C's コーリング《04.弱虫なわたし 2/3》
/**
わたしには歳が四つ上の兄がいる。
一般的な兄妹と比較しても、わたしと兄の仲は昔から特段悪く無かったと思う。
と、他人から兄妹仲を訊かれた時、わたしはこう答える。
『思う』という曖昧な表現を用いるのには理由があった。というのも、わたしは兄と喧嘩をしたことが無く、それに伴って昔から感情的に話し合うことも当然無かったので、『喧嘩をしていないので仲は悪くないけれど、兄の考えていることはよく分からない』というのがわたしの本音だからだ。
何故そうなったのと問われると、四つも歳が離れているので兄が感情をぶつけるにはわたしが幼過ぎ、本音で話さないことが常態化してしまったことも要因の一つになっているけれど、一番の理由は、わたしが一生懸命手を伸ばしても、兄がいつもわたしの手の届かないところにいて、家族として接する時間が少なかったことにある。
「麻陽にはまだ早いからね。帰ってきたら一緒に遊ぼうね」
当時の幼いわたしは何でも兄と同じことをやりたくて、兄の行くところ行くところ全てについて行こうとしていた。しかし毎回そう言われて頭を撫でられ、そのまま留守番をさせられることが常だった。
わたしがいると兄もやるべきことが出来なくなるので仕方がない、ということは、幼いわたしでもなんとなく分かってはいた。もちろん不満はあったけれど、兄が「帰ってきたら一緒に遊ぼう」と言って出かけると、帰宅後には必ず約束を守って少しだけわたしと遊んでくれたので、次第にこれが普通なんだなと思うようになった。そのようにして幼いながらにも兄の事情を考えておとなしく待っているわたしを見て、両親はわたしのことを『利口な子』と評した。実際に幼い頃から、物事を考えることや、他人が思っていることを推測する力だけは人並み以上にあったように思う。
一方で、兄のことがどのように評されていたかというと『出来た子』だった。
兄は何をやっても、初めてであってもある程度の成果を出し、勉強も運動もそれなりにでき、人気があり顔立ちも整っていた。いわゆる磨けば光る原石というやつで、当時の両親はこの兄の教育に非常に熱量を注いでいた。
これは後に父本人から聞いた話だが、父は自分に祖父や曽祖父のような経営の才能が無いと思い込んでおり、かつそれがコンプレックスになっていたらしい。自分の後継をわたしの兄が担うことになるのは代々の通例で決まっていることだったので、自分と同じ惨めな思いをさせたくない、その一心から普通以上に手をかけていたそうだ。
そのようなことから、当事者である兄を含め、家族がわたしに使ってくれる時間はどんどん減っていった。兄も分別がつく歳になったからと、会社での付き合いに同席するようになって、学校が終わり次第に直接会食等に連れ出され、父と共にホテルに泊まることも多く、家を空けるようになった。それに加えて、父の手がける事業が不安定になると、普段忙しい父は更に会社に出突っ張りとなり、家業であることから母もそれを手伝うことになって、家のことは家政婦にお願いすることが多くなっていった。
幼い頃のわたしには、兄に限らず、家族と過ごせる時間がほんの僅かしか与えられていなかったのだ。
しかしそれでも毎年、いつも誕生日だけは必ず家族皆に祝ってもらえていた。「麻陽の誕生日は家族全員でお祝いしたい」と兄が言ってくれたからだった。兄は聡い人だったので、わたしが寂しそうにしているのに気づいていたのかもしれない。
子どもにしてはあまり欲が無い兄が珍しく頼むものだから、両親は何とか仕事に都合をつけてわたしの誕生日を祝ってくれるようになった。兄の頼みで祝ってもらえるのだとしても、わたしはわたしが主役になれるこの日がとても大切だった。
だから七歳になる直前も、その何日も前からお誕生日の歌を口ずさんだり、家政婦に誕生日の日のことを話したりして、それはもう本当に楽しみにしていた。ノートを広げて、少しずつ綺麗に書けるようになってきた平仮名とほんの少しの漢字を使って、楽しい誕生日にどんな嬉しいことがあるのか、拙くもワクワクしながら綴ったものだ。
学校で一番にプリントを終わらせて花丸を貰った話をするでしょ。お友達の朝顔とわたしの朝顔が絡まっちゃった話とか、最近通学路に可愛い猫がいてみんなに人気だっていう話はどうかな。お母さんは猫好きかな。お父さんはどうかな。
そのようにしながら今か今かと待ち望んだ末にやってきたのが、 あの七歳の誕生日だった。
………
……
…
眩しさを感じ、わたしは目を覚ます。
体を起こして光の方向を見やると、カーテンが少し開いていた。昨日寝る前に閉めたと思っていたけれど隙間が開いていたらしい。そこから差し込む光がちょうどわたしの顔面を照らす形になって、とても眩しい目覚めになってしまったようだ。
わたしは布団を剥ぎ、ベッドから飛び降りる。いつもより早い時間に起きてしまったけれど、不快感は無かった。なんといっても今日は。
「お誕生日!」
