第一章 始まる日常
少女こと鳳凰院暦がクロに誘拐されてから一週間が経とうとしていた日曜のお昼前。
この数日で暦は劇的な変化を体験した。
環境の変化、価値の変化、待遇の変化、そして自分の名前の変化。
名前の変化とは、どういう事か、簡単に言ってしまえばクロと過ごす間の名前を付けられたのだ。
「しろちゃん、今晩は肉が食いたい」
「ダメですよ! 今晩は野菜を中心としたヘルシーコースを堪能してもらいます!」
しろ。それが今の少女の名前だ。
最初は受け入れがたかったが、人は慣れるもので。二日を過ぎた辺りから抵抗なく受け入れるようになった。
そして、しろが攫われた事は案外大事にはならず。
裏でも噂程度の話しか流れなかった。
依頼主である鳳凰院家は、財政会ではVIPで政治家とも濃い関係を築いている事で有名な家なのだ。
真実の一つや二つ消すのは容易い。
だから、誘拐させてもマスコミも報道せず、きっと通っていた学校にも手は打ってあるだろう。
結局、大喧嘩一つで鳳凰院暦は家を追い出されたのだ。
まぁそのうち戻る事は確定しているが、 何せこれは『社会勉強』という事らしいのだから。
「それにしても、クロ君。お客さん一人も来ないね」
「大丈夫。ウチは高いから、一回でも依頼が来たら一年は問題なく暮らせるし、来なくても貯金は一生遊んで暮らせるくらいあるから」
「でも、それって」
「まぁ、汚いお金。なんだけど」
「真っ当に働こうとは思わないんですか?」
「いや、汗水流して働いているんだけど」
「方向性が違います! 警察と犬猿の仲の仕事が真っ当って言えるんですか!?」
「世間一般的にいえば……言えないな」
「でしょ!?」
こんなやり取りが毎日一回は必ずある。
しろはクロに真っ当な道を歩んで欲しくてこう言うのだが、当の本人は一つのコミュニケーションとしか受け取っていないのが現況だ。
そんな意識の違いがある時点で、しろの望む通りの結果など得られるはずもなく、平行線を辿っている。
「いや、でも良い事もしていると思うぞ?」
「例えば?」
「ん~ そうだな。最近だと麻薬売り捌いていたカルテルを一つほど潰した」
「……詳しくは聞きたくないけど、逮捕された人は?」
「〇人」
……。
意味するのは一つだとしろは確信した。
生き残った人が居なかったのだ。
クロ以外は。
「そんな事はもう止めなさい!」
「え~ そりゃー 無理だよ。『チェス』は俺じゃなくてマスターのもんだし、勝手に廃業する分けにはいかない」
「もー!」
しろは自分も平然とこんな会話できる時点で、自分も一般人ではないな。と少し自嘲する。
そもそも家が家だけに、裏の世界にもそれなりに精通していたりする。
だから『チェス』に誘拐させたんだと、しろは理解していた。
裏世界で『チェス』ほど有名な言葉はない。
少々依頼料は高いが、依頼すれば大抵の事は叶えてくれるのだから、まぁあまりに非人道的だった場合断られる事があるそうだが、それ以外では完璧を誇る何でも屋。
テロリストの情報から、大国のスパイリスト、武器商人の紹介、偽造IDの提供まで、ありとあらゆる犯罪行為の助成及び実行を生業としている。
そんな極悪集団の一人がクロなのであった。
しろとしては到底信じがたい事だが、一応信じている。
何せ親が誘拐させたのだから、中途半端な悪人ではないだろうと思っているのだ。
「しろちゃん、そんな事より今晩の食事の話を」
「もう、とにかく今晩は野菜オンリーでいきます!」
「え~ なら、せめて魚を!」
「う~ まぁ、いいでしょう」
そんなほのぼのとした会話をしている時だった。
不意にチャイムが鳴ったのは。
「お客さんかな? しろちゃん」
「はい」
しろはクロに促されてお客さんを迎えに行く、只今しろは『社会勉強』中という事でクロの助手をしているのだ。
「今、開けます」
そう言ってしろは扉を開くと、三十代くらいで顎に髭を蓄えた男がいた。
タバコを口に咥えていた男はしろを見ると少し驚いた風の反応を見せて、タバコをエチケット袋に押し込める。
「新人さんかい?」
男は唐突にしろに言葉をかけた。
「え、えぇ。そうですけど」
ふーん。と男は鼻で返事をし、室内に入った。
