今は、言えないわ
午前の授業が終わった直後、目の前に婚約者のアルフォンス王子が立った。
「ジュリア。たまには昼食を共に、どうだ」
そろそろ来る頃だと思っていた。面倒だ、と言ってしまったら不敬になるだろう。……しかし、面倒だ。
「……ええ、サロンに参ればよろしいでしょうか」
「……ああ。そなたの分も用意させてある」
やっぱり。断ることなど許されていないのだ。
先に立って歩き出した王子に続いて、教室を後にする。
見えていないなら大丈夫だろう、と密かに息を吐き出した。
この世界が少女漫画「世界で一番恋してる!」、通称バンコイの舞台であることをジュリアは知っている。大学生の樹里として、愛読していた記憶があるからだ。
(ヒロインとは言わないから、せめて、モブに転生させてほしかった……)
ため息は何度目かわからない。
ジュリア・アーレンバーグは、ヒロインと恋に落ちるアルフォンス王子の婚約者──世間一般で言うところのお邪魔虫、悪役令嬢であった。
バンコイは、聖女の力を持つ平民の少女が教会によって発見されるところから始まる。その少女レイナは貴族や富豪の子女が通う学園へ入学し、そこで大小様々なトラブルを解決して力を示したり、身分にとらわれずいろいろなキャラクターと出会って交友を広めたりしていく。
中でも本命が、ジュリアの婚約者、アルフォンス王子だ。
ジュリアはお邪魔虫の役割の通り、学園内で問題を起こしたり、仲を深めるレイナとアルフォンスにつきまとって嫌がらせを仕掛けたりする。それも、アルフォンスへの愛ゆえならかわいげもあろうというものだが、
「自分のものをとられたくない!」
「この国で一番注目される女の子は私じゃなきゃ駄目!」
という子供じみたわがままが動機なのだ。
前世で成人まで迎えていた今のジュリアには、とうてい真似できない役割である……。
今のジュリアは、周囲に求められるまま、ほどほどに貴族令嬢としての社交をこなし、ほどほどに勉学に励んでいた。ほどほど、というのはあれだ。
(どうせ、聖女が現れて全部持って行くんだろうし……)
自分がもっと若かったり、原作に思い入れがあったりすれば、聖女と張り合ってみたり、逆に悪女を満喫したりできたかもしれない。だが、そこまでアルフォンスにも原作のジュリアにも肩入れはしていなかった。バンコイ自体、暇つぶしの一環として読んでいた漫画のひとつに過ぎないのだ。
(なんで、熱心なファンじゃなくて私が転生しちゃったかなあ)
アルフォンスのことも、少女漫画のヒーローらしく顔立ちが整い、所作も洗練されていて目の保養だなあとは思うが、そこまでである。
他人と争ってまで手に入れるほどの執着は持てない。これは元のジュリアの影響かもしれない。
(いい人ではあるんだけどね)
ランチのお誘いもそうだが、定期的にこちらに目を向けては気遣いを見せてくれる。
誕生日のプレゼントに添えられたカードには「愛を込めて」なんて書いてあった。オウ、欧米世界観……と初めて見たときには衝撃を受けたものだ。
こちらからは、親愛なるとかそんな感じの当たり障りない文句で返しておいた。ドライなくらいでちょうどいい。どうせ他人のものなのだし。
バンコイに思い入れはなくとも、一読者として、アルフォンスとレイナの絡みはそれなりに気に入っていたのだ。
「最近は、どうだ?」
王族の在学中は、実質的に専用となっているサロンで、アルフォンスに尋ねられる。
「つつがなく過ごしております」
よどみなく答えながら、意識はほとんど料理のほうに飛んでいた。王子とのランチは面倒ではあるが、いつご相伴にあずかってもジュリアの好きなものばかり並んでいて、悔しいが、おいしい。
「はは、つつがないか」
そういえば婚約破棄されたらこのランチは聖女のものになるんだなあ、なんてことをぼんやり考えた。
☆
春である。ジュリアとアルフォンスは進級した。今年は別のクラスだ。
「ねえねえ、知ってる!?」
「何の話?」
同級生の跳ねた声が耳に入った。……知っている。
「今年の新入生、聖女様がいるんだってよ!」
バンコイ本編の始まりである。
ジュリアは今年度から、乗馬クラブに入ることにした。練習や馬の世話があり、学園でも一、二を争う多忙なクラブである。
しかも、原作にはたいして出てこない。つまり、多忙を装って王子との没交渉を狙いつつ、聖女ともあくまでも距離を取れる。名案ではないだろうか。
「そういった事情ですので、今後昼食はご一緒できませんわ」
と申し入れると、アルフォンスは物言いたげではあったが、交流は放課後にしよう、と受け入れてくれた。
もともとその時間は王城での妃教育にあてられている。
「合間にお茶をするくらいなら、可能かと存じます」
「では、それでよろしく」
