C's コーリング《04.弱虫なわたし 1/3》
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* @scene title 弱虫なわたし
* @specified day 2024/03/23
* @arranged time 17:15
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かつては商業都市として栄えた石美市。
鈴花が在籍している《石美学園大学》、通称《石学》の学生等、若者が闊歩している街と言えば活気があるかのように聞こえるが、しかし現在では、石美市を都市と呼ぶ者は多くない。
平日等で近場でなければならない場合を除けば、子連れや中高生を含めた多くの若者や学生たちがいざ遊びに行こうかという時には、電車で四十分程移動すれば着く大都市である長島市まで出ていくのが常である。
石美市には、ショッピングモールや話題の種になるようなニッチな物が置いてある専門店、今ドキのおしゃれなカフェなどは存在していないからだ。
そんな石美市の中でも、市街地とされるエリアの中央には在来線のみ通っている中規模駅である石美駅が位置しているが、その石美駅を東口から出た先、石美市東部は《新市街地》と呼ばれ、鈴花と麻陽が待ち合わせ場所に指定した駅前広場、中規模寄りだが小規模とも言える程度のショッピングセンター、レトロなレストランやカフェ、ビジネスホテルや、《ラウンズ》のような比較的新しいアミューズメント施設等が集まっている、石美市の経済の中心地である。
とはいえ、シャッターが降りたままになっている個人店や、放棄された廃ビル等も多く散見され、石美市による商業政策の失敗があからさまに露呈している。最近では駅前、しかも《新市街地》側という経済の要であるはずの場所にマンションが建築される等、長島市のベッドタウン化が著しい。
その《新市街地》から更に東に進めば石美港があり、内海が広がっている。
石美港は観光港であり、他県との連絡船もあれば、ある程度は国内クルーズも盛んである。盛んであったと言い換えても良いかもしれない。多少なりとも豪奢な暮らしを送る者が乗るような客船が停泊していることもあったらしい。
逆に石美市の中央西部、石美駅を西口から出たその先は《旧市街地》と呼ばれ、小中学校や市役所・国立病院等があり、落ち着いた雰囲気となっている。
鈴花の住むアパートや食事処《桜仙》、鈴花在籍の《石学》も、この《旧市街地》にある。
そしてこの《旧市街地》から更に西に進めば森林部となり、《岩紙山》がそびえている。石美市内で最も標高があるこの山の山頂は、《旧市街地》の中心からちょうど北西に位置している。この《岩紙山》を背にその一部を若干切り開く形で《石学》のキャンパスが広がっていることから、《石学》は《旧市街地》の北西端に位置しているといえる。
「そうなんですね。こういう《新市街地》とか《旧市街地》とか、雰囲気とかは、実際に住んでる人でないと中々知る機会が無いですし、鈴せんぱいもすっかり石美市の人ーって感じですね」
麻陽の希望で《旧市街地》をぐるっと見て回りながら石美市について色々と教えつつも、そろそろ彼女がチェックインしているビジネスホテルがある《新市街地》側の駅前広場へ戻ろうかという時。
夕日が反射して薄橙色に光る白い乗用車が車道を通り抜けていくのを見送った後、口を尖らせながらそっぽを向くと麻陽はそう言った。
鈴花は(普段ならこの道路の車通りは殆ど無いのに今日はやけに通るなぁ)、なんてぼんやり考えていたので、若干不機嫌そうな麻陽の態度に少しだけ驚いた。
「なーに拗ねてんの?」
鈴花は一歩二歩と少し前に出てから、そう言って麻陽の顔を覗き込む。
「そんなことないし」
そう返す麻陽だが、あからさまに不機嫌である。