「クロ、年端もいかない一般人の少女を雇うなんて。一体どんな心境の変化があったんだい?」
「何の用があって来たんだ? どうせ本職の用なんだろうが」
「ふふ、分かってるじゃないか」
男は敵な笑みを浮かべながらソファーに座るとポケットからタバコの箱を取り出し、慣れた手つきで箱からタバコを一本口に咥えると、クロが咳払いを一回する。
男は一瞬意味深な表情を浮かべるが、しろに気が付くと、なるほど。と納得した顔でタバコを箱に戻す。
「この前、禁煙するって言ってなかったか?」
「ん? あー あれは健康診断までの期間限定さ。というか僕からタバコを取ったら何が残るというんだい? そもそもタバコは害だ。って風潮が僕には理解できないし」
「安心しろ、俺もアンタのニコチン中毒っぷりが理解できないから」
「おいおい、それじゃー 僕が中毒者みたいな言い方だね」
「そう言ってんだよ、発ガン物質が脳にまで回ったか?」
「相変わらずだね」
「アンタもな、で?」
「あぁ、お話を聞かせてくれないかな?」
男は満面の笑みでクロに接するが、クロは少し棘のある接し方だ。
しろは、この二人仲が悪いのかな? と心配するが、実は案外似た者同士である二人は互いの思惑が解っており、あえてこういう風に接していた。
そして一番の原因は男の職業になった。
「何の話を聞きたいんだ? 刑事さん」
「え! 刑事さんだったんですか!」
しろは心底驚いた表情で思わずクロの言葉を疑う。
その言葉を聞いて男はショックだったのか、苦笑いを浮かべる。クロはそんな男の表情を見て笑いをこらえていた。
しろもそんな二人の反応を見て自分の言った言葉を「軽率でした」と反省する。
「まぁ、こんなオッサンだけど刑事をしてるんだよ」
「す、すいません」
「謝んなくていいよ、ソイツが刑事に見えないのは周知の事実なんだから」
はぁ。と、しろは遠慮気味に返答し、少しの罪悪感を抱き、せめてものお礼に。とお茶を入れるために給湯室へ向かった。
それを見届けたクロはしろが二階へ上がった事を確認すると、しろと接する時からは想像もできないほど刺々しい雰囲気に変わり、刑事を見る。
「さて、しろちゃんは席を外したし。もういいんじゃないか」
「そうだね。本題に入ろう、って言いたいんだけど、そうも行かなくなった」
刑事は、ヤレヤレ。とため息交じりにタバコを取り出して火をつける。
クロもため息を吐いて換気のために窓を開けた。
「あの娘、一体どこの誰なんだろうね」
と、意味ありげな言い方で刑事はクロに語りかける。
クロは、呆れた風に「一般人の少女だけど?」と望み通りの言葉を返す。
その言葉を聞いた刑事はふぅー、と煙を吐き出すと、「そう? 僕はてっきり誘拐でもしてきたんじゃないかと思ったんだけど」と、真相を突く。
だが、クロはそんな事じゃ動揺の色を見せない。
それなりに場数は踏んでいるのだ。
「誘拐された少女があんな風に働くかよ」
と、何をバカな事を言っている。なんてニュアンスで返す。
「そうなんだよね、そこが引っ掛かるんだ」
それでも刑事は食ってかかる。
第六感的な物が働いているんだろうか、とクロは思うが、刑事も職業柄あまりにも不確実な事で相手を落とせるとは思わず、新たな手に打って出る。
「でも、最近鳳凰院のご令嬢が誘拐されたって言うじゃない」
そう、クロの動揺を誘い、不確実を確実に変える事だ。
さすがのクロも多少の動揺はするだろう。と刑事は思うが、クロは予想に反して「貴重な情報をありがとう、酒でも奢ろうか?」と礼を述べたのだ。
これには刑事も驚き、それと同時に諦めた。
「いや、遠慮しとくよ。で、ここに来た目的なんだけどね」
「やっと本題か、それよりまずタバコを始末しろ」
と刑事を促す。
刑事もしろの足音に気が付き、はいはい。とタバコを始末する。
「どうぞ、粗茶ですが」
しろは刑事の前に温かいお茶と茶菓子の羊羹を出した。
クロにはお茶のみ。
刑事はお茶を一口飲み、ありがとう。と礼を言うと羊羹も一つ胃袋に収めた。
「それでクロ、一週間前に麻薬カルテルが消されたの知ってるだろ?」
「あぁ、聞いてるが。それがどうした?」
「誰がやったか教えてくんないかな?」