声に出して自然と笑みが溢れる。そうだ、今日は待ちに待ったお誕生日なのだ。少し早く起きるくらいどうってことない。わたしには、お父さんお母さんお兄ちゃんに話したいことが沢山あるんだ。
学習机の上に置いてあるお誕生日ノートを手に取り抱きしめる。
このノートは、わたしがお誕生日当日に家族に何を話したいか、何をしたいのかを少しずつ書き溜めたものだ。いつ何時でも思いついたことを書き留めるために、最近ではいつも持ち歩いている。当然学校にも持っていくので、わたしはそれをランドセルに入れた。
部屋を出てリビングに移動すると、既に家政婦さんが朝食を作ってくれていた。いつもわたしに優しく接してくれるお気に入りの家政婦さんだった。
あまり好きじゃない家政婦さんもいるので、朝から気分が良かった。
そうしてわたしは家政婦さんに簡単に挨拶をしてから家族のことを尋ねてみたけれど、お父さんもお母さんもとお兄ちゃんも、今日は見かけていないということだった。
帰ってきているのか帰ってきていないのか、リビングの食卓に時々置き手紙が残されているので、それがある日は帰ってきているのは間違いないけれど、しかしその書き置きもここ数日は見ていない。最近は特に忙しいようで、わたしはもう一週間も家族と顔を合わせていなかった。
それでも今日はお誕生日なんだから、きっと帰ってきてくれるはず。
わたしは少しだけ不安を覚えながらも、それを誤魔化すように家政婦さんに笑顔を向けた。百点満点の笑顔だったと思う。家政婦さんの機嫌が良いと何かと得をするので、これはわたしなりのショセイジュツでもある。ショセイジュツは役に立つと、いつかのテレビでもそう言っていたような気がする。
わたしは家政婦さんにお礼を言ってから朝食を食べ、制服に着替えた後、支度をして玄関の外に出た。わたしはマンションの五階に住んでいるので、そこから一階まではエレベーターでの移動となる。エレベーターから降りてエントランスを抜けると、そのままわたしは駆け足で小学校に向かった。
その日は金曜日で五時間授業だったので、いつもより学校が終わるのが遅い日だった。教室で席に座り、黒板の隣に張り出してある時間割を睨みつける。よりによってなんで今日なの、とわたしは頬をふくらませていた。
いつもは真面目に授業に集中できるわたしでも、さすがに今日ばかりは上の空で、早く帰りたいという気持ちばかりが前に出ていた。一時間目、二時間目、三時間目、四時間目、給食。早く終わらないかなと思えば思うほど時計の針の進みは遅くなる。
「何を書いているの?」
昼休みにわたしがお誕生日ノートに思いついたことを書いていると、三つ編みが可愛らしいお友達の雫ちゃんがそう話しかけてきた。
「お誕生日にしたいことを書いてるの」
わたしがそういうと、雫ちゃんはぱぁっと笑顔になり「素敵! 私も書いていい?」と言ってきた。何を言っているのかちょっとよく分からなかったけれど、たぶん何か勘違いをしているのだと思う。ちゃんと教えてあげないと。
「これはわたしのお誕生日にしたいことを書くノートだよ」
「うん! だから、あさひちゃんのお誕生日にしてあげたいことを書くの!」
わたしは目を丸くした。自分の頭にはそんな発想微塵も浮かんでいなかったからだ。勘違いをしていると思っていた自分が少しだけ恥ずかしい。雫ちゃんはお友達思いのとても素敵な子なのだ。
「いいよ、一緒に書こう」
「やったぁ、ありがとう!」
ノートに鉛筆を走らせながら、「お誕生日っていつなの?」と訊いてきた雫ちゃんに、「今日だよ」と返すと「えー、間に合わないよぉ!」と困ったような顔をしていたけれど、お誕生日をお祝いしてくれる人が増えたことにわたしはとても暖かい気持ちになった。
その後、昼休みが終わり、五時間目になって、ついに話を聞いていないと先生に注意されたけれど、下校時間直前で無敵モードになっているわたしには何も響かず。そのまま放課後になると、雫ちゃんにバイバイを言って、わたしは今朝と同じように通学路を駆け抜けた。
そうして。
自宅マンションまで戻ってきたわたしは、エントランスを抜け、そわそわしながらエレベーターで五階まで上がり、自宅の扉を開けると、すぐに靴を脱ぎ捨てる。
そして、たたたっとリビングまで走って、勢いよく部屋の扉を開けた。
「ただいま!」
返事は無い。
予想していたのでショックは無い。家族各々予定用事はあるものなのだ。毎年家族が揃うのはお誕生日の夕食の時だから、今日が楽しみ過ぎてわたしの気が急いているだけだ。
リビングには、あの優しい家政婦さんはすでにおらず、代わりにわたしの『ただいま』さえ無視するような、家政婦さんの中でも特に苦手な、無口で目つきの悪い女性がいた。あの家政婦さんがいればお誕生日のお話や雫ちゃんのお話ができたのに、残念。
リビングに入り、食卓である大きなテーブルを見ると、例年と違い、派手な包装の、いつもよりも大きな誕生日プレゼントであろう箱と、いつもよりも大きなイチゴが乗った誕生日ケーキが置かれていた。もしかしたらわたしが学校に行っている間にお父さんかお母さんが一度帰ってきたのかもしれない。時計を見ると、時刻は午後三時を過ぎた頃だった。
