辺境伯は杯を干さない ~死んだ聖女についての、とある告解~
上等な酒だった。
南方産の果実酒。濃いオレンジ色の液体が、燭台の光を受けて静かに揺れる。一瓶で辺境の兵士三人分の月給が飛ぶ代物だ。それがファルス辺境伯ハインツ・ファルスの前に、惜しげもなく置かれていた。
「遠路ご苦労だった、辺境伯。堅い話は日中で済ませた。今夜は軽く飲もう」
「恐縮です、陛下」
国王ユリアンの私室。先王が急逝し、予定より十年は早く玉座に就いた若い王だ。ずば抜けた美貌の持ち主で、いまだ結婚はしていないが、聖女リーネと結婚するのだろうと、誰もが噂している。
給仕は下がらせてある。侍従も、護衛も。二人きりだ。
つまりこの若い王には、人に聞かれたくない話がある。
ハインツは五十三年の人生で、この手の酒席を幾度も経験してきた。
上等な酒。二人きり。給仕なし。
これは社交ではない。何かを吐き出したい人間の、受け皿を務めさせられる席。つまり、貴族にとっての「政治」だ。
杯を持ち上げ、口をつけた。美味い。果実の甘みの奥に、鉱石のような硬い余韻がある。辺境の蒸留酒……喉を焼く荒っぽい地酒とは、別の飲み物だ。
もっともハインツとしては、末期の酒は地酒に限ると思っている。側近には大げさだとか不吉だとか言われるが、この歳になると、どの酒が末期の酒になるか、わからないものだ。
◇
ユリアンはすでに一杯目を半分空けていた。手酌の席だが、杯の持ち方が、少し荒い。
「辺境の結界は問題ないのだったな」
「はい。元より辺境は結界が薄うございましたゆえ、住民も自衛には慣れております」
嘘ではない。が、真実の半分だ。
結界が薄いのは事実。住民の自衛が常態化しているのも事実。
ただ……今、ファルス領の畑が青々と潤い、井戸が涸れず、魔物の気配すら薄い本当の理由は、自衛とは別の場所にある。
懐には三通の書簡がある。差出人はハインツの息子、レクト・ファルス。無骨な筆跡で書かれた短い文。それを読んで以来、ハインツの腹の底には煮えたものが溜まっている。
だが政治の世界に限らず、怒りに飲まれた者から順に死ぬのは世の定めだ。それに、ハインツが最も信頼する辺境騎士団長レクト・ファルスからの書簡と言えど、それだけで辺境領の未来を変え得る判断は、つけられない。
「王都は散々だ」
ユリアンが二杯目を注いだ。縁から少しこぼれたが、拭わなかった。
「結界が弱まって三週になる。北門から魔獣が入った。騎士が三人やられた。市民は日に日に不安がっている。卿のところは、本当に無事なのか」
「お陰様で」
「お陰様、か」
ユリアンは杯の中身をひと口含み、ゆっくりと飲み下した。
「何のお陰なのだろうな」
「……と、申されますと?」
「いや。セレナのことだ。あいつがいかに優秀だったか。今になって分かる」
ハインツの指が、止まった。
セレナ。この男の口から、その名前が出た。自分から語ってくれるなら、実に好都合。
◇
「辺境伯は、セレナに、会ったことがあるか」
「一度だけ。陛下の戴冠式にて、遠目にお見かけしました」
嘘ではない。実際、それ以上は辺境伯をして、知ろうとしても知り得ぬ領域でもあった。歴代の聖女は王家の最高機密として扱われ、その素性も、居場所も、能力の詳細も、厚い秘密の壁の向こうにある。特に聖女セレナは謎の中の謎だった。
セレナ。聖女であると同時に、当時はまだ王太子であった陛下の婚約者候補でもあった女。白い法衣を纏った痩身の姿が、祭壇の前で揺れるように祈っていたのを覚えている。
「あの女は、すごい女だった。本当に、すごい女だったんだ」
ユリアンの声が低くなった。ハインツは、セレナのことを過去形で語る若き王を、じっと見つめる。
「三年間、毎夜結界を張っていた。毎夜だぞ、辺境伯。俺のセレナは三年間、一日も休まなかった」
「……それは、重い務めですな」
「なのに俺は、それを知らなかった」
