AIの功罪~本当にそれだけで十分か?~
それに気が付いたのは、なろうでAI作品の見分け方が話題になっていたからでした。
いわゆるこたつ記事と呼ばれるポータルサイトのコラムみたいなものって読みますか?
私は気になる見出しがあると結構読んじゃう方なんです。
ある時読んだ記事は、名前を西欧風に変えればそのままなろうランキングに並んでいるような、シゴデキ令嬢が婚約破棄されてざまあする、そんな内容でした。
なろうっぽい話題だなぁ、と思いながら読んで、最後の一文で思わず突っ込みを入れてしまいました。
『それだけで、十分だった。』
いや、誰目線の文章やねん!
コラムなので文章は三人称。ニュースとコラムの中間くらいの、少し距離間のある語り口。なのに文章の締めが『それだけで、十分だった。』なんですよ。
例えば『その後の噂によると、元婚約者は~だったそうです。』みたいな締め方なら、それほど違和感はありませんでした。
別に実話だと思って読んでないけど、最後にツッコませないでくれ。
わかりますよ、こたつ記事。
やっすい原稿料で目先だけ変えて量産が求められる文章ならば、同じプロンプトを投げ込んでAIで生成するのもある意味正しい戦略だと思います。
かつて完全にアナログにライターが記事を書いていた時代にだって、いきなり筆者の主観が混ざり込んで、このライターは一体どの立場で文章を書いてるんだろう、と思うことはままありました。
でも、ですね。
コラムなんて創作臭を漂わせた途端に、マックで女子高生がしゃべってた話になり下がるんですよ。
マックで女子高生がアレなら、嘘松でもいい。
あぁ、これ適当なプロンプトをAIに食わせただけだな、ってわかってしまったら、そのもとになったプロンプト、本当に実話が元? って思いませんか。
さすがにポータルサイトで見かけるこたつ記事に信憑性があるとは信じていませんが、それでもそこまで信頼性を投げ捨てなくてもいいじゃない。
AI使ったことがないのでわからないのですが、小説とコラムで同じものを使っちゃだめじゃない?
もしかして小論文とかでも『それだけで、十分だった。』みたいな一文が入ってたりするのかな。
AIに司馬遼太郎先生の作品とか、司馬ワナビーの文章大漁に食わせたら、筆者が史跡を巡って裏路地に佇んだりするのかな……。その場合の筆者って誰なのよ。