「お父さんとお母さんは? お兄ちゃんは?」
無口な家政婦さんに一応訊いてみたけれど、当然返事をしてくれるわけもない。
そんな家政婦さんだが、ケーキに包丁を入れ切り分けている最中のようだった。でもどうしてもうケーキを切り分けているのだろう。お誕生日ケーキはいつも夕食の後に開封するはずなのに。
また少しだけ不安な気持ちになって、何度も「ねぇどうして今切り分けてるの?」みたいなことを訊いてみたけれど、彼女は面倒くさそうな表情をするのみで、何も教えてくれなかった。何度も同じことを訊いていたら、そのうち家政婦の人は部屋から出て行ってしまった。
わたしは携帯電話を持っておらず家族と連絡を取ろうにも家政婦さんにお願いしないと出来ないということもあり、この感じだともうどうしようもないので、その後わたしは自分の部屋にランドセルを置き、お誕生日ノートを持ってリビングに戻った。
それからは、お行儀良くソファに座って、ノートを読み返しながらわたしは家族の帰りを待つことにした。
きっと忙しくて遅れてるだけなんだ、大丈夫、きっと大丈夫……。
しかし、待てども待てども家族が帰ってくることはなかった。
………
……
…
唐突に意識が戻る。いつの間にか、待ち疲れてわたしは眠っていたらしい。体を起こして壁掛け時計を見ると、午前九時を指している。
「そうだ!」とわたしはソファから飛び降りる。昨日はわたしが寝ちゃったから、お誕生日をお祝いできなくてお母さんもお父さんもお兄ちゃんも、残念がっているに違いない。
……そうじゃない。
「お母さん、ごめんね!」
そう言いながら家族が待っているはずの食卓の方に顔を向けた。
分かってた。
そうしてわたしは。
信じたく無かった。
テーブルの上で、昨日のままになっている、ケーキを見つけて。
分かってた……! 分かってた……!!
涙がボロボロとこぼれ落ちる。
わたしはそれを認めたくなくて、昨日からずっと、顔を背けて見ないようにしていたんだ。
開封されているケーキの箱、既に用意されているプレゼント。おそらく一度帰ってきていたのに、既にいない家族の誰か。そして家政婦の人がケーキを切り分けていたということは、そういう指示があったということだ。自分はいなくなるけれど、ケーキを切り分けて欲しいという指示。それが意味することは、単純明快だ。
家族はわたしの誕生日のお祝いまでも、家政婦の人に代行させたんだ。
「やだ……! やだぁ…………!!」
悲しみが溢れて、嗚咽が止まらなくなった。
泣きながら何度も「何でぇ……! 何でぇ……!」と口にした。
それを言ったところで何も変わらないのに。
否定したところで、家族がわたしを慰めてくれるわけじゃないのに。
楽しい誕生日が戻ってくるわけじゃないのに。
わたしはお誕生日ノートを持って泣きながら、いるはずのない家族を呼び、探して、地団駄を踏みながら家中を何度もぐるぐる回った。
そのうち昨日とは違う家政婦の人が出勤してきた。
家政婦は一人で泣いているわたしを見た後、血相を変えて怒り顔になりどこかに電話して大声を上げた。わたしはその声に驚いて、怖くなって更に泣いた。
しばらくすると玄関が開き、昨日ケーキを切り分けていた無口の家政婦の人が、面倒臭そうな顔をしてやってきた。
二人の家政婦は泣いているわたしを放置して何だかんだと言い争い、最終的には面倒臭そうな顔の家政婦の人を残して、怒り顔の家政婦の人はその怒りのまま帰って行った。
泣いているわたしを見た面倒臭そうな顔の家政婦、羽部圭香という名前のその女は、「あぁクソ」と自身の黒髪ショートヘアを掻き毟り、わたしの手を握った。痣になるのでは無いかと思うくらいに強い力だった。
「痛い、痛いよぉ!」
「いいから来いよ」
自分の靴を履く間も与えられず、少し大きな兄のサンダルに足を通させられる。大人の力になす術もなく、わたしは羽部に連れられて、自宅マンションから連れ出される。
外は雨が降っていた。羽部のさした傘の中に体半分だけ入り、わたしは手を引かれたまま歩く。大切なノートが濡れないように、もう片方の手で抱えるように持つ。手を引っ張る羽部の力は相変わらず強く、抵抗するだけ意味がないことを悟ったわたしは、大人しく従うことにした。
「どこへ行くの……?」
恐る恐るわたしがそう訊くと、羽部はこちらを見ずに「あ? ウチだよウチ、ちけーから。今日は用事があんだよ」と、律儀にもそう答えた。発言の正しさを示すかのように、彼女は青いデニムの長ズボンにTシャツというラフな軽装で、手荷物も傘だけだった。思った通りの回答だったので、少しだけ恐怖が和らぐ。
「ここだよ」
しばらく歩き、ボロボロのアパートの一階の一室の前まで来ると、羽部は慣れた手つきで鍵を開け、ところどころ錆びついている金属の扉を開く。