俺の、セレナ。
そう呼びながら、自分の婚約者候補が何をしていたのかも、知らない。知ろうともしなかったのだろう。そうでなくては、説明がつかない。
「あって当然だと思っていた。結界は、壁や天井と同じだ。誰かが毎日造り直しているなど、思いもしなかった」
ハインツは杯を傾けた。唇を湿らせる程度にして、戻す。辺境の男は酒を愛するが、今夜は酔うわけにいかない。
「戴冠式のこと、どこまで覚えている」
「いまだに細部まで。実に見事なお式でありました」
「あの祝福の光。王冠に灯した光。あれはセレナが俺のために三日三晩、一睡もせずに祈り続けて、灯したものだ」
ハインツは思い出す。法衣の聖女が、祭壇の前でほとんど崩れ落ちそうになりながら祈っていた。終わった後、彼女を支えた人間はいなかった。誰も。
「式典の後、俺は言ったんだ。土気色の顔をした女に向かって」
ユリアンはそう語りながら、笑った。自嘲。唇の端だけが歪んで、すぐに落ちた。
「『次は来月だ、忘れるなよ』。それだけ言って、俺はリーネと踊りに行った」
ハインツは無言で杯を見つめた。
「セレナは何も言わなかった。怒りもしなかった。『承知しました』と頭を下げて、一人で去っていった。あの後ろ姿を、今でも覚えている」
ハインツは、なおも無言だった。
聖女セレナは引退し、王より辺境の自然豊かな小領地を賜ったが、移動中に事故死した。それが公式発表だ。
ハインツはゆっくりと鼻から息を吸い、口から吐いた。
この夜は、長くなる。
◇
「セレナは、泣かなかった」
ユリアンは何杯も杯を重ねていた。ハインツの杯は一杯目のまま、まだ半分以上残っている。
「あの女は、俺の前で一度も泣かなかった。三年間。一度も。鈍感な、つまらない女だな、と思っていた」
泣かない女。鈍感な、つまらない女。
おそらく、そうではない。ハインツは思う。泣くことが許されなかったのだ。泣けば弱いと言われ、怒れば感情的だと言われ、黙って従えば従順だと評される。どう転んでも、この男の物差しで測られる。そんな関係性は、この王都では何度も見た。
「リーネに聖女の席を与えて、やっと分かった。リーネは三日で泣いた。一週間で音を上げた。あの仕事がどれほど過酷か、リーネが倒れて初めて知った」
「……陛下」
「俺のセレナは、あれを三年間やっていたんだ。一度も休まずに」
ハインツは息を吸い、吐いた。
「セレナ殿は……さぞかし、お強かったのでしょうな」
本心ではない。だが真実を言う意味は、ない。
ユリアンは少し救われたような顔をして、頷いた。
この男は、自分が聞きたい言葉だけを受け取る。
もういい。もう十分だ。そう思った。
だがそれは、逃げだ。ハインツは気を引き締める。この酒宴は、二度と得られぬかもしれぬ好機だ。この見目麗しき王の本性を知り得る、奇跡のようなチャンスなのだ。
ハインツは、懐の書簡を思い出す。レクトからの、最初の報せ。簡潔な、事実だけの報せだった。
『荒野にて女性を一名保護。衰弱著しいが命に別状なし。護衛なし。食料なし。水なし。荒野の中央部にて発見。陛下のご命令であるなら、これは追放ではなく処分です、父上』
処分。
レクトは、ハインツの目から見れば、ずいぶんと綺麗な剣を使う。そのぶん、言葉は飾らない。その男が選んだ言葉が、「処分」だった。
まだだ。
見定めねばならない。怒りに身を任せ、判断を早まってはならない。若き王の底の底がどこにあるのかを、ハインツは知らねばならない。
◇
「一度、セレナが熱を出したことがあった」
ユリアンはどんどん饒舌になっていった。酒が進むほどに。堰を切ったように。
「結界を張った翌朝だった。高い熱で、顔が真っ白だった。だから、神殿の医者に診せるよう命じた」
「ご心配だったでしょう」
「ああ。だが見舞いには、行かなかった」
ハインツは何も言わなかった。
