知らないから、これが常態なのかもしれないのだが。

  長さ十数メートルの吊り橋は、深山幽谷の景観にそぐわない近代的な造りだ。いや、格好良く言ったところで本質は誤魔化せない。どこの田舎にでもあるような、ただの吊り橋。

 太いワイヤーが幾本も撚り合わされて、極めて頑丈な吊紐となって橋を支えている。


「お前、凄いよなあ。一年中、全く休む日もなく常に張り詰めて、こんな重いものを支え続けて。疲れてもちょっと休憩なんてわけにはいかなくて……。よく、頑張るなぁ」


 ごわごわとしたそのワイヤーを不器用に撫でる。普段なら絶対にこんなことはしない。

 人形とか動物とか、ものに話しかけるなんて、女子供じゃあるまいし。

 でも今日くらいはいいだろう。なんといっても記念日だ。

 唯一無二、絶対に二度と味わえない、記念日。

 

 レア度でいえば誕生日と同じくらいには凄いのではなかろうか。

 橋には転落防止用の手すりがかなり高い位置に張られている。これだけの高さだ。万が一にも落ちれば命は無いからその対策は入念だ。

 万が一落下で即死を免れてもこの川の下流は、滝になっていたはずだ。鋭い岩肌むき出しの滝壺まで落ちて無事でいられるはずがない。

 

 靴は脱がなかった。腕時計も外したりはしない。

 やはり面倒を掛けたくなかったの言うのが一番だが。

 恥ずかしいという感情もあった。だってなんだか、自己主張が激しすぎるように思えるのだ。なんのかんのと言い繕ったところで、所詮私達は敗者であり、逃走者だ。諦め、屈した癖に「私を見て!」なんて羞恥プレイは御免だ。

 潔くないと思う。無論、個人的な感想であることは付記しておかねばならないが。

 

 ふと腕時計を確認すると、後数分で長針と短針が重なろうとしている。

 もう今日も終わりだ。記念すべき、命の火が終わる。

 今日この日が終わっても、全く変わらずに朝日は昇るのだろう。同じ朝を迎え、同じ一日を刻む。

 自然の雄大さというやつだ。我々人類の短い寿命に比して、彼らの視点は驚くほどに気長だ。人間関係の全てを些事と言い切ってしまえる強さがある。

 ならば彼らの将来を見ること無く去っていくことに未練はない。私が居なくても地球は周り、明日は来るのだから。


 翻って人間の社会は?

 確かに私のような小人が居てもいなくても大きな流れというものは変化しないに違いない。

 巨悪はのさばり、英雄は革命を起こす。歴史は変わらない。


 電車での出来事を思い出す。捨て鉢になってみて、それでたった一つ成せたことはあの程度の善行。水面に波紋すら起こせない泡沫のような雨滴。私は所詮その程度の人間だったということだ。


「生涯に一度、正義を為せる日がある」


 しかし、それでも、善い事ができた。もしかすると、世の中という奴は、私のような小人がなけなしの意志の力を振り絞り、善行を積み上げて出来ているのではないだろうか。

 歴史のような大きなものを、大小様々無数の歯車で動くカラクリに例えると、人は歯車。ちょっとした思いやりや善行は、回転に不可欠ではないにせよ、噛み合わせを滑らかにする潤滑油。

 凄い人、殿上人はこんなことに構っていられない。人よりももっと上、もっと先を見つめているのだろう。

 小人には小人らしい分がある。だったら私にだって何処かに居場所があるのかもしれない。

 潤滑油を注ぐ人間、注げる人間だから。不要だと言われても、邪険に扱われても、居てもいなくても同じでも、頑張る人は無数にいるのではないだろうか。彼らの人知れない善意が、社会の破滅的な故障を先延ばしにしているのでは?

 わからない。考えてもわかることではないと思う。

 しかし――


「闇が深いな」


 普段都市の明る過ぎる位の輝きに慣れているから、田舎の暗闇は本当に何も見えない。ここに来るために夜間立ち入り禁止の柵越えをするのも一苦労だったし。

 月明かりをこれほどありがたいと感じたのは初めてかもしれない。


 見通せない暗い闇。見えなくてもいい。わからなくてもいい、と思考を放棄する。

 

「人生には一日だけ特別な日がある。――それが今日だ」


 そして、今日という日は終わり――






 濡れた風が吹いた。

 渓谷にかかる吊り橋が、かすかに揺れていた。

 数分前までその上で、じっと暗い水を見つめていた人影は、もう何処にも見当たらなかった。

 ざあざあという水音がうるさいくらいに闇の中に響いていた。

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