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明け方、朝日の昇る頃になって、真修くんに啓人さんの待つカフェまで送り届けてもらう。
去り際に顔を傾けて至近距離まで近づけて来るので、一瞬キスでもされるのかと身構えたけれど、耳元で『じゃあね、あとは頑張って』と言っただけで、あとは1度だけ振り返って手を振る以外、何もしてこなかった。
彼の後姿が見えなくなるまで見届けて、CLOSEの看板の掲げられた扉を開き、中へ入る。
カウンターの中にはこちらに背を向けて閉店作業をする啓人さん。
漂うコーヒーの残り香と、こちらを振り向いて『おかえり』と言ってくれるその姿に、ひどくほっとする気持ちになった。
「ただいま戻りました。」
「戻ってきてくれたんだね。メッセージ返事がなかったから、今日はもう帰っちゃったのかと思った。」
「んー?啓人さんが待っててくれてるの知ってるのにそのまま帰らないでしょ、さすがに。メッセージは今気づいた、ごめんね。」
「そっか。…店閉めたら上行くから、先寝ててくれる?」
「ん、わかった。お疲れ様。」
2階に上がり、啓人さんが俺用に出してくれていたシャツとスウェットのズボンを着て、袖を捲る。
歯を磨いてベッドの左側の定位置にダイブすると、そのまま意識を手放せそうなほど瞼が重たかった。
真冬の寒さに観念して布団をかぶり、真横にあるヒーターの電源をつけて白い息を吐く。
誰かに話を聞いてもらったおかげか、まだ来ない想い人をひとり冷たいベッドで待つ間も、少しだけ気持ちがあたたかくなっていた。
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ギシリ、と背後のスプリングが深く沈む感覚に、閉じかけていた意識が浮上する。
壁側に体を向けたまま気配だけを確認し、瞼を開けることなく、再び睡眠に意識を傾けた。
微かに残る意識の中で、あたたかい手のひらが髪を撫でていく感覚を感じながら、いつも通りのぬくもりを背中に感じ、大人しくその腕の中に納まる。
期待しないことに決めてから、その熱は緊張を誘うものではなく、安心感と安眠へと導いてくれる、最も重要な要素になっていた。
しばらくの間、背中を打つ心音と、頭上から聞こえる呼吸音だけを聞きながら、慣れた体温の中で意識を浮遊させる。
ここは出来るだけ早く、意識を手放しておきたいところ。
これから起こることは知らないでいた方が心の平穏が保てるから。
それからしばらく、まだ完全に睡眠に入りきれていない内に、背後で身じろぐ気配の後、項に摺り寄せられる鼻先の感覚を感じた。
“きた”と反射的に体を強張らせる。
意識をしない方が楽だから、啓人さんが動き出す前に、どうにか深い眠りに入っておきたかったのに。
案の定、すぅ、と首筋で吸われる息の感覚に、ピクリと少しだけ反応をみせてしまった。
啓人さんは眠りの中で無意識に行動しているらしく、そのことに対する反応は特にない。
しばらくの沈黙の後、俺の身体を包み込む両腕にぎゅうっと力が入った。
その力があまりにも強く、思わず『苦しい』と声に出してしまいそうになる。
両手のひらを拳を作って握り込むことで、なんとかそれに耐えた。
意識を再び背後に戻すと、大きく呼吸を繰り返すその吐息が、震えていることに気付く。
伸びてきた左手が俺の握り込んだ右手を無理やりに開いて指を絡ませてきた時、それが意識を持って行われている行動なのだと確信し、ハッと息を飲んだ。
ゆっくりと振り返ると、はっきりと開かれ、揺れる瞳と視線が重なった。
じっと視線を返しても、逸らされる気配はない。
―いいの?―
無言で見つめる瞳の奥に問いかける。
瞬きが多い。でも、視線の他には何も語らない。
そんな啓人さんの様子をみて、踏み込んでも良いものなのかと一瞬、躊躇する。
だけど次の瞬間には、直感的に体を起こし、絡めた指先ごとその手をベッドのシーツに縫い付けていた。
止めるなら、解放しておいた右手だけで十分なはずだ。
明確な意思表示を確認しないまま、見下ろした先で引き結ばれた唇に、自分のそれを重ねた。
上唇を舐め上げると、薄く開いたそこが舌の侵入を許してくる。
絡まる舌先の熱さ。
やっと触れることのできた熱に、急激に息が上がっていくのを感じた。
夢中で体温を味わっているところに、胸を押し返してくる手の動き。
名残惜しく感じながら、やっとの思いで唇を離す。
まだ何も言わない啓人さんの髪に触れようとして伸ばした手。
その左手すらも、力強く掴んで止められてしまった。
しばらく無言で見つめ合って、啓人さんがようやく口を開く。
そこから零れ落ちた言葉に、心臓が止まってしまいそうなほど、ドクンと大きく音を立てた。
―……ごめん、今は、無理だ……―
え、と聞き返す俺の言葉にはもちろん、返事など返ってこない。
衝撃に打ちのめされた頭はぼんやりとしていて、だけど“ここから離れなければ”と、それだけは理解していた。
縫い付けていた啓人さんの左手を解こうとして、どうしてか強く握り返される。
それを振り払って起き上がり、服を着替えて螺旋階段に続く扉の前に立った。
「俺も、もう無理…、啓人さんと居るとこういうことしたくなっちゃうから…、もう、一緒に寝るのも、やめよう。」
顔は見れなかった。
返事も聞かずに部屋を飛び出し、満たされないふらふらの身体を抱えながらひたすら走った。
駅のホームで最初に来た電車に、倒れ込むように乗り込む。
こんな時でも、体は勝手に家までの道をたどった。
気が付けば、部屋のベッドでうずくまって、枕がびしょびしょに濡れるまで泣きくれていた。
外はもう暗がりで、自分が何時間そうしているのかも分からなかった。




