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「性格」じゃなくて「生態」

作者: 暇庭宅男

人を嫌ったり、人から嫌われたり。

生きていればそういう人間関係のネガティブな反応に否応なくブチ当たり、そのたびに我々は頭を悩ませる。


それに対する対応は様々ある。下品なものでは他の人と徒党を組んで嫌いな人間を追い出したり、大人の対応では合う部分だけ見て人付き合いしたり、まれに自分と違う意見に出会えたと捉えそこから学びを得るとかいう、素晴らしい円熟した精神の持ち主もいる。暇庭は最後の1つだけはやったことがないし、これからもできるか甚だ怪しい。


だが、気に食わぬ誰も彼もといちいち闘争していたら、それこそ身が持たない。だいたい人生の中で自由に使える時間なんかそう長くない。気に食わぬ人間を排撃したり、更生(なんとまぁ傲慢な)させるために時間や労力を山ほどかけるのは、到底賢い行いとは言えない。


そこで、決して要領の良くない私が他人との不和に明け暮れないよう、ここやっと7〜8年くらいで身につけた小さな魔法の言葉を、半分メモ帳代わりに、もう半分はネットで共有するために書き残しておこうと思う。


タイトルにもある通りだが、他人の振る舞いは性格ではない。そうして生きてきた『生態』だ。


自慢話をやめられない人は、キツツキが木に穴を開けることをやめられないように。

他人のあら探しをしてチクチクつつく人は、スズメバチが寄ってきた人間を無慈悲に毒針で刺すように。

いちいち他人に文句を言うくせに、実際に責任が伴う事柄に頑として手を付けない人は、虎が植物食では生きられないように。


それらは性格というより生態だ。私はその考えに至ってから、少し対人関係のストレスが軽くなった。軽くなっただけでなく、後に引きずることが少なくなった。そういう生態だから。と思うことで消耗を小さく抑えられるようになったのだ。



他人は変えることができない。その言葉は当たり前のようでその実、私達はそれをすっかり忘れてしまうことがある。


いつ、なぜそれを忘れるか。それは、私達は無意識に、『好き嫌い』と別に『善悪』の軸で他人を見ていて、『嫌い』と『悪い』をごちゃ混ぜにしてしまうからだ。嫌いなら遠ざかるべきところを『悪い』から正さねば!と頑張ってしまうのである。


好き嫌いと善悪の無分別の先にある、聞き馴染みのある言葉を例に出そう。いじめについて語るときに時折発せられる、「いじめられる方にも責任がある」という台詞である。


いじめられるやつが俺にとって不快なのが悪いんじゃん!ということである。もうこの一文で、好き嫌いと善悪がごちゃ混ぜになっていること、お分かりいただけるだろうか。


本当は気に食わぬだけなのだ。嫌いと悪とを分けて考えられないとき、人は悪い人間に罰を与えるのと同じ感覚で暴力を振るう。

そしてそれを咎められると、悪いことをした人間はあいつなのに!と、ぶつけるあてのないストレスに苛まれたりするのだ。この話は前にも別のエッセイで書いた。



働いて様々な人間と出会うようになってから、私は善悪の軸さえも実に多様なことに気付かされた。


休憩室のゴミの分別をしっかりすることは、職場の他の人間に負担を強いる行いだと言われて銀河の果てに思考がとんで行ったり。


部下の功績を我がものとすることは、そいつを育ててやったことに対する当然の報酬だと堂々と言う同期を心底不気味に感じたり。


自分の仕事を次々他人に丸投げして、私は要領が良くて生産性が高いでしょう?と胸を張るベテラン社員のおばさまに釈然としない思いを抱いたり。さらにそのおばさまのやり方を店長までが褒めて評価していたり。


要は善悪という視点も、知らず知らず自分の都合の良いように自分で設定、改変しているのだ。暇庭の抱くそれもおそらくは、自分の都合の良い形にカスタムしてある善悪なのだ。他人から見たらおかしいかもしれないのだ。歪で自分にだけ甘い善悪観かもしれないのだ。