顔を背けすぎてくるんと回ってから再び鈴花に向き直る。
「大学にここ地元の子がいて、よく話を聞いてるからさ。まだ住んで一年だけど割と詳しくなったでしょ。ホーム感あるよ正直」
鈴花が笑顔で言うと、麻陽はバツが悪そうに「そうじゃなくて……」と呟く。
数瞬の沈黙。
先ほどの白い乗用車が通り抜けた方とは反対の車線を黒い軽自動車が通り抜けて、そのエンジン音が徐々に小さくなっていく。
その音が完全に聞こえなくなると、少し先にある車道の信号が赤に変わる。
「麻陽――――」
鈴花が名前を呼んだ瞬間、横断歩道の信号が青に変わる。
それを契機に、麻陽は突然、横断歩道に向かって駆け出した。
「待って!」
咄嗟に鈴花は麻陽の手を掴む。
その衝撃で麻陽の体が引き戻され、バランスを崩す。麻陽が「わあっ」と驚くも、鈴花は肩を抱いて転倒を阻止した。
「ごめん……」
「…………」
鈴花が謝るとそのままの体勢で俯きながら沈黙してしまった。
暫くそうしていた後、不意にぎこちなく「…………ぁ、謝るのはわたしの方だから」と麻陽は小さく呟く。
鈴花にはそれがどういう意味なのかは分からなかったが、しかし、手を掴んででも引き止めたのには彼女なりの理由があった。
「麻陽、やっぱり今日はうちに泊まっていかない?」
鈴花の言葉に、麻陽は初見の手品の前で見せるようなキョトンとした顔で彼女を見ると、「なんで……?」と訊き返した。
「ストーカーの件、麻陽一人にするのはやっぱり不安だからさ。もしあの人が麻陽の泊まってるホテルを知っていたとしたら待ち伏せしているかもしれないし……」
自分が意図せず若干早口になっていることを嫌というほど自覚しながら鈴花は言う。迷惑だとかお節介だとか、そのような言葉が脳内をかけめぐる。
「ホテルのキャンセルでもし違約金とか出ちゃうなら私が出すからさ」
鈴花は今日の一件を経てずっと考えていた。
麻陽をこのまま一人にして本当に良いのだろうかと。
しっかりしている面はある。鈴花自身と比べても、日頃から麻陽の方が周囲を深く観察していることは一目瞭然であったし、当然鈴花もそれは理解していた。
ただ、それはそれとして、今回のストーカーは社会経験が豊富であろう大人なのだ。麻陽がいくら冴えていようと、やはりその差は大きいだろうと鈴花は考えた。
しかしながら鈴花の提案を聞いた麻陽は、複雑そうな表情を見せた。
(う、やっぱり私、キモかったかな……)
鈴花の脳内に今度は後悔の二文字がぐるぐると回り始める。
(何でもないただの提案のはずなのに、どうして私はこんなにも心配性で弱虫なんだろう……。今すぐ消えたい)
「とりあえず、離してもらっても……?」
(同性とはいえむしろこの体勢の方がキモいのでは……?)と思っていた鈴花は、腕の中の麻陽がそう言ったことで、(ひゃっ)と心の内だけで叫び、しかしクレバー&クールぶってなんとか顔に出さず、「あ、うん」と一言。
すぐにさっと迅速に麻陽をきちんと立たせてから、忍者のような俊敏さで数歩距離をとる。麻陽は俯きながら前髪を指でくるくると触っていた。
しばらくの沈黙。
その後、少し視線を上げると、手を下ろし、意を決したように鈴花の方を見て、しかしすぐに顔を背けながらぼそぼそと「……です……」と、語尾しか聞き取れないような小さな声で呟く。
「あー、あの、やっぱり迷惑だったかな」
煮えきらない返事にたまらず鈴花がそう言うと、麻陽は焦ったように鈴花に向かって声を上げた。
「行きたいです! 鈴せんぱいのお部屋!」
突然の大声に鈴花はびっくりして身じろぐ。
そして再びしばらくの沈黙。
「わかった、ぜひ来て。その方が私も安心だし」
(セキュリティはホテルの方が当然上だし、私の気持ちの問題というか、ストーカーはきっと私のアパートの場所までは知らないだろうというか……)などと、鈴花は浮かべた笑顔の裏で、本当にこれで正しかったのかと脳内で反芻していると、不意に麻陽が口を開く。
