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別に、あの人に会いたいだとか、そういうんじゃない。
ただ、心配なだけ。
あの夜俺を逃したら、ひとりで泣き明かしているところだった、と自嘲する顔。
それを思い出しては、ひとりきりの夜に潰されそうになっていないかと、無性に心配になる。
それに、あの味が忘れられないのだ。
他のどこで試しても、あの心からほっとする、甘いコーヒーの味にはたどり着けない。
だから、ちょっと顔を出すだけ。
あの人が元気にしているのを確認して、カフェモカを飲んだらすぐに帰る。
本当にただ、それだけ。
【After The Lights】のネオンの看板の下に立ち、深呼吸をひとつ。
異世界への扉の前で、またあの夜のように迎え入れてもらえるだろうかと、妙な緊張感が胸に広がる。
ひと思いにアンティーク調のドアを開くと、ドアベルがカランカランと勢いよく音を鳴らした。
「いらっしゃいませっ…、ぁ。」
「こんばんは。」
「こんばんは、…来てくれたんですね。」
吉野さんが、カウンターの中からにこりと笑いかけて来る。
その表情に安堵して、ほっと息をついた。
芳醇なコーヒーの香りで肺を満たしながら、レジカウンターまで歩み寄る。
その間中、崩れない吉野さんの柔らかな笑顔から、視線が外せないでいた。
「今日はなにかご注文されますか?…お代はいりませんよ。」
「ありがとう。…とりあえず、連絡先が欲しいですかね。」
こんなことを言うつもりはなかったのに、口をついて出た言葉に自分でも戸惑う。
納得していたつもりにはなっていたけれど、連絡先を聞かずに別れたことを、心の奥ではずっと後悔していたのかもしれない。
吉野さんは俺の言葉を冗談っぽく受け取ったらしく、くすくすと笑って頷いた。
学生らしきスタッフと話をした後、すぐにカウンターから出て来る。
2階に行きましょうか、と誘われて、スチールの螺旋階段を昇っていく背中を追いかけた。
「わぁ、すごい、本当に家だ。」
「物置小屋みたいなものを想像してました?」
「いや、そういう訳じゃないですけど…、ただ想像がつかなかっただけで。」
入り口に入ったところで立ち話をしていると、吉野さんが部屋の奥の皮張りのソファをすすめてくれた。
そこに腰かけて、部屋を見回す。
想像していたよりも、ちゃんとした家だ。
トイレも風呂もあるし、キッチンも付いている。
「そうだ佐野さん、忘れないうちに連絡先、交換してもいいですか?」
「うん、もちろん。……ありがとう。」
メッセージアプリを開いて連絡先を交換し、新しく登録された名前を読み返す。
“吉野 啓人”…ヨシノ、ケイト。
音の響きと見た目の印象が、凛々しくも優しいイメージの吉野さんにぴったりの名前だと思う。
お互いにメッセージアプリをしばらく眺めて、少しの沈黙があり、目が合って、そして笑った。
「……やっぱり、あの夜みたいにはいかないですね。なんだか、緊張する。」
「まぁ、あの日は色々あって、俺も吉野さんもテンションがおかしかったですもんね。」
「お酒も入ってたし…。」
隣のシートに座る吉野さんが、またくすっと笑う。
それにつられて笑ったら、なんだか鼻の頭がムズムズとかゆくなった。
「じゃあまずは、敬語やめるところから戻していく?」
「…うん、そうだね。」
「よし。じゃあ、何飲む?」
「カフェモカ!」
「ふふっ、カフェモカね、了解。」
「はぁ…、やっとあれが飲める。」
「そんなに気に入ってくれたの?」
「うん。あの時、ちょっと沁みたから。」
「そっか、それは嬉しいよ。すぐに淹れてくるね。」
「ありがとう。」
1階へと降りていく吉野さんの背中を見送って、少しだけ緊張に強張った肩の力を抜く。
彼が、俺が思うよりずっと元気そうにしてたことに安堵して、ふぅ、とひとつ息を吐いた。
ひとり部屋で待つ間、家主のいない間にプライベートな空間をじろじろと眺めるのも気が引けて、何となく視線を手元に落とす。
ドアの隙間から漂ってくるコーヒーの深い香りに、あの夜の事を思い出していた。