「公務もあった。だが本音を言えば……見舞いに行くとして、そこで何を話せばいいか分からなかった。聖女と二人きりで、何を話す?」
ハインツの懐の書簡が、じわりと重みを増した気がした。
二通目の書簡。息子らしい、報告書のような文体。
『セレナ殿が少々の発熱。大事には至らず。薬湯を煮ましたが味が不評でした。改善します』
これを読んだときは、朴念仁を絵に描いたような息子が、一人の女のことをこうも詳細に報告してくるとはと、微笑ましく思ったものだ。あの男にもようやく、悶々として眠れぬ夜を迎える季節が来たか、と。
だが息子のしたことは、辺境の男として当然のことでもあった。保護した人間が熱を出したから、薬湯を作った。不味いと言われたから次を考えた。それだけのことだ。あの息子では、それ以上のアピールなどできなかったのだろう。
目の前の男は、そんなことすら、「何を話せばいいか分からなかった」から、やらなかった。
ハインツは反射的に杯を口元に運び、ゆっくりとそれを卓上に戻した。
ハインツもまた、若くして今の地位に就いた。三十年、貴族どもの間で生き延びてきた。三十年、人を見定め、見定められてきた。
まだだ。まだ、判断には早い。
◇
「一度だけ……」
ユリアンの声が、不意に柔らかくなった。
「一度だけ、セレナが微笑んだのを見た」
ハインツは視線を上げた。
「中庭の薬草園だった。俺はたまたま通りかかっただけだ。セレナが一人で薬草の手入れをしていた。小さな白い花が咲いていて、それを見て、あの女が笑った」
ユリアンの目が、遠くを見ていた。この部屋ではない、どこか別の場所を。
「本当に小さな笑みだった。俺に見せたものじゃない。花に向けた笑みだ」
「……」
「あれが、俺の知っている、唯一の、セレナの笑顔だ」
唯一の笑顔。三年間で、唯一の。
この男は三年間セレナの傍にいて、笑顔を一度しか見ていない。しかもそれは自分に向けられたものですらない。花に向けた、独り言のような笑みだ。
それを、いまになって宝物のように語っている。
その宝物を荒野に「処分」したのは、お前だ。
ハインツは息を殺した。まだだ。この先にはまだ、奇跡のような一筋の光があり得る。あるいはこの男の闇の底が、ある。この程度では、人間を知ったなどとは、言えない。
◇
酒が、さらに進んだ。もう、こぼれたものを拭う素振りすらない。
「辺境伯」
「はい」
「俺は一度、セレナに何かを贈ろうとしたことがある」
「……良い、お考えかと」
「誕生日だった。セレナの誕生日がいつか、お前は知らないだろう?」
ハインツは「生来の不調法者にて」と言って、首を横に振った。嘘だった。それがたとえ故人であれ、国王の婚約者候補の誕生日を忘れる貴族など、貴族社会を舐めきっているとしか言いようがない。
だが、ここは知らないという演技をするべき場面だ。なぜなら……
「俺も知らなかった。たまたま神殿の記録で見つけた」
ハインツは口を開かなかった。彼はユリアンが「内向きの政治があまり得意ではない」と評される人物であることを、よく知っていた。
「花でも贈ろうかと思った。だが俺は、セレナが花を好むのかどうかすら、知らなかった。三年も傍にいて、何一つ知らなかった。好きな花も。好きな食い物も」
「……麗しき女人の好むものは、男には、なかなか」
ハインツは目を閉じて、かろうじて言葉を絞り出す。
「結局、何も贈らなかった。侍従に諌められた。聖女に国王が私的な贈り物をすれば、要らぬ噂が立つ、と」
「……」
「諌められて、安心した。ああそうさ、俺は安心したんだよ、辺境伯。贈り物をしなくていい理由ができて」
ハインツは杯を見つめた。オレンジ色の液体は、まだ半分以上残っている。
◇
「なあ、辺境伯よ」
何度目か分からない呼びかけ。だがハインツは王の顔を正面から見つめた。見なくてはならないと、直感した。ここからの一言一言は、けっして、聞き漏らしてはならない。
「俺は、あの女を、愛してた」