「鈴せんぱい、ごめんなさい! 意味わかんなかったですよね、急に酷い態度を取っちゃって……。わたし最低だ」
涙目の麻陽に対し、鈴花は一拍置いてから「そんな日もあるよ。私の方こそごめんね。もっと早く言うべきだった」と返す。そして頬を掻きながら「私って結構弱虫なんだよね」と苦笑い。
「さ、行こうか。ホテルの人には私も一緒に事情を話すから」
「い゛ぎま゛ずぅ゛ぅ゛…………!」
鈴花は、ついに口元をへの字に曲げて泣き出した麻陽の手を握る。
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『ごめんなさい、ごめんなさい…………』
目の前で幼い少女が泣いている。
それは弱々しい声だが、周囲に反響して実際の声量よりも大きく聞こえていた。もしも天気が良ければ声は外へ響いて、私たちがこのコンクリート遊具のトンネル内にいることを他者に示したことだろう。しかし幸か不幸か、その声は雨音にかき消され私たちの存在は隠匿されている。
二人だけの空間。二人だけの場所。
幼いながらも悲しみに塗り潰され謝罪に明け暮れる、この閉ざされた世界に存在する私以外のただ一人。
あの日の私は何を思い、彼女とどんなやり取りをしたのか。
考えて、考えて、謝りながら泣いている彼女に、その私は言葉をかけていた。
彼女を助けなければ、彼女を守らなければ。
その私による強い意志、激しい感情が、私の中に流れ込んでくる。
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既視感。
鈴花の頭の中に一瞬だけ再生されたその映像は、彼女の体に確かに刻まれていたものだ。
しかし、その既視感に違和感を覚えながらも、その感覚も一時のもの。鮮やかな現実と、黄昏に照らされた彼女の泣き顔に上書かれ、既視感も、それに対する違和感も、霞と消えてしまう。
(どうして放っておけないんだろう……)
自分の感情の源泉は一体何なのか、刹那の間、そのような疑問が脳裏をよぎるが、しかし今の自分にとってそれはどうでも良いことだ。沈みゆく夕日の中二人で歩きながら、鈴花はそのようなことを考えていた。
………
……
…
先程までの不機嫌さや涙はどこへやら、すっかり上機嫌となった麻陽であったが、彼女が取ってきた荷物が薄ピンクのリュックだけだったことに、ホテルのロビーで待っていた鈴花は流石に突っ込みを入れざるを得なかった。
「えっ、それで全部? 少なくない?」
「これ一泊分のお泊りセットです。ちょっとお願いをしようと思ってて、他の荷物は預かってもらうつもりなんです。ここのホテルってその、あれなんですよね」
麻陽は言葉を濁すが、このホテルが《碧海財閥》の関連企業のものであるということは鈴花にはすぐに理解できた。
「その、お金出すよ。私が提案したんだから」
「あー……えーっと、あの、大丈夫です。今回はちょっと特別で、わたしの懐は痛んでいないというか、出してもらうと逆にちょっと困っちゃうというか……。とにかく大丈夫なんで、気持ちだけで嬉しいので!」
少し焦りながら言う麻陽に押されて、鈴花は大人しく引き下がった。
引き下がることにはなったのだが、しかし本当に、家族からの仕送りがあるだけでなく時々バイトをしているというのもあり鈴花の懐は少し余裕があったのだ。
そびえ立つホテルを見上げ、入口に飾ってあった西洋の騎士的な鎧を見て、(ちょ、ちょっと高そうなホテルだなぁ)とは思ってはいた。
しかし決してびびったわけではない。
もちろん受付まで行って尋ねたり、携帯で調べたりすれば宿泊料はすぐに分かるのだが、鈴花は善意を勘定するのは良くないと考えて、あえてそれらをしないことにしたのだ。
当然、決してびびったわけではない。
鈴花がそのように自己暗示をかけている隣で、麻陽は広いロビーをぐるりと見回していた。
