城壁の落書きは、何度消しても増えるのです 〜消す仕事に落とされた没落令嬢のわたしが、辺境伯家が“なかったこと”にした名前を彫っていたら、辺境伯子息に求婚されました〜
◆一 消す仕事
その字は、昨日たしかに消したはずだった。
外郭三番壁のいちばん下、わたしの腰ほどの高さに、細い字がまた並んでいる。朝いちばんに水を運んできたわたしは、桶を足もとに置いて、しばらく、その字を見おろした。何と書いてあるのかは、わからない。わたしには、字が読めない。ただ、くねった線が、いくつも横に連なっているのを見て、ああまた戻っている、と思うだけだった。
昨日の夕暮れ、わたしはこの同じ場所を、指の皮がふやけるまで、こすって消した。石灰の粉と灰汁を混ぜた液に、硬い刷毛をひたして、線の一本一本を、追いかけて落とした。消したはずだった。それが朝には、また元どおり、そこにある。
わたしは刷毛を桶にひたし、また消しはじめた。
「よう、落書き消し」
背中に声がかかった。振り向かなくても誰だかわかる。詰め所の若い兵だ。壁の見回りのついでに、わたしをからかっていくのが日課になっている。
「精が出るな。消しても消しても増える壁を、毎朝こすってよ」男は槍の石突きで地面を鳴らした。「よくもまあ飽きねえもんだ。あんたの仕事は、この国でいちばんいらねえ仕事だぜ。兵は壁を守る、石工は壁を直す。あんたは——落書きをこすってるだけだ」
わたしは手を止めなかった。いらない仕事、という言葉には、もう慣れた。慣れないのは、そう言う人ほど、この壁の下の字を一度も真面目に見たことがない、というほうだった。
「そこの掲示は読んだか」男があごで、詰め所の柱に貼られた紙をしゃくった。「監察官さまがお着きになる。美観点検だとよ。壁を汚しておくと、あんた、鞭だぞ」
「……はい。読みました」
わたしは紙のほうを見て、うなずいた。ほんとうは、一文字も読めていない。読めるふりをするのは、もう、息をするのと同じくらい、自然にできる。目を紙に向けて、少し眉を寄せて、それらしくうなずく。それだけで、たいていの人は、疑わない。
没落した家に生まれて、字を習う暇はなかった。家がまだあったころ、母は読み書きを教えようとしてくれた。けれどその母も早くに逝って、わたしの手もとに残ったのは、母の形見の小さな銀の飾りひとつと、読めない自分だけだった。名を捨て、家名を隠して、こうして城壁の下働きにもぐり込んだ。字が読めないと知られれば、下働きの口さえ危うい。だから隠す。壁の字を消しながら、自分の素性も、毎日こすって薄くしているようなものだった。
それでも、この壁の字だけは、消すのが少しだけ惜しかった。
なぜだかは、自分でもわからない。読めない線の連なりなのに、消すたびに、胸の奥がちくりとした。線の一本一本に、癖がある。とめる場所、はねる場所、力の入りぐあい。毎朝おなじ字を追ううちに、わたしの指は、その癖をすっかり覚えてしまっていた。読めないのに、書けと言われれば、そっくりに書けそうな気さえした。
だから、消しても翌朝また戻っているのを見ると、腹が立つより先に、どこかでほっとしている自分がいた。消えてほしくないものを、無理やり消させられている——そんな、ちぐはぐな心持ちが、いつも胸の隅にあった。
その日の昼すぎ、監察官が着いた。
馬から降りたのは、思ったよりずっと若い男だった。二十歳を、少し越えたくらいだろうか。仕立てのよい灰色の外套に、乱れのない黒髪。背筋の伸びた立ち姿には、生まれたときから、人に見られることに慣れた者の、静かな重さがあった。詰め所の兵たちが、いっせいに背を正した。
「辺境伯家のクレイスさまだ」誰かが小声で言った。「辺境伯さまの弟君。此度の点検の、監察官さまだよ」
