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ふと、甘い焼き菓子の香りで目が覚める。
覚束ない頭を抱え、カフェのL字型の大きなソファの上で、掛けた覚えのないブランケットに包まり、天井から垂れ下がる、灯の消えたペンダントライトの底をじっと見つめた。
昨晩、朝まで語り明かした格好のまま、ここで寝落ちしてしまったらしい。
むくりとその場で体を起こし、ぼさっと何度か瞬きを繰り返した。
昨日の夜のハイライト――話して、話して、ひたすら話した。
ソファに寝転がってコーナーに頭を寄せ合い、どこを切り取っても語り合う場面しか残らないくらいひたすらに、まるで一晩限りの親友みたいに。
互いに昨日まで存在すら知らなかった者同士とは思えないほど、なぜだか話が尽きなかった。
「よ、…。」
姿の見えない“昨夜の親友”の名前を呼ぼうとして、口から出た掠んだ声に、ゴホンとひとつ、咳払いをする。
吉野さん、と改めて声を掛けてみるけれど、どこからも返事はなかった。
「…吉野さん?」
意識を耳に集中させると、どこからかチャカチャカと小気味の良い金属音が聞こえてきた。
ソファから足を下ろし、転がっていた革靴を履いて、ふらふらと音のする方へ歩み寄る。
その音は、ケーキのショーウィンドウとレジカウンターの奥、おそらく厨房になっている部屋の扉の向こうから聞こえているらしかった。
カウンターの内側に入り込み、スイングドアの小窓から中を覗き込むと、予想通り吉野さんが手際よく動き回る後姿が見える。
作業の邪魔をするのも悪いと思い、一瞬声を掛けるのをためらったけれど、左腕の時計の針が2時を指し示しているのをみて、そろそろ引き際だろうとドアを開けた。
「吉野、さん、…俺、もう、行くね…、ぁ、行きますね、…えと、ははっ、なんか、距離感掴めないわ、ごめん。」
「ふふっ、付き合いたての中学生?別に、タメ口でいいですよ。」
「そう言う吉野さんも敬語じゃないですか。…なんか昨日はお互いテンションおかしかったから、冷静になるとちょっと気恥ずかしいね。」
「本当だ、ふふっ、なんだろうね?この、まるで”何かあった”感。」
「何もなかったから、余計に距離感おかしくなるんでしょ。」
「確かに、それはあるかも。」
ピー、ピー、と厨房の奥のオーブンから、ビープ音が鳴り響く。
吉野さんが一瞬だけそちらに視線を向けて、すぐにこちらに戻した。
「…あ、もう、本当に行くね、仕事の邪魔しちゃ悪いし。そのまえにちょっと、トイレだけ貸して?」
「え、ごはんとか…。」
「いや、大丈夫、大丈夫、そこらへんで適当に食べて帰るから。」
「あ、…そっか。」
「長居してごめんね。」
「いえ、こちらこそ、居てくれてありがとう、とても助かりました。」
「俺も。昨日楽しかったよ、連れてきてくれてありがとう。」
「あっ、…。」
「いや、いいよいいよ、続きしてて?俺トイレ借りたら勝手に出てくから。…じゃあ、ね、あんまり無理しないでね。」
あまりその場にとどまっていると吉野さんがまた気を回して、あれこれ俺の事に時間を消費してしまいそうだったので、少し強引に話を切り上げて準備をすませ、外へ出る。
カフェの扉を閉めた瞬間、昼下がりの強い日差しが、容赦なく肌を焼いた。
思わず眉をしかめて、片手で額をかばう。
つい今しがたまでいた場所が、まるで空想だったみたいに思える。
ひんやりとした空気、焼き菓子の匂い、吉野さんの声。
あの空間はまるで時間の流れが違っていて、出口を一歩出ただけで現実の世界に引き戻された気がした。
「……眩しいな。」
足元のアスファルトが、カフェの静けさを否定するようにぎらついている。
硬い革靴の底で踏みしめた地面が、じゃりじゃりと音を鳴らした。
日常に戻るってこういうことだ。
あまりにも唐突に現実と目を合わせるようにと仕向けられ、頭の奥がしくしくと痛みだす。
こんなことで泣き言を言っているようでは前には進めないから、後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、また一歩重たい足を踏み出した。
あの夜は心地がよかった。
慰めるでも励まされるでもなく、ただ同じ温度で悲しみを抱えた誰かが、あんな夜に隣にいてくれたという奇跡。
誰にも言えなかったことを、誰かが黙って聞いてくれるというだけで、こんなにも救われるのだと知った。
言葉にして吐き出しただけで、心が軽くなり、少しだけ風通しがよくなった気がする。
「…いい人だったな。」
でもそれは、たぶん“他人”だからこそできたことだ。
互いの事情に踏み込みすぎず、しがらみもなにもないからこそ、あんなに素直に語り合えたのだろう。
ふと、去り際にあの人の連絡先を聞かなかったことを後悔しかける。
でも…いや、これでいいんだろう。
たぶんまた会ったとしても、同じ温度では話せない。
あれは、あの夜でしかなしえない、限られた一夜の距離感だったのだから。
羽休めの止まり木みたいに、偶然通りかかった場所で誰かの優しさに触れただけ。
それ以上の意味を、無理に探す必要なんてない。
背中に落ちる日差しが、さっきより重たく感じる。
けれど不思議と、足取りは軽くなっていた。