「あの、挨拶だけしておきたいので、一緒に来てもらえますか?」
言われるや否や、何やらわからないままに麻陽に連れられ、二人はすぐ近くのロビーラウンジへと歩みを進めた。
ロビーラウンジには一人がけのソファが向かい合うように置かれており、その間にはガラス素材だろうか透明で青みがかった小さなテーブルがある。そしてそれが何組も設置されている。
床はカーペットに使われるような柔らかい素材で、色合いは暖色系。デザインもペルシャ絨毯のようで、高級感溢れる仕上がりとなっており、これがロビーラウンジだけでなく、ホテルのロビーのほぼ全ての床面に設えられていた。
麻陽が先導して向かう先に鈴花が目を向けると、スーツ姿で四十代くらいのおおらかそうな男性と、目つきの鋭い白髭を蓄えた着物姿の高年の男性が、先述のテーブルを挟んで向かい合って座り談笑していた。
二人の表情は対照的で、どちらかと言えばおおらかそうな男性が真剣な顔つきで、目つきの鋭い高年男性の方が柔和な笑みを浮かべているように見える。逆の表情を当てはめた方が自然じゃないかと失礼にも鈴花は思った。
しかしそんな思考もすぐに吹き飛ぶことになった。
彼らの近くまで来た麻陽が全くの無遠慮に会話を遮ったことに一瞬でびびり散らかしたからだ。
「こんばんは!」
声をかけられたスーツ姿の男性は真剣そうな表情であったが、声の主である麻陽を見るなり屈託のない笑顔を見せた。
「あっ! こんばんは、麻陽ちゃん! 悪かったねぇ、遠くから来てもらって!」
「鈴せんぱい、こちら碧海辰巳叔父さん。お父さんの弟さんで、一応今回は保護者の代わりってことになってます」
麻陽はあえて名字をつけてそう紹介した。
「一応っていうか保護者のつもりで来てるんだけどねぇ僕は。あはは……」
紹介を受けて鈴花は「どうも」と小さく会釈をする。 言われてみるとたしかにどことなく麻陽父に顔のパーツが似ている気がする。
麻陽が「こちら友枝鈴花せんぱい」と言うと、辰巳は合点がいったと言わんばかりの顔で鈴花を見る。
「あぁ、君が件の友枝さんね。話はよく聞いているよ。いつも麻陽ちゃんと仲良くしてくれてありがとうね」
どのような話を聞いているのか気になったが、流石の鈴花も空気を読んで黙っておくことにする。
鈴花が「いえ」と短く言うと、辰巳は再び麻陽を見てお泊りセットに一度視線を向け、「ありゃ、お部屋使わなくなった感じかな?」と続けた。
「そうです。今日は鈴せんぱいのおうちにお泊りすることになりました。わざわざ取ってもらったのに、ごめんなさい」
鈴花は(なるほど)と思った。たしかに保護者代理が取ってくれたホテルの部屋を使わなくなるなら、当然挨拶は必要になる。
「まーなんとなくそんな予感はしていたんだ。だから大丈夫。部屋に残ってる荷物は僕が預かっておくから、お泊り楽しんでおいで」
「ありがとう、辰巳叔父さん!」
そう言って麻陽はホテルの部屋の鍵を辰巳に手渡した。
いくら親戚とはいえ自分であれば荷物を男性に預けることに若干抵抗があるが、麻陽自身に抵抗がないのか、抵抗が無くなるくらい家族としての関係値が高いのか、尋ねれば分かることではあるが今後尋ねることはなく永遠に分からないであろうその疑問に鈴花は悶々としていた。
そんな鈴花の手を、不意に麻陽が掴んだ。
そしてすぐに「では行きましょう、鈴せんぱい」と立ち去るそぶりを見せたので、普段からは考えられないこの強引さに驚いて「えっ? えっ?」とわけの分からぬまま鈴花がぐいぐい手を引かれていると。
「待たんかい。ワシにも挨拶して行かんか」
誰がどう聞いてもこの人物から発せられたのだと分かる力強いしゃがれ声。
鈴花はぎくりとし、麻陽は立ち止まる。
「こんばんはー、それではー」
「あー待て待て待て。そんなにツンケンされるとワシ泣いちゃうから」