クレイスと呼ばれたその人は、壁沿いをゆっくりと歩き、ときおり立ち止まっては石の目を検めていった。無駄がなく、冷たいほどに正確な目だった。やがて三番壁のあの一角——字の並んだ場所の前まで来て、彼は足を止めた。
ほんの少し、長すぎるほどに、そこで黙っていた。
「これは」やっと出た声は、低く硬かった。「落書きだな」
「はい」わたしは桶を抱えて進み出た。「毎朝、消しております。ですが……幾度消しても、翌朝にはまた」
「消えるまで消せ」彼はわたしを見もせずに言った。「壁は国の顔だ。顔に落書きを残すな。次に私が来るときまでに、一字残らず消えていること。いいな」
「はい」
彼は外套の裾をひるがえして、次の壁へ歩いていった。冷たいひとだ、とわたしは思った。壁を、人の顔ほどにも思っていない、規則だけのひと。それが、この人への最初の印象だった。
ただ、ひとつだけ、妙なことがあった。あれほど無駄のない足どりのくせに、この三番壁の前でだけ、彼の歩みは、ほんの少し、重かった。まるで、見たくないものから目をそらすように。そのときのわたしは、その意味を、まだ知らなかった。
その夜も、わたしは字を消した。灰汁が手のひらにしみて、ひりひりと痛んだ。全部消して、桶をかたづけて、寝床にもぐった。
三日後の朝。同じ場所に、同じ字が、まったく同じかたちで、また並んでいた。
◆二 書く人
誰かが、書いている。
あたりまえのことに、わたしはようやく思いいたった。字はひとりでに生えてこない。誰かが、わたしが消すそばから、夜のあいだに書き足しているのだ。それが誰なのか、この目で確かめようと決めた。
その夜、わたしは物置の陰に身をひそめて、三番壁を見張った。月が二つとも高くのぼり、壁の影が長く伸びるころ、詰め所のほうから、ひとつの人影が、壁づたいに近づいてきた。
古参兵のオスカだった。
六十を越えた白髪の老兵で、夜勤明けに、ふらりとどこかへ消える癖がある、と兵たちが噂していた男だ。オスカは三番壁の下にしゃがみ、ふところから、炭のかけらを取り出すと、慣れた手つきで、字を書きはじめた。わたしが昼に消したばかりの、あの場所に。
わたしは陰から出た。
「オスカさん」
老兵の肩が、びくりと震えた。振り返った顔に、悪びれた色はなかった。ただ、見られてしまった、という静かなあきらめだけがあった。
「……見ていたのか、嬢ちゃん」
「これは、なんですか」わたしは字を指さした。「わたし、毎日これを消せと言われて、消しています。でも、これは……落書き、なんですか」
オスカは炭を持った手を下ろし、壁の字をなでた。骨ばった指が、ひとつひとつの線を、たしかめるようにたどっていく。
「名前だ」
その一言が、胸の奥で妙に重く落ちた。
「名前……ですか」
「ああ。ここに書いてあるのは、みんな、人の名前だ」オスカの声は、夜の底に沈むように低かった。「十年前になる。ニース海峡の際で、小競り合いがあった。よくある小競り合いだ。この百年、絶えたことのない、ちいさな戦さのひとつだよ。だがその夜だけは、退き際をしくじった。橋を落として味方を逃がすために、殿軍が、残った」
オスカは壁に背をあずけ、ゆっくりと腰をおろした。
「儂は、その殿軍の生き残りだ。ひとりだけ、生きて帰ってきた。ほかの奴らは、みんなここで死んだ。この三番壁が、あいつらが最後に背中をあずけた壁だった。……あいつらには、墓がない。骨も、海峡の底だ。だから儂は、せめて名前だけでも、消えねえようにと思ってな」
オスカは、列のはじめのほうの一つを、指でたどった。
「これはな、ラルフってんだ。まだ十七の若造だった。故郷に、祝言をあげる約束の娘がいてな。あの夜も、終わったら村に帰るんだ、って笑ってた。……名を書いておかねえと、儂まで忘れちまう。儂が忘れたら、この世でもう誰も、ラルフがいたことを覚えてる者は、いなくなる」