ギギという音、古い木の匂い。羽部は傘を畳むと傘立てに突き刺し、わたしの背中を押した。わたしはサンダルを脱いで部屋に上がり込んだ。
部屋は意外と整頓されており、おそらく洗面所と、トイレに繋がっているのであろう扉が二つ。部屋の奥にはベッドと、小さな化粧台と棚やクローゼットがあった。
「その辺で座ってろ、忙しいんだから」
そう言うと、「アイツ帰りやがってふざけんなよマジで。休むって伝えただろーが。忘れてんじゃねえよ」などと機嫌が悪そうにぶつぶつ言いながら洗面所らしき場所へ入って行った。
頭が真っ白だった。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。本当なら、お誕生日の余韻に浸りながら家族からもらったプレゼントを抱き締めていたはずなのに。
……本当なら? そんな本当、どこにも無いじゃない。
悲しくて俯いたまましばらく座っていたら、羽部が戻って来た。
暗い顔をしているわたしを見て何を思ったか、羽部はわたしの隣に座った。
「アタシはさ、最初お前が羨ましかったんだよ。何でも買ってもらえて、エアコンが効いた部屋で良いベッドで眠れて、家事は家政婦が全部やってくれるんだ。何不自由なく暮らせて貧困のひの字も知らないおめでたいガキって感じで、アタシに無かったもの全部持ってるから」
羽部はわたしの顔を覗き込んでニッと笑った。
それは学校でお友達が浮かべている快活な笑顔とは程遠いものだった。わたしは生まれて初めて邪悪な笑みを知った。
「だっつうのに! 何にもないアタシですらママには大事にされてたってのに。お前せっかくいい家に産まれたのに、愛されてねーのな。ウケる」
再び目に涙が滲む。
言い返したかった。『そんなことない! お父さんもお母さんも、わたしのことが好きなんだ!』と。
しかし言い返せなかった。普段からほとんど会えない家族。誕生日にすら一緒にいてくれない家族。羽部は間違ったことは何も言っていない。
抱き抱えるようにして持っていたお誕生日ノートがくしゃっと歪んだ。
「つまんねーなお前。世界で一番不幸です、みたいな顔しやがって。世の中にはなァ、愛されたくてもそもそも親がいねぇ、捨てられちまって顔も見たことがねぇ、暴力を受けてそもそも生きていくことすらできねぇ、そんなガキが五万といるんだよ。お前なんか序の口だよ序の口、虐めてやる価値もねー」
そう言い放つと、わたしに興味を無くしたように羽部は立ち上がった。
「めんどくせーけど、一応さ、お前を見とくっつーのも仕事のうちでね。金貰えないとアタシも困るから連れてきたけど、アタシこれから出かける用事あんだよ。だから今日はウチで大人しくしとけ。どうせお前の家族は帰ってこねーだろうし、散歩に出てたとか適当に言っときゃ許される。まー、別のやつがシフトに入る前には連れ戻してやっから」
何故か取り繕うように言ってから、羽部は荷物を手に、そそくさと出て行ってしまった。
普段無口な分、羽部が間近で声を荒げる姿はとても恐ろしく感じた。手を掴まれた時もそうだったけれど、大人はわたしが思っていた以上に怖い存在なのだ。子どもではどうしようもない。抵抗することもできなければ、意見することだって出来ない。
そして当然、お父さんとお母さんも例外なく大人だ。あれだけ会いたかった二人に会うのが、今は酷く恐ろしかった。
羽部が出ていっただけで、部屋は空き家のように静まり返った。
一人残されたわたしは、沈んだ気持ちのまま、羽部に言われたことを考えてみることにした。
わたしは幸せなんだろうか。わたしは不幸なんだろうか。
羽部が言うように、わたしはこれまで何不自由無い暮らしを送ってきた。
お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、わたしに暴力をふるったり、邪魔者のように扱ったりはしていない。家だって家政婦さんを雇えるくらいには裕福だ。
家族みんなが忙しいのは分かってた。詳しくは知らないけれど、いっぱい頑張っていることをわたしは知っていた。そしてその頑張りは自分のためであり、家族のためであることをわたしは知っていた。
わたしは不幸じゃない、多分幸せなんだ。
わたしが幸せなのだとしたら、他の家族はどうなんだろう。
わたしは別に何かを頑張っているわけじゃない。
学校のお勉強をするのはみんな同じだ。
自分がこれを頑張ると言って始めたことじゃない。
家族はこんなにも頑張っているのに、わたしは全く頑張っていない。
ということは、もしかして、わたしと一緒にいる家族は不幸ということ……?
嫌な考えが頭をよぎる。
そもそもわたしは何で泣いていたんだっけ。
お誕生日に一緒にいて欲しかったから?
違う。
ただ、わたしは、わたしを見て欲しかったんだ。
そう考えて気づいた。
「ぁ、わがままだ、これ……」
わたしは居ても立ってもいられなくなって、鍵を開け、羽部の部屋を飛び出す。
頑張っている家族に、忙しい家族に。
頑張っていないわたしを見てほしい? 時間を使って欲しい?