麻陽は鈴花にちょいちょいと腕をつつかれてようやく、仕方ないなぁと言わんばかりのジト目で、声の主に向き直った。続いて鈴花も振り返る。
着物に両腕を突っ込むという、まるで某国民的大家族アニメに出てくる昭和の父のような振る舞いの高年男性。神坂と呼ばれたその男は、満足そうに麻陽を見る。
「そら裏返ったなワシの勝ち」
「勝負なんてしてませんから。鈴せんぱい、こちら神坂宗次郎といって、父の会社で付き合いのある人です」
「麻ちゃーん、ワシ結構昔から麻ちゃんのこと知っとるんじゃが。もうちょっと絆、感じてくれても良いんじゃないかの? のうのう?」
「麻ちゃんはやめてくださいと何度言ったら……。はぁ、鈴せんぱい、神坂さんはこういう人なんです。絡まれると面倒なんですよ」
麻陽は辟易とした表情で鈴花にそう言った。鈴花は苦笑いを返すしかなかった。
鈴花がこの空気をどうしたら良いかと思案していると、神坂が自分のことをまじまじと見ていることに気が付き、慌てて「ど、どうも」と一言だけ挨拶をする。
「何じゃ、普通じゃの」
がっかりしたような表情を見せた神坂に対し、いよいよもって自分はこの人たちから元々どう思われていたのだろうかと本気で探りを入れたくなった鈴花であったが。
「鈴せんぱい、行きましょう」
「う、うん。すみません、失礼します」
麻陽が不機嫌そうに鈴花の手を取り、そう言ったので、今度は素直にその場を離れることになった。 そそくさと自分の手を引きその場を離れていく麻陽。
「中止は無しということで良いんじゃな」
「えぇ、もちろんですとも」
大事な話し合いの途中だったのだろうか。
鈴花と麻陽がその場を離れて行くのを見るやいなや、すぐに会話を再開した男性二人であったが、背後から小さくも耳に届いてしまったその会話が、何故か嫌にねっとりと頭にこびりついていくのを鈴花は感じた。
………
……
…
ストーカーがホテルの場所を把握しており、隠れて見張られていた場合、ここから歩いて帰るとアパートまで付いてきてしまうかもしれない。
そう考えた鈴花は、最寄りのコンビニまではタクシーを使い、不審な車がついてきていないことを確認してから徒歩でアパートに向かうことを提案した。
「じゃあ行こうか。流石にタクシー代は私が持つからね」
「気にしなくていいのに。でもわかりました。よろしくお願いしますね」
お泊まりセットを背負った麻陽を改めて見て、鈴花はホテルと荷物とお泊まりセットの組み合わせになんとなく不思議さを感じながらも、ホテルから出てすぐ、石美駅のタクシー乗り場に向かった。
電車の乗客狙いかタクシーは数台停まっており、二人はすぐに乗り込むことができた。「どこまでですか?」と問う初老の男性ドライバーに対し、鈴花が「桜町大通りのセブンまで」と返し、タクシーは動き始める。
ストーカーらしき人物がいないか警戒していたということや、走行距離があまり長くないということもあり、それ以降、料金精算時まで全く会話は無かった。
タクシーから下車した後、二人はそのままコンビニに入店し、しばらくは不審な車がいないか、徒歩でそれらしい来客がないか警戒していた。
しかし特段そのようなこともなく、すぐに警戒を解除するに至り、その後二人は、そのままこのコンビニで晩ごはんを買うことにしたのだった。
「このナナチキと揚げ鶏っていうの、両方似たような見た目で値段も同じなんですけど、違い分かります?」
「いや、わかんない。両方食べたことあるけど、それでもわかんないや」
「お昼の『C定食』然り、今日は食べ物にまつわる謎が多いですね……」
口元に指を当てて神妙な顔つきでホットスナックコーナーのケースをじーっと見つめる麻陽を、女性店員がジト目で見ていることに気づき、鈴花はすすーっと少し距離を取った。
(明日の朝用にパンでも買っておこうかな)と、小さいカゴを手に取る。
鈴花がパンコーナーでどうしようかと少し考えた後、フレンチトーストを手に取りカゴに入れたところで、麻陽が携帯を片手にやって来た。