燭台の炎が揺れた。窓の隙間から夜風が忍び込んだか。
「世界の誰より、俺が、あいつを、愛してた。本物の愛だった」
ハインツはまた息を吸い、吐いた。ゆっくりと。
愛。
三年間、何を食べているかも知らなかった。好きな花も知らなかった。三日三晩の祈りの後に、一杯の白湯すら差し出さなかった。唯一の笑顔を見たのは偶然で、それすら花に向けられたもので、それでも声をかけなかった。見舞いに行けなかった。誕生日に贈り物もしなかった。
その男が、本物の、愛。
「なのに俺は、セレナを殺した」
声が、急に小さくなった。
ユリアンの手が震えていた。杯が卓の上で鳴った。
「あの『領地』が荒野でしかないのは、知っていた。集落も、水場もないことも。分かっていて、送り出した」
ハインツの右手が、膝の上で静かに握られた。
「考えないようにした。リーネがいれば、結界は維持できる。セレナは要らない。そう、己に言い聞かせた。荒野のことは、考えなければ、存在しないのと同じだと」
ユリアンの口から、言葉が濁流のように流れ落ちた。
「本当のことを言えばな、辺境伯。俺はただ、愛するセレナに泣いてほしかっただけなんだ。『やめてください』と、すがりついてほしかったんだ。それだけで俺は撤回できた。撤回して、あいつを抱きしめて、あいつのすべてを、一生、俺だけのものにできた」
右手に握りしめた杯を、ユリアンは一気に煽る。
「だがあの女は『分かりました』と言った。それで俺は——王として、引っ込みがつかなくなってしまった」
ハインツは何も言わなかった。何も、言えなかった。
「もう遅い。三週間以上、過ぎた。あの荒野に、水も食料もないまま、人間が、生きていられるはずがない」
ユリアンの瞳は、確かに濡れていた。
「俺の愛は、人を殺してしまった」
沈黙が落ち、燭台の炎が揺れた。
声が、出なかった。出さなかったのではなく、出なかった。
辺境に対する根底的な侮辱の言葉も、いまのハインツの心に火を灯すことはなかった。それどころではなかった。何も言わないようにするため、否、剣をこの場で抜かぬようにするため、ハインツは全精神力を注ぎ込んでいた。
だが、ここには政治をしに来た、という理性では、ハインツは己を止められなかった。
だから。ここには武器を帯びぬ卑劣漢の血で剣を汚しに来たのではない、という誇りをもって、ハインツは己を律した。
ハインツは、静かに告げる。
「陛下」
「……何だ」
「夜も更けました。お体に障ります。どうか、お休みくださいませ」
ユリアンは濡れた目のまま、ハインツを見上げた。何かを求める目だった。赦しか。慰めか。あるいは、もう一杯の酒に付き合ってくれという、ただの寂しさか。
「辺境伯」
「はい」
「……俺のセレナの話を聞いてくれて、礼を言う」
「いえ。陛下のお気持ちを伺えて、光栄に存じます」
これほど薄っぺらな「光栄に存じます」を口にしたことはなかったなと、ハインツは思う。
今夜は、ハインツの人生で最も長い夜だった。知っていることを言わず、感じていることを隠し、目の前の男の「愛」と称するものの輪郭を、ただ黙って見つめ続けた夜。腰間に帯びた剣の重さを感じながら耐えるには、あまりにも長かった。
ハインツは、深く頭を下げる。
これ以上、この男の顔を見ていたら、今夜の「政治」を完全に無駄にする何かが、口から漏れてしまう。そんなことを、ハインツは漠然と思った。
◇
ハインツは扉を閉めた。
廊下は静かだった。王城の石畳は辺境の砦と違って滑らかで、足音がほとんど響かない。
廊下など頑丈であれば良かろうにという思いと、壮麗な回廊が国内外の賓客に与える印象というものもあるから仕方ないかという思いが、ハインツの中であぶくのように浮かんで、消えた。
……実のところハインツには、この酒席の場で為し得る、もうひとつの「政治」があった。