とはいえ、すぐに王子は心を移して、お茶会にも足が向かなくなるのだろうな、と思っていた。
聖女はしっかり学園に馴染み、やがて活躍の噂も耳に入ってくるようになった。
「聞いた? 聖女様、今度は学園長先生のペットの猿が迷子になってたのを助けたんですって」
「あの、学園長先生にしか近づけないお猿さんを? さすが、聖女様」
「ねー」
ほうほう、二巻の最初のエピソードだ。そこまで話は進んでいたか。
このペースなら、来月くらいには王子と聖女は両思いかも。
そんな風に、ジュリアはのんびり構えていた。
☆
夏休み直前。アルフォンスが授業を終えたジュリアの教室へやってきた。
「すまぬが、今日は私の馬車で共に城へ向かってくれぬか」
見れば、いつになく深刻そうな顔つきをしている。
「ええ、構いませんわ」
何か話があるのだろうと思われたが、アルフォンスは馬車の中でも難しげな顔で口を開かない。こちらから水を向けてみることにした。
「いかがされました?」
「うむ、それがな……」
それでも歯切れの悪い様子に、ジュリアは考えを巡らせる。
とはいえ、王子が言葉を濁すことなど、他に思い当たらない。率直に切り込んでみることにした。
「聖女様のことでしょうか?」
「!」
反応は劇的だ。王子は驚いたように身を乗り出してきた。
「そなたにも何か、申してきたのか!?」
「えっ? ……い、いいえ」
ひとまず否定すると、王子はほっと息をつく。
「そうか、それならよいのだが」
いや、何かって何だ。
「あの……、聖女様と、何事かございましたか」
おそるおそる尋ねると、相手ははっとした。
「あ、ああ、すまぬ。いや、そなたのことで口さがないことを私の耳に入れようとしてきてな」
「口さがないこと、でございますか」
悪役令嬢とか、そういった類の悪口だろうか。……それで王子が気を害するとは思えないのだが。
「いや、いいのだ、忘れよ。記憶にとどめるまでもない、たわごとだ」
その後はいくら聞き出そうとしても、頑として教えてくれなかった。
時期的に考えれば、アルフォンスと聖女レイナはいくつもの事件で順調に距離を詰めていてしかるべきである。
なのに、これはどういったことだろうか?
……ジュリアは数日間、悩む羽目になった。
☆
数日後、その日の授業を終えたジュリアは、学園の裏庭で一人聖女を待っていた。
悩んだ末、結論が出なかったので、直接疑問をぶつけてみることにしたのである。
(うじうじしてるなんて性に合わない)
とはいえ、樹里であった生前にこんなに行動的だった記憶もないので、ジュリアの性格に影響されているのかもしれないが……。
かさ、と草を踏む足音が聞こえて振り返った。やって来た。
「ご機嫌よう、聖女様」
そこには戸惑った顔の聖女レイナの姿があった。あちらも、供も友人も連れておらず一人である。
「ご……ご機嫌よう、ジュリア様」
「私のことはご存知なのですね、でしたら話が早いですわ。単刀直入に申します」
ごくり、と聖女が唾をのむ気配があった。
「あなた、殿下に何をおっしゃったんですの? 妙にあなたを警戒されていて、このままですとストーリーから外れてしまうじゃありませんか」
「えっ」
ここ数日、ずっと悩まされていたジュリアは、そのせいで口からとんでもない言葉が飛び出していたことに気づかなかった。
レイナは驚きつつも、素直に教えてくれる。
「えー……『かわいそう。ジュリア様って殿下のことちゃんと見てないよね。一度も愛してるって言われたことないんでしょ? 私ならそんなひどいことしないのに』」
「……え、それ?」
ジュリアは目をぱちぱちさせた。記憶によれば、それは原作二巻のクライマックスで聖女レイナがアルフォンス王子へ伝えた、そのままの台詞だったからだ。
「それで、なんであんなに警戒?」
目の前の聖女は、しばらくそんなジュリアの様子を観察していたが、やがて。
「…………だーよーねー!! いやだよねじゃないわ。絶対ジュリア様のせいだし」
ぶはっと吹き出し、そんな言葉をお見舞いしてくれたのであった。
「へ? 私のせい? どういうことですの」
「いや、あれからジュリア様の周り探ったりして、取り巻きの人の雰囲気が違うとか王子様のストーカーしてないとかで薄々そーかなーと思ってたんだけど。今ストーリーって言ってたからビンゴだわ。あなた、転生者でしょ」
「ストーリー……あっ」
確かに言った。……ジュリアは頬を赤くした。
「しかもバンコイ読んでた勢」
「ということは……あなたも?」
「うん、前世は大学生やってたんだー。スマホで暇なときに読んでたよ」
「私もです……」
まさか、ヒロインも転生者だったとは。衝撃を覚えつつも懐かしさを感じているジュリアに、レイナはすぱっと斬り込んだ。