わたし、なんて身勝手なんだ……。
とめどなく降る五月の雨に打たれながら、わたしは走る。
ノートが濡れようが、もうどうでもよかった。今はただ遠くに行きたかった。
………
……
…
どれだけ走っただろう。
顔を上げると、目の前には、幼いときに家族と一緒に遊びに行った公園の入り口があった。思い出に呼ばれるように、わたしは公園に歩みを進めた。
多分コンクリートで作られているタコの見た目をした遊び場、そこに付いている滑り台。お母さんとお父さんに見守られながら、お兄ちゃんと一緒に滑った記憶がよみがえる。
『な、なあ、二人だけで本当に大丈夫なのか?』
『何度か滑っていますから大丈夫ですよ。ほら、お父さんに上手に滑るところを見せてあげて』
わたしはタコの遊び場の下、トンネルになっているところに入って座りこんだ。
『お、お父さん近くにいるから! いつでも受け止められるからね!』
『大丈夫だよ、麻ちゃんは俺が支えてるから!』
『とはいえなぁ、麻ちゃんはまだ小さいし、お父さんは心配だよ』
『ほら、行くよ。お父さんに二人の勇気を見せつけてやろう――――』
しばらくそうしていた。
俯いて、こうして一人で雨音を聴いていると、頭の中に、今まで自分がしてきたこと、家族に言っていたことが、次々と浮かんで来た。
それらは全てが小さなことで、取り止めのない日常的な仕草や言葉のはずで、これくらいはごく平凡なことだと今まで思ってきて、気にしたことさえないことばかりだった。
あの時のわたしはわがままな悪い子だったんじゃないか。
わたしの言葉を受けて家族はどんな顔をしていただろうか。
想像の中の家族の顔は真っ暗なお面を付けているような不気味な見た目になって、表情を読み取ることはできなくなっていた。
「……わたしがもっと良い子だったら」
そう口にした時。
「ぁ……誰かいるの?」
子どもの声。
黄色い傘を刺したわたしと同い年くらいの女の子が、トンネルの入り口からひょっこりと覗き込んできていた。
わたしが黙って返事をしないでいると、女の子は傘を畳んで、トンネルの中に入ってきた。
「ねえ、どうしてここにいるの?」
女の子は純粋にもそう訊いてきた。わたしは答える気にならなかった。
その子は少し考えるそぶりを見せた後、わたしが何も言わないことに対して怒りをぶつけることもなく、おだやかな顔で再び口を開く。
「私はお父さんを待ってるんだ。家の鍵を忘れちゃったから夜まで待たないと」
「……だったらお母さんに入れて貰えばいいじゃない!」
お父さんという言葉に心が引き裂かれそうになる。わたしは思わず声を荒げてそう叫んでいた。
わたしの言葉を受けて、ハッとしたような表情を見せた女の子は続けて少し申し訳なさそうな顔をした。
「あーっ、あの、お母さんいないんだ。私が小さい頃に死んじゃったんだって」
「えっ、あっ……」
彼女がお母さんに関して何らかの事情を抱えていることは、少し考えれば分かることだった。
彼女の家には今、誰もいないから鍵を開けることができない。わたしの家には家政婦さんがいるけれど、それが普通とは違うことをわたしは知っている。そもそも、わたしたちのような歳の女の子が家に一人になるようなことは、何か事情がない限りは、あまり無いはずなのだ。
彼女は『お父さんを待っていて、夜まで待つ』としか言わなかった。たとえば、お母さんが共働きで今日は出張で帰れない、ということであれば、『お母さんは仕事でいなくて』などと付け加えるはずだ。
『お母さんを待っても鍵は開かないことを説明しない』ということから想像できることは、あまり気持ちの良い内容じゃない。
『世の中にはなァ、愛されたくてもそもそも親がいねぇ、捨てられちまって顔も見たことがねぇ、暴力を受けてそもそも生きていくことすらできねぇ、そんなガキが五万といるんだよ』
羽部に言われたことが頭の中で響く。
わたしには家族と一緒に遊んでいた記憶があった。でもこの子にお母さんの記憶はない。
あぁ、この子はわたしよりもきっと不幸だ。それなのに。
「ね、寒くない? 大丈夫?」
この子は自分よりも幸せなはずのわたしを心配している。わたしはただわがままだっただけで、今こうなっているのは全部自分が悪いからなのに。
わたしは、なんでこんなに自分勝手なんだろう。
わたしは、なんでこんなに醜いんだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい…………」
再び堪えきれなくなり、涙がこぼれ落ちる。
「……どうして謝るの? 私何か変なこと言ったかな」
悲しかった。悔しかった。情けなかった。
頭の中で様々な感情が渦を巻いていた。
今すぐにここから消えてしまいたい。この世界から消えてしまいたい。
嫌だ、嫌だ、嫌だ……わたしはわたしが嫌だ。
何よりもこの後に及んで、目の前の。
自分よりもきっと不幸な子に、縋ろうとしているわたしが嫌だ。
手を伸ばす。
くしゃくしゃの顔。
涙は止まらず、自己嫌悪は治らず。