「検索したら公式で解説されてました! なんと部位と味付けが違うらしいです!」
嬉々として言う麻陽に、鈴花は(あれ味違ったんだ)と自分の味覚の信頼度を下げる結果に辟易しつつ。
「それはともかく、晩ごはんはもう決めたの?」
麻陽は未だ無糖のアイスティーのペットボトル1本だけしか持っていなかった。
「決めました! ナナチキと揚げ鶏にしますよ、わたしは」
「えぇ……? 私的には同じだよ、それ」
「違うって公式は言ってるんだから比べてみたいじゃないですかー! 知的好奇心ってやつですよ」
「まあいいけどさ」
そのような会話をしながら、鈴花はおにぎりコーナーでツナマヨのおにぎりを手に取りカゴに入れる。
「どっちかは朝用ですか?」
麻陽が鈴花の持つカゴを見て言った。
今日は昼食が遅かったことからそう思うことは想像に難くない。
「フレンチトーストが朝のつもり。麻陽は朝、大丈夫なの?」
「わたしは…………」
考え込む麻陽。そんなに考えることかなと鈴花は思う。
「わたしはいいです。…………明日、朝早いんですよね」
「そっか、予定あるんだったね」
「そうなんですよね」
苦笑いしながら言う麻陽。少しだけ申し訳無さがあるように見えた。
「大丈夫だよ、鍵を渡しておくから。もし私が寝てたらその鍵はポストに入れておいてもらえれば」
「あー…………、わかりました。そうしますね」
そのような会話の後。
麻陽は先に会計をするとのことで、鈴花は飲み物を買おうとペットボトル飲料のコーナーにやってきた。
ガラス扉付きの冷蔵ショーケースの中には当然のことながらお茶、ジュース、乳飲料など様々な飲み物が陳列されている。
今日は比較的暖かいので、冷たいお茶にしようと思い鈴花が目を向けると。
「うわー、また会った」
思わず声に出してしまう。
お茶のペットボトルのキャップにフィルム包装されたおまけのおもちゃが付いており、その最も手前のペットボトルにくっ付いて踏ん反り返っていたのが、ゲームセンターのクレーンゲームでついに取ることが出来なかったあのヒヨコ型モンスターのチャモであったからだ。
クレームゲーム景品をキーホルダーサイズまで縮小したような見た目そっくりな形をしており、素材も似通っている。
(これはもう運命かな)などと鈴花が考えていると、鈴花が見ている横から同じ場所を見ている若い男がいることに気づいた。
「わっ、ごめんなさい。どうぞ」
鈴花は先に飲料を取ってもらおうと、反射的にその場を飛び退く。
すると不思議なことに、その若い男は「お構いなく。お先にどうぞ」と爽やかな笑顔を返してきた。
男の顔立ちは整っており二枚目の優男といった印象で、いわゆるイケメンという部類のやつだろうと鈴花は冷静に分析した。
服装にはあまり関心がないのか無地でグレーのトレーナーに、味気のない黒い長ズボン。アクセサリーの類は見当たらない。背は高く、鈴花より頭一つと半分くらい大きい。髪は黒く短めだが髪質が柔らかいのだろうか、ふんわりとしている。
雰囲気をたとえるなら、大型犬ではなく大きな小型犬というような感じだ。
譲られること自体は悪くない気分だったので、鈴花はガラス扉を開けてチャモのついたお茶を手に取る。
「じゃ、僕はこれを」
鈴花が冷蔵ショーケースから離れてすぐ、男はガラス扉が閉まり切る前に手で押さえて止め開き、鈴花と同じお茶を手に取った。
「ごめんね。この子が欲しかったんだ」
男は鈴花に向き直り、手に取ったお茶のペットボトルを見せながらそう言った。
男の持つペットボトルには、四足歩行で頭のヒレが特徴的な、水色を基調としたモンスターであるミズゴロがおまけとしてついている。
モンスターではあるが可愛らしい見た目をしており、こちらもチャモ同様かなり人気があることを鈴花は知っていた。
「後ろに陳列されているのを取るのはなんだか忍びなくて、待っていたんだ。ありがとう」