「で、ジュリア様的には、バンコイのストーリーを普通に進めたいの? 無理じゃん?」
「えっ、どうしてですの。私はすっぱり身を引いて、殿下をあなたに譲る準備をしていたのですよ」
「どうしてって、それが駄目だったに決まってんじゃん! 殿下見てみなよ、原作と全然違うじゃんー」
言われて、考えてみた。原作ではレイナの視点から描かれているアルフォンスばかりで、ジュリアの視点から見ている今との違いと言われても、よくわからない……。
困惑している様子を見かねたのか、レイナが補足してくれた。
「あのね、原作のアル殿下は、わがままで高圧的なジュリア様に振り回されて、めっちゃお疲れだったの。ぽっと出の聖女によろめいちゃうくらいにね。じゃ、すっぱり身を引くジュリア様だと、よろめく要素は?」
「……すみません」
なんとなく、言わんとしていることは伝わった。……これは申し訳ないの一言である……。
「まー、原作のジュリア様ひどかったからねー……。あたしもあれの中の人やれって言われたら再現できる自信ないわ」
「痛み入ります……」
「いーよいーよ。ここから仕切り直していこ?」
「仕切り直す、とは」
まさかこれからあの悪女ムーブをやれというのだろうか。そう思ったが、聖女はからっと笑い飛ばした。
「あたし、原作のファンだけど、別に夢属性ないからさー。アルが苦しんでるんじゃなきゃ、ジュリアエンドで全然いいよ」
「はい?」
「……えーと、だから、ストーリーにこだわる必要ないじゃん? ってこと」
「はあ」
「あんないいやつなんだから、中身があなたのジュリア様だったら全然うまくいきそうじゃん? っていうかうまくいってくれなきゃ困る! あたし、めっちゃ警戒されてるからここから原作エンドは無理っしょ」
力説されて、そういえばと疑問に思った。
「殿下は何故、そこまでレイナさんを警戒しておられるのでしょう?」
「そんなん決まってるじゃん。痛いとこ突かれたからだよ」
『かわいそう。ジュリア様って殿下のことちゃんと見てないよね。一度も愛してるって言われたことないんでしょ?』
「……まさか」
「すっぱり身を引く、だったっけ? 愛してるって言ってあげたことある?」
「いえ……」
いずれあなたに持っていかれると思っていたので。
(って言ったら怒られそう……黙っておこう)
賢明な判断である。
「……私の行動の変化で、あの台詞が、原作と違う意味を持ってしまっていたなんて……」
あはははと聖女は笑っていた。
「ね、だからアルとはジュリア様がうまくやって、それであたしのこともうまく言っといてよ。教会と次の王様、仲悪くないに越したことないでしょ」
☆
アルフォンス王子は、隠密から気になる報告を受け、急ぎ裏庭へ向かっていた。
彼の婚約者ジュリアと、聖女レイナが密会しているというのだ。
息が上がらない限界の早歩きで渡り廊下を通り抜け、やがて目的の場所へたどり着くが──
「ね! また試験漬けとか、マジ勘弁~」
「しかも、微妙に科目が違いますから、以前の知識は使えませんし……」
「本当にそれ~!!」
木のベンチに腰掛けてきゃっきゃっと盛り上がっている二人の少女に、目が点になる。
「あ、殿下だ」
めざとく気づいたのは聖女の方である。また婚約者の視界に入っていなかったと気づいて、王子は密かにちょっと落ち込んだが、表には出さない。
「殿下。ご機嫌麗しゅう」
「ああ。二人で……何を話していたのだ? 盛り上がっていたようだが」
「殿下まだあたしのこと警戒しててウケる」
レイナが小声でぼそっと吐いたので、一人それを耳にしたジュリアは吹き出してしまわぬよう喉にぐっと力を入れなければならなかった。
「将来のことですわ。聖女としての展望など、お伺いしておりました」
「そうか……。それは、殊勝な心がけ、だな……?」
「ええ」
ジュリアは神妙な様子でうなずいた。その横で、レイナも続ける。
「殿下、先日は失礼なことを申し上げてしまってごめんなさい。あたしの勘違いだったってわかりました」
「……そうか、わかったのならいいんだ」
ジュリアが誤解されているのでなければいいんだ、とアルフォンスは聖女へのわだかまりを捨てる決意をする。
「はい。それで、これはいいお知らせなんですけど……、そのうち、ジュリア様からいいこと聞けるかもしれません」
「いいこと?」
「えっ、あっ、それは!」
ぱっと顔を赤くしたジュリアが、大げさに両手を顔の前で振っている。
アルフォンスは、婚約者の珍しい素振りを引き出したらしい聖女に、これまでとはまた違ったモヤモヤが生まれてくるのを感じた……。
──アルのこと、ちゃんと見てあげる予定は、ある?
──それは……はい。できれば、あの言葉も……そのうち……