「お願い……わたしを助けて……」
彼女はわたしの手を取り、意志のこもった真っ直ぐな眼差しをわたしに向けて。
「安心して、私が守るから」
『こうして、幼いわたしは彼女に呪いをかけたのだ』
………
……
…
わたしは『トモエスズカ』と名乗った黄色い傘の女の子に、今日のことを話して聞かせた。彼女は特に意見をすることもなく、相槌を打ちながらわたしの話を聴いてくれた。
泣きながら喋ったので、ちゃんと伝わったのかは分からないけれど、話し終わったときには、わたしは少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「ねぇ、麻陽。そのノート見てもいい?」
その言葉にわたしは頷いて、雨でぐしょぐしょになったお誕生日ノートを差し出した。スズカちゃんはノートを受け取ると、破ってしまわないようになのか、慎重にページをめくっていく。
そんな様子の彼女を見て、わたしは昨日の雫ちゃんを思い出した。
雫ちゃんは友達のお誕生日を心から祝ってくれるような優しい子だ。そんな子は他になかなかいないとわたしは思っていた。
でも今目の前にいる彼女も、とても優しい子だと思う。それにここまで気を遣ってもらえたのは初めてかもしれない。
わたしとは違う、わたしには無いものを持っている子たち。一体どうすれば、わたしも彼女らのようになれるのだろうか。
「私が口を挟むことじゃないかもしれないけど」
見終わったのか、お誕生日ノートを閉じて顔を上げた彼女が言った。
「麻陽はどうしたい?」
言葉に詰まった。
わたしは家族に、もっとわたしのことを見て欲しかった。
でもそれはわたしのわがままで、自分本位の、自己中心的な願いだ。そんなお願いは今のわたしにはできない。
――――だから。
「わたしは、家族に謝りたい。今度はわたしも家族のために頑張りたい」
言いながらも、それを家族に伝える場面を想像しただけで恐ろしくて、少しだけ体が震えていたかもしれない。
わたしの言葉を聞いたスズカちゃんは暫し無言になった後、目を伏せ、ちょっと考えてからわたしの方を見た。
「…………そう。わかった。それなら私が麻陽の思ってることがちゃんと伝わるように、一緒にいて、一緒に話してあげる」
そう言ってくれたスズカちゃんの優しげな声色に、わたしの恐怖は少し和らぐ。
今朝から今にかけて、わたしはようやく完全に気持ちを落ち着けることができた。スズカちゃんに対しては感謝の気持ちでいっぱいだ。
「ありがとうスズカちゃん。わたし、スズカちゃんとなら頑張って伝えられそう」
「そうか、そりゃァ良かったな」
背後から聞こえたその声に背筋が凍りつく。
わたしが振り向く前に、髪の毛を掴まれる。
「やめっ!! 離して!!!」
強い力で髪の毛を引っ張られ、トンネルから引き摺り出される。
顔を上げると、まるで童話の中にいる悪い海賊が宝を見つけた時のような、そんな笑みを浮かべた羽部がそこにいた。羽部は傘をさしており濡れていないが、地面を引き摺られたせいで、彼女とは対照的にわたしの服は泥水だらけになった。
「おい! 何をするんだ!」
スズカちゃんが声を荒げて飛び出してくる。羽部は驚いた様子でスズカちゃんを一瞥すると、子どもであることを認識して、興味を無くしたように再びわたしの方を見た。
「手間取らせやがって。お前勝手にいなくなってるんじゃねーよ。おかげでよぉ、今アタシの雇い主はカンカンだよ。おいコラ、どうしてくれんだよ」
「お前……羽部か! お前が勝手に麻陽を連れ出したんだろ! 麻陽を離せ!」
無視されてもお構いなしで、スズカちゃんはそう言って羽部を睨みつけた。
「――――」
大人は強いから、あまり刺激しちゃだめなのに、どうしても恐怖で声が出せない。わたしはなんでこんなに弱虫なんだ……。
「さっきから五月蝿えなァテメェは。一丁前に吠える割に、足が震えてんじゃねぇか。黙ってろガキが」
スズカちゃんを見ると、確かに足が少し震えているようだった。スズカちゃんだって恐いんだ。それでもわたしのために、勇気を出して怒ってくれているんだ。
「黙らないよ! アンタ大人なのに子どもに手を上げて恥ずかしくないの?! わ、私が通報すれば一発でお縄だよ!!」
「調子に乗りやがって……いいよ、通報してみな。携帯出せよ、啖呵を切るからには持ってんだろ? 見ててやっからよ」
スズカちゃんがポケットから小さな携帯電話を取り出し、操作しようと手元に目線を落とした時だ。
「オラァ!!」
羽部は傘を捨て駆け出してスズカちゃんに詰め寄り、下から顔面を殴りつけた。何が起こったのか理解するまでに少し時間がかかった。
強い衝撃で体を少し浮かせ倒れ、その勢いのまま濡れた地面で体を滑らせたスズカちゃんを、わたしは見ていることしかできなかった。
「――――スズカちゃんっ!!」
今度は声が出た。なんでスズカちゃんが殴られないといけないの? なんで? 何でスズカちゃんが? どうしてなの? そんなのおかしいよ!