わたしは、その一つの線を見た。ラルフ、という音が、ただの線を、ひとりの若者に変えた。祝言の約束をして、村へ帰るつもりだった、十七の若者に。
わたしは、字を見た。
いままで、ただの線にしか見えなかったものが、急に、ひとりひとりの人になって、立ちあがってくる気がした。わたしはこの十日あまり、毎朝、この人たちの名前を、灰汁でこすって消していた。名前を消すというのが、どういうことかも知らずに。
「わたし……」声が震えた。「わたし、この名前を、消してたんですか」
「嬢ちゃんのせいじゃねえ」
「わたし、字が読めないんです」
言ってしまってから、しまった、と思った。誰にも隠してきたことだった。けれど口から出た言葉は、もう戻らない。
「読めないから、これがただの落書きだと思って、毎日こすってました。人の名前だなんて、知らなかった。わたし……墓のかわりの名前を、毎日、消してたんですね」
涙が、ぼろぼろとこぼれた。とめようとしても、とまらなかった。
オスカは何も言わず、ただ、うなずいた。それから、字の並びのいちばん端——ほかの名前が始まるより少し手前の、何も書かれていない空きを、そっと手のひらでおおった。
「ここだけはな、空けてあるんだ」
「そこは……?」
「隊長どのの、席だ」オスカの声が、かすれた。「殿軍を率いた、若いお貴族さまだ。逃げようと思えば、真っ先に逃げられるお立場だった。だが、あの人は逃げなかった。おれたちと残る、と言ってな。最後まで、兵とおなじ場所で戦って、おなじ場所で死んだ」
オスカは空きをなでたまま、続けた。
「お貴族さまの名は、王都の立派な慰霊碑に、金の文字で刻まれてる。兵とは別の場所に、別の格でな。……だがあの人は、そういうのを、いちばん嫌うお人だった。おれたちと一緒にいたい人だった。だから儂は、ここに、あの人の名を書けねえでいる。書いていいものか、いまだにわからねえのさ。金の碑に刻まれたお人を、こんな壁の落書きに引きずりおろしていいのか、ってな」
わたしの息が、止まった。
十年前。ニース海峡の際の退却戦。殿軍を率いて、兵と残って死んだ、若い貴族の隊長。——それは、わたしの父の話だった。
父が異国との際で死んだと聞かされたのは、わたしが、まだ幼いころだった。家はそのあと、坂を転げるように傾いて、なくなった。父がどんなふうに死んだのか、詳しくは、誰も教えてくれなかった。ただ、名誉の戦死だ、王都の碑に名が刻まれた立派な最期だ、とだけ。
その父が、逃げずに、名もない兵たちと最後まで一緒にいた人だったと、わたしはいま、はじめて知った。父の名は金の文字で碑に刻まれ、そのせいで、いちばん一緒にいたかった人たちのそばだけが、空いている。
わたしは、その空きを見つめた。何も言えなかった。父の娘だと、口にすることさえできなかった。家名を隠して生きてきたわたしには、名乗る資格が、もうない気がした。
そのときだった。
「——ここで、何をしている」
松明の灯りとともに、監察官クレイスが、兵を数人連れて立っていた。夜の見回りに出て、灯りを見つけたのだろう。彼の視線が、オスカの手の炭と、壁の字を、素早く捉えた。
「書いていたのは、貴様か」クレイスの声は氷のようだった。「落書きの主は、詰め所の兵だったか。いいか、よく聞け。次にこの壁へ一字でも書けば、書いた者を規則どおり処罰する。老いも若きも関係ない。壁は国の顔だ。私は顔の汚れを、見のがさん」
「なら」オスカが、よろよろと立ちあがった。「儂が罰を受けるだけです。何度でも書きます。何度でも罰を受けます。この名前を消えたままにするくらいなら、儂は」
「オスカさん」