イヤラシイ。しろは刑事の言葉を聞いてそう思った。
なんたってその表情は誰がやったか大かた解っている顔だったからだ。
それを踏まえてクロに質問している。
だからしろはそう思った。
「ふん、それはとっくに解決済みだろう。俺に勝ちたきゃ、もっと優秀な手で攻めて来なきゃな」
「あらら、お見通しですか」
「友達は多いんでね。色々と教えてくれるんだよ」
「へぇ~ 政府機関の情報もかい?」
「さぁ、どこからどこまでが政府機関の情報かによるな」
水面下の攻防、まさにそれだった。
交渉でもあり、尋問でもあり、ただの質問でもあり、そんな事がこの一室で行われていた。
方や年端もいかぬ少年、方やいい歳をした大人、だがこの場において「年齢」なんて概念は通用しない、互いに「プロ」であるが故に譲歩も妥協も一切しない、絞り取れる物は絞り取り、自分に有利に事を運ぼうとする。
刑事は「そう」と言葉を区切り、「じゃあこの前貰った情報のお礼をしようかな」と言葉を紡いだ。それは同時に交渉でもあり、尋問でもあり、質問でもある時間の終わりを示していた。
「報酬ならもう受け取っているけど?」
「何、今後とも宜しくって事さ」
「そういう事ならありがたく聞かせてもらおうか」
刑事はクロの返事を聞くと、ニコッと笑みを見せ語り出す。
「最近、薬製造機って言葉よく耳にするだろ? 次の標的が新宿らしいんだよね。だから精々夜道には気をつける事だ」
そう言って刑事は立ちあがり、じゃあね。と足早に帰路に就いた。
しろは刑事が雑居ビルから立ち去るのを窓越しに確認すると、お茶を下げ、クロに訪ねた。
「薬製造機って何ですか?」
「ん? あぁ。最近よく聞くようになった同業者の呼び名だよ」
「違法薬物とか売ってるって事ですか?」
しろの言葉にクロは少し苦笑いにも似た表情を浮かべ、はは。と笑う。
「それくらいなら可愛げがあっていいんだけどね」
と言葉を漏らす。
しろはすぐさま思考を働かせ、答えを模索するが、如何せん情報が少なすぎた。
結局はクロに聞く以外に術はなく、「それはどういう意味ですか?」と質問をする。
「違法薬物は勿論、生物兵器とかも売ってるんだよ」
「それって、テロリスト!?」
「そうじゃない、ただ売ってるだけさ。マッドサイエンティストがね、その上ソイツの性格が最悪でね、正直顔を思い出すだけでも反吐が出るよ」
クロは苦虫を噛み砕いたような表情を浮かべ、しろはそんな危険極まりない人物が同じ街にいる事に寒気を覚えた。
しかし、クロは言葉を続ける。
「で、そいつの始末又は捕獲が今回の依頼って分け、OK?」
「へっ?」
しろは予想の斜め上を行く言葉に一瞬理解が遅れるが、すぐさま思考は追いつき、
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」と悲鳴にも似た驚きの声を上げる。
しろの声にクロはうるさいよ。と両耳を人差し指で塞いで抗議し、しろも少し落ち着いて頬少し赤らめソファーに腰掛けた。
「でも、刑事さんは依頼なんて一言も」
「当たり前だよ、向こうは一応刑事。そんな職業の人があからさまに違法行為をしている人に『お願いします』なんて言えるわけないでしょ? だから遠回しにああ言ったんだよ」
「でも、それじゃあ報酬とかどうするんですか、向こうは頼んでない。って言えば報酬を支払わずに済むし」
しろは心配げに言う、何せ生活が掛っているのだから。
それでもクロは表情を一切変えずに言葉を続ける。
「そこが業界の肝心なとこ。向こうも裏業界の情報が欲しい、裏業界もそれなりの報酬が欲しい。って持ちつ持たれつの関係が出来上がってるわけ、それを向こうが裏切ればこっちからは何一つ情報はいかない。そんな状況には向こうもしたくないから報酬はきちっと支払われるっていう構造」
なるほど。と、しろは思う。だが心配な部分も当然思いつくわけで。
「でも、それって―――」
しろが言い終わる前にクロは答えだけを述べる。
「あったんだよ。向こうが裏切ってその報復に警察署が丸ごと一個吹っ飛んだ事がね」
しろは今度こそ納得した。
持ちつ持たれつの関係、ギブアンドテイク、綺麗事だけじゃ世界は回らないと確信を得た瞬間だった。