わたしはスズカちゃんのもとへ駆け寄ろうとしたが、しかし途中で羽部に腕を掴まれてしまう。
「嫌っ! 嫌ぁ!!」
「大人しくしろっての!! ああクッソ、めんどくせぇ!」
わたしは全力で羽部の手から逃れようともがくが、やはり大人の力は強く、どうしても振り解けない。
痺れを切らしたように、そのまま羽部はわたしの服の襟首を掴んでグイと持ち上げる。わたしは爪先立ちになり、そのまま宙に浮かされ身動きが取れなくなった。
「クソガキが……」
苦しくて涙目になりながら、羽部がそう呟いたのを聞いた時。
バチバチバチ!!! と、青白く強い稲光が一帯を照らした。
羽部は「ひっ」と小さな悲鳴をあげ、わたしを掴んでいた手を離す。
そのままわたしは尻餅をついてしまった。
何が起こったのか理解できなかった。
けれど、シュウウと音がしていたので見ると、地面に転がっていたスズカちゃんの携帯電話から白い煙が出ているようだった。ショート?したのだろうか。
でも、そんなことよりも、わたしはその光景に目を疑った。
「スズカちゃん……?」
倒れていたスズカちゃんが、いつの間にか立ち上がっていたのだ。
スズカちゃんは、先ほどよりも強い意思が宿ったような目で羽部を睨んでいた。
「オイ、何だよ。まだやんのかコラ」
羽部はそんなスズカちゃんの態度がよほど癪に障ったのか、先ほどまでのわたしへの執着はどこへやら、スズカちゃんの方に詰め寄ろうと歩き出す。スズカちゃんは逃げるそぶりも見せず、全く動かない。
わたしが心配しているうちに羽部は再び彼女に近づき、拳を作って振りかぶった。
「麻陽? そこにいるのか?」
しかしその声に、羽部は硬直した。
わたしには、その声の主が誰なのかすぐに分かった。
「お父さん……」
「麻陽、こんなところにいたのか。一体何があったんだ」
お父さんはわたしの側までやってきて、自分の傘にわたしを入れた。そしてわたしにその傘を持たせ、雨に濡れながら羽部の方へ歩いていく。
「何をやっているんだ。まさか子どもに手をあげたんじゃないだろうね」
「…………そんなわけないじゃないですか。こいつが勝手に転んだだけですよ」
羽部は拳を下ろし、お父さんの方を向いてそのように嘯いた。
「私を殴っただろ」
「黙ってろガキ!! あの、碧海さん、これは不可抗力なんです。こいつが反抗的だったから手がちょっと当たっちまって」
取り繕うように羽部が言うも、彼女を見るお父さんの表情が険しかったからか、それ以上は何も言わなかった。
「もういいから、君は退勤しなさい。悪かったねシフト外に駆り出して。でも今回の不始末に対する処分は後日連絡させてもらうよ」
「……分かりました」
羽部はスズカちゃんを睨みつけ舌打ちをした後に、投げ捨てられていた自分の傘を持って公園から出ていく。
羽部の姿が完全に見えなくなり脅威が去ったことで、わたしは安堵し、ため息をついて立ち上がった。
「それで麻陽、どうしてこんなことになったんだ。麻陽はお利口な良い子なんだから、こうなったのには何か訳があるんだろう?」
お父さんは再びわたしに近づき、わたしを見下ろしながらそう言った。
お父さん、わたしはお利口でも良い子でもないんだよ。こうなったのは全部自業自得。わたしが悪い子だったからなんだよ。
「お父さんな、仕事を途中で抜けてここにいるんだ。お母さんもまだ職場で頑張ってる。麻陽、お父さんには今、あまり時間がないんだ。何があったか話してくれないと、お父さんだって、どうすることも出来ないだろう?」
伝えないといけないことがあるはずなのに、わたしの口は開かない。お父さんに無駄な時間を使わせるわけにはいかないのに、体が動かない。
お父さんは今どんな表情をしているのだろう。恐くて顔を見ることができない。
大人は強い、そして理不尽だ。子どもであるわたしが何かを言って、それで関係が致命的に拗れたらどうしよう。
やっぱりたいしたことないからと言って、お父さんを早く職場に帰した方がいいんじゃないか。でもわたしは、これまでのことを…………。
「……ぁ」
涙が出そうになって、スズカちゃんの方を見る。しかしスズカちゃんは毅然と、凛とした顔でわたしに向かって叫ぶ。
「麻陽、恐れないで! 前を見て!!」
そんなスズカちゃんは、わたしと同じくらいの背格好なのに、何故だかとても大人びて見えた。
「一歩踏み出さなければ、何も変えられない! 一歩踏み込まなければ、何も得られないんだ!!」
雨は段々と弱まってはいるけれど、依然として降り続いている。でもその言葉を受けて、わたしの体は雨の冷たさに負けないくらい、熱を帯びていた。
わたしだって、スズカちゃんのように! 怖くても頑張れる、勇気のあるスズカちゃんのようになるんだ!
「君、一体何を言って」
「お父さん、ごめんなさい」
わたしが謝ると、お父さんは驚いたようにわたしの方を見た。
「どうして麻陽が謝るんだい?」
「わたし、甘えてばかりの悪い子だったから……。わたしね、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、家族のために頑張ってるのを知ってた。今日だって、大変なお仕事を放り出してわたしのことを探してくれてありがとう。いつもいつも、わたしのわがままを聞いてくれてありがとう」
当たり前のように感じていて、伝えていなかったわたしの想い。今初めて、自分の思っていることを自分の言葉でお父さんに伝えることができた。わたし、一歩踏み出せたよ。ありがとう、スズカちゃん。
わたしはお父さんを見上げる。お父さんは少し驚いたような顔をしていた。でも、それからすぐに優しげな表情になった。
「麻陽は本当にお利口な子だ。悪い子だなんてとんでもない。麻陽はお父さんが知るどんな子どもよりも良い子だよ。お父さんは誇らしいよ。七歳にしてここまで家族を思いやれるとは……」
お父さんがわたしを褒めてくれている! 嬉しい!
自然と笑みを浮かべてしまう。
「だからね、これからはわたしも家族のために出来ることを頑張るから! わがままはもちろん言わないし、世界で一番の良い子になるから! だから! だからわたしを――――」
…………だからわたしを? わたしを?
「あれ……?」
嬉しくて顔は笑っているはずなのに、どうしてか大粒の涙が溢れていく。
わたしは何を考えた? わたしは何を言おうとした?