息子から届いた書簡を読み、宮廷に潜らせた間者や賄賂を握らせ続けている役人から入ってくる情報をそれと照らし合わせれば、「事故死した元聖女セレナ」に何が起こり、今どこにいるのか、おぼろげに推測はできていた。
そして聖女セレナが姿を消してすぐに王都の結界が弱まり、唐突に辺境領が豊かになり、後任の聖女リーネが「体調不良で休養中」となれば、息子が保護した「セレナ」が、現王家にとって極めて重要な役割を果たす人物であることなど、馬鹿でも分かる。
ゆえにハインツは「セレナ殿はご無事です、陛下」と、その場で口にすることもできた。その一言で、あの男の蒼白な顔にも血の気が戻っただろう。あの男はすぐさま大声で侍従を呼びつけ、すぐに使者を出せ、セレナを連れ戻せと命じただろう。
そうすれば、ハインツは王家と王都に大きな恩が売れた。王家が辺境にこの恩を返すには何代もかかるレベルの、途方もない恩だ。
ハインツの脳裏に、反射的に数字が巡る。それで何人の幼子が救えたか。何人の老人が冬を越せたか。魔物と戦い両足を失った兵士が笑顔で自刃するのを、何回止められたか。
だが同時にハインツは、この計算には重大な落とし穴があることを、経験から学んでいた。それは「王家が恩を感じ、恩を返そうとする」ことを無言の前提としている、ということだ。
だからハインツは、若き王を、見定めねばならなかった。
いま、扉は閉ざされた。見定めは、終わった。
ハインツは思う。あの男の涙は、本物だ。後悔も、本物だ。
しかしてこの手の男は、本物の涙で、本物の後悔で、己のすべてを正当化する。なにもかもを、なかったことにする。「本物の愛」とやらで、人殺しの罪を誇らしげに抱きしめたように。
◇
廊下を歩きながら、ふと、息子の書簡がハインツの脳裏に浮かんだ。三通目の、あの一節。
『帰りたいかと聞きました。即答で、否と』
ハインツは、自分もずいぶんと「王都風」になってしまっていたものだと、軽く自嘲する。
辺境は過酷だ。過酷だからこそ、辺境では、一人を見捨てる者に、千人を任せない。
セレナは、帰りたくないと言った。
ならば辺境の民として、選ぶべき道は最初から一つではなかったか。あの酒席に応じる必要など、なかったのではないか。
これが、老いか。そう思いつつも、ハインツは懐に手を入れた。
綺麗に畳まれた羊皮紙。息子の硬い筆跡。
追伸の一行を、指先でなぞった。
『この人を、守ります』
「愛」という文字は、そこにはない。
だがハインツは知っていた。辺境の男が「守ります」と書いた。それはこの王城で幾杯もの酒と一緒にこぼれた「世界で一番愛していた」より、はるかに重い。
明朝、一番の馬で発とう。辺境に帰るのだ。
そして息子に会い、伝えねばならない。
守ってみせろ。ただし、綺麗にやれ。
お前にその覚悟があるのなら、それ以外はこの狡猾な老いぼれが引き受ける。
……そういえば、杯の酒は、最後まで干さなかったな。ハインツはそんなことを思い返しながら、歩を速めた。
◇ ◇ ◇
『ガレア大陸通史・第七巻 王朝交替篇』より抜粋
ユリアン王の治世は即位よりわずか四年で瓦解した。結界の完全崩壊に端を発する王都の荒廃は急速に進み、人口は十年で三分の一にまで減じた。商路は北方に移り、かつての王城は魔獣の巣窟と化す。
一方、ファルス辺境伯領はこの期間に大陸随一の穀倉地帯となり、周辺諸侯の帰順を受けて事実上の独立圏を形成した。安定した結界と豊かな農政がその礎であったことは、同時代の記録が一致して伝えるところである。
旧王朝の断絶ののち、諸侯会議の推戴を受けて即位したのがファルス朝初代国王アレク・ファルスである。父はレクト・ファルス、母はセレナ。
なおファルス朝の王宮では、戴冠式に酒杯を用いないという慣例がある。その慣例は、今も続いている。
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