わたしは思わず、老兵の腕をつかんだ。この人にこれ以上、罰を受けさせてはいけない。十年、たったひとりで書き続けてきたこの人に。
わたしの頭のなかで、ひとつの言葉が、火花のようにはじけた。
消せと言われたのは、落書きだ。
その夜、詰め所のみんなが寝しずまったころ、わたしは壁沿いを走っていた。向かう先は、外郭の補修をうけおう、石工の親方の家だった。戸を、たたく。
「親方。石の彫り方を、教えてください」
◆三 彫る夜
戸を開けたのは、五十がらみの、日に焼けた女の人だった。
「石工の親方は」わたしが言いかけると、女の人はぶっきらぼうに、自分の胸を親指でさした。
「あたしだよ。マレンだ。女で石のみを握るのは珍しいかい。珍しいだろうさ」
「エルナ、といいます」わたしは頭を下げた。家名は、言えなかった。ただの下働きの、エルナ。それが、いまのわたしの名前だった。
マレン親方は、腕組みをして、わたしを見おろした。灰色の目が、値ぶみするように、わたしを検める。
「彫り方を教えろだと。こんな夜中に。なんでまた」
わたしは、洗いざらい話した。三番壁の名前のこと。オスカのこと。次に書けば罰だと言われたこと。そして——書くのが落書きなら罰を受ける。でも、彫るのは落書きではないはずだ、ということ。
マレンはしばらく黙って聞いていた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「炭で書けば消される。石を彫れば、消えねえ。……たしかに、そのとおりだよ」マレンは戸の奥へあごをしゃくった。「入りな。手を見せろ」
わたしの両手を取って、マレンはその皮のやわらかさに、また鼻を鳴らした。
「灰汁でふやけた、下働きの手だ。石を彫る手じゃない。血が出るよ。指の皮がむけて、のみを握るたびに泣きたくなる。それでもやるかい」
「やります」
マレンは、わたしに小さなのみと木づちを握らせた。そして、いらなくなった石のかけらに、線を彫るやり方を、教えはじめた。のみのあて方、木づちの振り方、力の抜きどころ。石は硬く、のみはすぐにすべって、わたしの指を、ひっかいた。血がにじんだ。それでもわたしは、線を彫った。
「筋は悪くない」マレンが、ぼそりと言った。「ひとつ、覚えときな。石は消えん。炭は消える、墨も消える、人の記憶も消える。だが石に彫った字だけは、消えん。……あたしが、なんで女だてらに石工をやってると思う。あたしはね、墓を彫るのさ。死んだ者の名を、石に刻んで残す。それがあたしの仕事だ」
マレンの手が、ふと止まった。
「もっとも、彫れなかった墓も、ひとつだけ、あるがね」
それきり、マレンは何も言わなかった。わたしも訊かなかった。海に骨をとられて、彫るべき名を刻めなかった墓が、この人にもあるのだと、なんとなくわかった。それはきっと、あの三番壁の名前と、同じ痛みだった。
のちに知ったことだが、マレンが彫れなかった墓というのは、あの退却戦で海に消えた、弟のものだった。骨が返らねば、墓は立てられない。名を刻む石の下に、納めるものが、何もないからだ。マレンは十年、弟の名を彫れずにきた。そして、三番壁に炭で書かれた名前のなかに、弟の名があることも、とうから知っていた。オスカが夜ごと書き直すその字を、マレンはずっと、黙って、ありがたく思っていたのだという。
「あんたが、あの壁を石にするってんなら」マレンは、のみの柄で、とん、と台を打った。「あたしが手を貸さねえわけが、ないだろう」
半月のあいだ、わたしは毎晩、マレンの家でのみを握った。賃金を前借りして、自分ののみを買った。指の皮は何度もむけて、そのたびに布を巻いて、また握った。
いよいよ壁を彫る、と決めた前の晩。