「おかしいな、ちょっと待ってお父さん。違うの。どうして……?」
「あ、麻陽、どうしたんだ……。お父さん、何か変なことを言ったかな? 泣かないでくれ」
どうしたら良いか分からず、それからわたしが何も言えずにいると、スズカちゃんがわたしたちの方へやってきた。
トンネルの中から持ってきたのか、わたしのお誕生日ノートを携えている。
「麻陽のお父さん、これを見て欲しい」
「君は麻陽のお友達かな。挨拶が遅れたね。うちの者が迷惑をかけてすまないね。怪我はないかい」
「私は友枝鈴花。私のことはいいから、この麻陽のノートを」
そう言って、スズカちゃんはお誕生日ノートをお父さんに手渡した。
「水浸しじゃないか、これじゃあ読めないよ。ほら、麻陽のものなんだろう。今度新しいノートを買ってあげるから、これは捨てなさい」
お父さんがそう言ってわたしにノートを差し出してくる。
「……ふざけんな!! そのノートを捨てろって?! 中身も見ずに、捨てろだって?!」
スズカちゃん……?
突然の大きな声に、わたしもお父さんもスズカちゃんの方を見る。スズカちゃんは突き刺すような鋭い眼差しでお父さんを睨んでいた。
「す、すまないね。何か悪いことをしちゃったかな。君にとっては大切なノートだったのかな」
「ふざけんなよ!! ちゃんと見ろよ!! ノートも!! 麻陽も!! アンタの娘は今、どんな顔をしてる?! どんな思いを抱えて謝ったのか、理解しているのか?! お利口で良い子の……そんなアンタの娘が、そのノートに何を書いていたのか、知らないままで本当にいいのか?! アンタは本当に……娘のことが見えているのか?!」
スズカちゃんは次々と捲し立てるように言った。
お父さんは苦笑いをしながら、「悪かったね。ちゃんと見るから」と返してノートを開く。
お父さんはゆっくりとノートのページを捲っていった。
最初は明らかに子どもが言うことに付き合ってあげている大人といった苦笑いのような表情だったけれど、徐々にその表情は驚いたような焦ったような表情に変わっていく。
酷いことを書いていたのではないかと思いわたしは不安になった。
「トモエさん、このノートは本当に麻陽が書いたのか? 本当にこれをあの麻陽が……?」
「そうだよ。私は麻陽とは……出会ったばかりだけど、今日起きたことは聞いたし、このノートも読ませてもらった。だから分かる。私程度のやつでも分かる。アンタはこのノートを読んでどう思った? 何か一つでも知っていることがあったか?」
「いや……知らない、私は知らない。一つだって、何も分からない……。私は、この子の、麻陽の父親なのに……」
「…………甘えているのは麻陽じゃない、アンタだ。麻陽にお利口で良い子になることを強要しているのはアンタたち家族だ。健気にもその通りの生き方をしている麻陽に甘えて、アンタは本当の麻陽を見ようともしてない」
スズカちゃんは言いながらお父さんに詰め寄る。
「ねぇ、麻陽を見て。今、どんな格好をしてる? 今、どんな表情をしてる? そのノートを読んだ今なら、都合の良いフィルターが外れた今なら、ちゃんと見えるはずだよ」
スズカちゃんが言っていることが、わたしには理解できなかった。あのノートは、わたしがお誕生日に家族に話したいことを書いたものだ。だから、お父さんがそれを知らないのは当然のはずなのに……。
でも、当然のはずの、そのノートの中身を見たお父さんは、焦燥した表情でもう一度わたしに向き直った。そしてそのまま膝から崩れ落ちた。
「あぁ……、こんなに汚れて……。寒かっただろう、寂しかっただろう……」
「お父さん、違うよ、わ、わたしが、これはわたしが、自分のせいで、わたしのせいで……」
頭を撫でられ、考えがうまくまとまらない。
暖かくて、ゴツゴツして、大きな手のひら。
押し殺していた感情が。
おおきななみとなって、わたしのなかにあふれだして――――。
「いいこになるから……、がんばるから……、わたっ、わたしを、すてないで……。おとうさん、すてないで……。すてないで……、おねがいします……、おねがいします……、おねがいします……、おねがいします……」
ふいにあたたかなたいおんをかんじる。
きづいたとき、おとうさんがわたしをだきしめていた。
「私は……娘になんてことを言わせて……。私は父親失格だ……。すまない、すまなかった……! 麻陽、お父さんは麻陽のこと捨てたりしない。仕事なんてもうどうでも良い、付き合いなんてもうどうでも良い。これからはちゃんと、麻陽のお父さんになるからな……! たくさん一緒に遊びに行こう。一緒に緩やかな休日を過ごそう。昔みたいに、家族みんなで…………」
そんな……。
そんなこと、ほんとうはだめなのに……!
「うわああぁぁぁああん!! ごめんなさいお父さん!! ごめんなさいぃぃぃ!! うわああぁぁぁああぁぁあああぁ!!」
「謝るのはお父さんの方だ……! ごめんな麻陽……、お父さんが悪かった……ごめんなぁ……!!」
わたしのために生き方を変えようとしている家族に申し訳なくて、でも家族と一緒にいられることが嬉しくて、自分勝手な喜びに嫌悪して、安心して、苦しくて、本当に嬉しくて、わたしの情緒はぐちゃぐちゃになって。
わたしはお父さんに抱きしめられながら、大声で、長く長く、泣いていた。