ここに至って、私は1つの見解に達した。



……他人の行いに善悪の定規をあてるのは、もう金輪際やめよう。



それは消極的な姿勢だったかも知れない。でも今は、その考えに至ったことを後悔はしていない。


正しいことを求めなくなった私は、それまでと比べて幾分余裕ができた。余裕ができた私は、相も変わらずキレやすかったが、他人と喧嘩になる頻度が確かに減った。


しかし。困ったことに今度は、何が正しいか分からなくなって、自身の行い全てに不信感がつきまとうようになってしまった。


これ正しいんだっけ?ありとあらゆる自分の言動にクエスチョンがついて、それが心を消耗させた。自分が信じる善悪とは、不完全だろうが手放さないほうが心が健康でいられるものなのだ。


ここでもうひと悩みしたあと、気付きを得たのはたしか、NHKの動物番組だったか。

ザッピングして映った番組で、シャチが遊んでいた。おもちゃはさっきまで生きていた幼いアシカの骸だった。もう息絶えたそれを競い合うように空高く跳ね上げるシャチの家族。

それを見た時に、脳みその今まで繋がらなかった回路が、パチン!と繋がったような気がした。



ああ。そうか。生態だ。



アシカの亡骸で遊ぶのは、人間がそれをしていれば悪趣味だが、シャチがそれをしているとき、それはただの生態だ。そこに善悪の入り込む隙はない。


否、シャチだけではない。人間も同じではないか?

ある事柄が悪だと、感じるか感じないかはつまり生態の違いだ。

小学校の頃受けた体罰に恨みと憎しみしか残らないのは私の生態だ。

体罰によって人の痛みに思い至り自らを改めた人間は、それがその人の生態だ。


ふだんから文句を言うだけ言って、いざその発言をピックアップされて議題にのぼると途端に責任逃れをし始めるベテラン社員さんも生態だ。


いつでも不機嫌で誰かに機嫌をとってもらうのを待っているあの人も、それが生態だ。


その言葉は大げさでなく、魔法だった。私は30歳を迎えてから、ようやく好き嫌いと善悪とを分けて考え、かつ、自分のやることも『私はそういう生態だ』と力を抜いて考えることができるようになったのだ。

自信がついたのともまた少し違うし、開き直りよりは多少柔軟な態度であると思う。

自分に非がある時にそれを改善する余地は残っているし、他人の欠点も、我慢ではなくその嫌いなところを良く見ながら『これがこの人の生態か』と衝突もせずストレスもためずにいられるようになった。


生態であるなら善悪はない。その人が生きるように生きているだけだ。イモムシの体を突き破って出てくる寄生バチの幼虫が、悪意でそれをしているのではないように。ハエの幼虫がカボチャの腐ったのにゾロゾロと湧いても、幼虫たちが決して邪悪の心は持たないように。


そして、嫌な部分を『生態』として捉えると、こちらが何をすべきかも分かりやすくなる。

正しい方になおしてやる!ではなく、相手の生態を先読みして被害を最小にする方法を考えるようになる。そうして節約した時間で、もっと楽しくて素敵なことを自分にしてあげられるようになるはずだ。


というわけで、ややこしくなったが、他人の行動が気に食わないときは『それがあの人の生態だ』と唱えてみてほしい。あてのない嫌悪や憎悪の代わりに、実用的な防御策が思い浮かぶようになるはずだから。悪とは生態。よく見て対処法を学ぼう。

もちろん過剰かつ頻繁な暴力傾向であるとか、家族のメンバーに言動の問題があって毎日辛い……というときは別だ。


それは誰かの力を借りてでも、改善を求めるべき事態だ。そういう手合いを専門にする人は案外多いので、まず調べて相談してみてほしい。驚くほどうまく連携してくれて思わぬ状況の好転が訪れる場合がある。

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