わたしは自分の寝床に座って、しばらく動けずにいた。彫れば、もう戻れない。落書きを消す下働きが、壁に無断でのみを入れれば、詰め所を追われる。追われれば、寝る場所も、毎日の飯も、いっぺんに失う。それだけではない。壁を彫る手つきを見られれば、下働きが、のみを握れるわけを問われる。問われれば、いつか素性が知れる。子爵家の娘だと隠してきた、たったひとつの秘密が、こわれる。
わたしは、ふところから母の形見の銀の飾りを取り出して、手のひらにのせた。家名の証の、小さな紋章が刻まれている。読めない字のかわりに、この紋章だけが、わたしがかつて誰だったかを知っている。
——お父さま。
わたしは飾りを、そっと握りしめた。逃げずに、名もない人たちと最後まで一緒にいた父。その父の名だけが、いちばんそばにいたい場所で、空いている。
わたしは立ちあがった。捨てるものは、全部わかっていた。それでも、行くと決めた。
その夜から、わたしは彫った。
オスカが炭で書いてくれた名前を、一字ずつ、石にうつしていく。読めない字を、線のかたちのまま、丁寧になぞって刻む。のみを打つ音が、夜の壁に、こつ、こつ、と響いた。指から血がにじんで、石の粉がそれを吸った。
三日目の夜。ふと気配を感じて振り返ると、オスカが、灯りを持って立っていた。
老兵は何も言わなかった。ただ、わたしのそばに来て、風で消えないように、両手で灯りをかばって、掲げてくれた。彫るわたしの手もとを、あたたかい光が照らした。それから毎晩、オスカは黙って灯りを持って、立っていてくれた。
名前を彫り終えた最後の夜。わたしは、あの空きの前に立った。
オスカが「隊長どのの席だ」と言った、何も刻まれていない場所。金の碑に名を奪われて、いちばんそばにいたい人たちから引き離された、父の席。
わたしはのみをあてた。そして、母から一度だけ教わって、たったひとつ、書けるようになっていた字——自分の父の名を、その空きに、刻んだ。
◆四 名前の壁
壁面点検の朝が来た。
三番壁の前に、詰め所の兵たちと、石工たちが並んだ。あの若い兵も、槍を立てて列に加わっている。監察官クレイスが、灰色の外套をひるがえして進み出て、壁を検分しはじめた。
彼の足が、あの一角の前で、止まった。
石に、深く、消えない字が刻まれている。灰汁でも、雨でも、百年たっても消えない字が。クレイスは、しばらく、その名前の列を、ただ見ていた。
「これを彫ったのは、誰だ」
声が、低く響いた。わたしは列から進み出た。
「わたしです」
ざわめきが起きた。あの若い兵が、まさか、という顔でわたしを見た。
「消せと命じられたのは、落書きです」わたしは、まっすぐにクレイスを見た。声が震えないように、腹に力を入れた。「炭で書いた字は、落書きかもしれません。でも、石に彫った字は、落書きではありません。これは——墓です。海に骨をとられて、墓を持てなかった人たちの、たったひとつの墓です」
「……墓、だと」
「はい」わたしは、あの空きに刻んだ名を指さした。「そして、この場所に彫った名前は——わたしの父の名です。十年前、ニース海峡の殿軍を率いて、逃げずに、兵たちと最後まで一緒にいて、死んだ人。わたしは、その人の娘です」
クレイスの顔から、血の気が引いた。
彼は、わたしを罰するのも忘れたように、壁の名前の列を、もう一度、端から端まで見た。その目が、あの空きに刻まれた父の名で、止まった。そして、長い、長い沈黙が落ちた。
「……知っている」やがて、絞り出すような声だった。「その退却戦のことを、私は、知っている。あの夜、殿軍が橋を落として逃がした味方の中に——辺境伯家の跡取りが、いた。私の兄だ」
列の兵たちが、息をのんだ。
「兄は、生きて帰った。だからいま、辺境伯家は続いている。私が、ここにこうして立っていられるのも、そのおかげだ」クレイスの声が、震えた。「だが、我が家は、あの退却戦のことを、一度も口にしてこなかった。味方を逃がすために、兵を見殺しにした夜のことを、家の恥として、なかったことにしてきた。……この壁の名前を『落書き』と呼んで、消させていたのは、その恥を、消すためだった」
彼は、壁に手をついた。まるで、立っていられないというように。
「私は、私の家を生かしてくれた者たちの名を、汚れと呼んで、消させていたのか」
わたしは、何も言えなかった。
でも、胸のなかで、何かが変わっていくのが、わかった。氷のように冷たいひとだと、規則しか見ていないひとだと、わたしはずっと思っていた。ちがった。このひとは、壁に手をついて、肩を震わせている。名を消せと命じながら、そのじつ、いちばん消せずに苦しんでいたのは、このひと自身だった。
監察官さま、と身構えていた気持ちが、すっと、ほどけていった。このひとは、敵ではなかった。わたしと同じ、消せない名前を胸に抱えた、ひとりの人間だった。そう思ったとき、こわいはずの相手が、急に、すぐそばに感じられた。
クレイスは、しばらく壁に手をついたまま、うつむいていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。その目は、もう監察官の冷たい目ではなかった。けれど、泣き崩れてもいなかった。彼は、背筋を伸ばして、詰め所の兵たちに向き直った。
「聞け」よく通る声だった。「本日をもって、外郭三番壁のこの一角を、慰霊の壁として正式に登録する。辺境伯家の名において。ここに刻まれた名は、貴族も、兵も、区別しない。ひとつの名簿として、この壁が続くかぎり、守る。——これは、命令だ」
規則で消させた壁を、その同じ規則の人が、規則で、弔った。
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、あの若い兵が、列から一歩、進み出た。かつてわたしを「いちばんいらない仕事」と笑った男だ。彼は壁の名前を見あげて、それから、無言で、かぶっていた鉄の帽子を脱いだ。つられるように、ほかの兵たちも、一人、また一人と、帽子を取っていく。
「……悪かったな」若い兵が、帽子を胸にあてたまま、ぼそりと言った。わたしにではなく、壁に向かって言ったようだった。「いちばんいらねえ仕事だと、俺は、あんたに言った。いちばん大事な仕事を、あんたはずっと、やってたんだな」
わたしは、首を横に振った。うまく言葉が出なかったけれど、その一言だけで、十日ぶんの灰汁の痛みが、少しだけ報われた気がした。
石工のマレンが、人垣を分けて前に出た。
「彫り方は、あたしが教えたよ」ぶっきらぼうに、けれど誇らしげに、マレンは言った。「墓を彫るのは、あたしの仕事だ。このエルナの手は、いい墓を彫った」
そして、オスカが、進み出た。
「監察官さま」老兵は、背筋を伸ばして言った。「罰するなら、儂を罰してください。十年、この壁に書き続けてきたのは、儂です。この娘は、儂のやったことを、引き継いだだけだ」
クレイスは、オスカを見た。そして、静かに、首を横に振った。
「罰する者は、いない」
点検の列が解けたあとも、わたしは壁の前に残っていた。クレイスも、去らずに、わたしのそばに立っていた。
「ひとつ、頼みがある」彼が、ぽつりと言った。「私に、彫り方を教えてくれないか」
わたしは、彼を見あげた。
「兄の——いや、辺境伯家の名で、この壁を守ると言った。だが、口で守ると言うだけでは、足りない気がする。私自身の手で、彫りたい。この人たちの名を、ひとつでも」クレイスは、自分の手のひらを見た。剣は握れても、のみを握ったことのない手だった。「だが、私は、彫り方を知らない」
わたしは、まだ名前の入りきらない、壁の余白を見た。オスカが覚えている名は、まだ何人分か、残っている。
「……こうです」
わたしは彼の手に、自分ののみを握らせ、その上から、手を添えた。木づちの振り方を、力の抜きどころを、マレンがわたしに教えてくれたように、伝える。彼の手は硬くて、大きくて、けれどのみを握ると、ひどく不器用だった。
こつ、と一打ち。石の粉が舞った。二打ち目で、彼の手がすべって、わたしの指の背に、彼の指先が触れた。皮のむけた、わたしの指に。同じように、のみを握りそこねて赤くなった、彼の指が。
触れた指先から、胸のほうへ、熱いものが走った。心臓が、自分でも驚くくらい、大きく鳴った。剣なら苦もなく握れるだろうこの手が、名前を彫ろうとして、こんなにも不器用に震えている。その手つきを見ていたら、胸の奥が、じんと、あたたかくなった。
わたしは、もう気づいていた。これは、監察官さまへの、おそれなんかじゃない。いつからか、わたしは、このひとに惹かれていたのだ。消える名前を守ろうとする、まっすぐなこのひとに。
二人とも、手を引かなかった。
「あなたの家名は」クレイスが、壁を見つめたまま、低く言った。「私の権限で、戻せる。子爵家を、再興させることもできる。……だが、それを言いに来たんじゃない」
彼は、わたしのほうを向いた。
「エルナ」
はじめて、彼がわたしの名を呼んだ。さっき、マレンが呼ぶのを聞いて、覚えたのだろう。その低い声で名を呼ばれただけで、胸が、ことりと鳴った。
「あなたを見ていて、思ったんだ」クレイスの声が、ほんの少し、やわらかくなった。「処罰すると言われても、居場所を失うとわかっていても、あなたは、見も知らぬ者の名を守るために、指が血だらけになるまで、石を彫った。私は、あんなにまっすぐな人を、見たことがない。……気づいたら、あなたから、目が離せなくなっていた」
わたしの胸が、どきりと、高く鳴った。
「私は、二度と、どの名も消させない仕事を、あなたと一生やりたい。あなたと、一緒に」
風が、壁の上を吹きぬけた。
それが求婚なのだと気づいたとき、わたしの胸は、いっぱいになった。家を戻してやる、という話ではなかった。父の娘だから報いる、という話でもなかった。血のにじむ手で名前を守ろうとした、わたしという人間そのものを、このひとは、まっすぐに見て、選んでくれた。
わたしは、うつむいた。頬が、熱くてたまらなかった。壁の下働きの、灰汁でふやけた手を、辺境伯家のひとが、握ったまま離さない。うれしくて、少しこわくて、それでも、この手を振りほどきたいとは、少しも思わなかった。
「わたし、字が読めません」わたしは、正直に言った。「家名も、もう、ほとんど残っていません。あなたの隣に立てるような娘では」
「字なら」クレイスが、わずかに笑った。はじめて見る、やわらかい顔だった。「私が教える。あなたが私に、彫り方を教えるように」
わたしは、うなずいた。声にするかわりに、握られたままの手を、そっと握りかえした。皮のむけたわたしの指と、のみだこのできかけた彼の指が、石の粉の上で、静かに組み合った。それが、わたしの返事だった。
わたしは、彫ったばかりの父の名を、見た。
そして、壁に並ぶ名前を、一つずつ、指でたどっていった。読めない字だ。それでも、この半月、一字ずつ石に刻んだ字だけは、線のかたちを、この指が覚えている。わたしは、その一つを、声に出して読んだ。父の名を。それから、その隣の、名もない兵の名を。オスカが教えてくれた、ひとつずつの名を。
わたしが読めるようになった、いちばん最初の字は、この、彫った名前たちだった。
消しても消えない字は、壁ではなく、心に書いてある。
オスカが、隣で、そっと帽子を取った。壁の上の空は、よく晴れていた。海峡から吹く風が、石に刻まれた名前を、いつまでも、消えないままに、なでていった。