鈴花が(この人は私が来なければ、他の誰かがお茶を手に取るまでずっと待ち続けたんだろうか。気になるなら店員さんに言えば良かったのでは……?)と疑問に思っていると、不意に男の後ろから女の声がある程度の声量で響いた。
「もーぉう! 枝森くん、そんなちんちくりんと話してないで、早くホテルに戻ろうよぉ!」
枝森と呼ばれたミズゴロ好きな男の後ろから、茶髪でウェーブのついたミドルヘアに濃い赤の口紅と気の強そうな吊り目が印象的な女が、ぬっと顔を覗かせると、彼の腕に自分の腕を絡めてまとわりついた。
口紅の女はボディラインの出る高そうな黒い肩出しワンピースを着こなし、これまた高そうな灰色のファーを肩にかけている。
「じゃ」
ちんちくりんと言われたことに若干眉をひそめながらその一言だけ言って、鈴花はレジへ向かう。そもそも見ず知らず人間と長話をするつもりなど毛頭ないのだ。
会計を済ませてコンビニから出るまで、鈴花が後ろを振り返ることは無かった。
自動ドアが開きコンビニから出ると、建物の角の方で両手にチキンを持ってもぐもぐしながら満遍の笑みを浮かべて「こっちです」と言わんばかりに手というかチキンというかをぶんぶん振ってきている麻陽が見えたので、鈴花は吹き出してしまった。同時に先ほどの若干の苛立ちも吹き飛んでいった。
鈴花がコンビニ入口から離れ、麻陽のいるところまでやってくると、彼女は興奮した様子で話し始めた。
「ほれ、じぇんじぇんひがいますよ! ふぁたしはナナヒキのふぉうがふぉのみですね。すずしぇんぱいもひります?」
「はは、飲み込んでから喋りなよ」
笑いながらも、鈴花は自らの味覚への信頼度を少し下方修正していた。(あまり味についてはでしゃばらない方が身のためかもしれない……)と鈴花は思う。
おいしいものを共有したくなるのは人間の性であると思っていたということもあり、少しだけショックだった。今後は誰かに共有する前に麻陽に意見を聞いてみることにしよう。
鈴花の静かな決意を知らずに、しばらくもぐもぐしていた麻陽が再び口を開く。鈴花は買ったお茶を開封し、口をつける。
「比べてみて初めてわかることもあるんですね。似たもの同士かと思ったらその実中身は全然違っていて……」
(人間関係と同じで、詳しく知ってから初めて見えてくる部分もあるってことだよね。ちょっと深いかも……?)
「実際、表面上は似てますから、誤解してしまうというか逆に難しいところもあって、だから当然、なんとなくで選ばれちゃうんです。こんなにもそれぞれ個性があるのに」
(やだなぁ、それ。私が昔から知ってる幼馴染と、私と仲の良い友人に対して、見た目が好みだからという理由でぽっと出の男がどちらにアプローチをかけようか悩んでるところを見てしまったら、怒ってしまうかもしれない。二人の何を知ってるのさ!って)
「まあ、わたしだったら両方おいしく食べちゃうんですけどね」
その言葉に、鈴花は飲んでいたお茶を吹き出しかけた。
「ゴホッ、だめだよそれは! ちゃんと選ばないと!」
「好きだったら良いじゃないですか、ペロリですよ」
「ねえ麻陽、ちょっとそういう表現は大きな声では、ね……」
「チキンの話ですよ?!」
そのような話をしつつ、行き交うヘッドライトを二人で見送りながら、鈴花も簡単に晩ごはんを済ませる。
鈴花の住むアパートはすぐ近くなので本当は帰ってから済ませるつもりだったのだが、もうそういう流れだった。
ふと鈴花がコンビニ入口の方を見ると、先ほどの枝森と呼ばれた男と失礼な口紅の女がちょうど出てくるところだった。
女はレジ袋を持っており、中にはアルコールの缶が何本か入っているように見える。対して枝森が買ったのはあのお茶だけだったようで、眼前に持ち上げて満足そうにおまけのミズゴロを見つめていた。
「あの人……」
何の気無しに見ていると、鈴花の視線を追ったのか隣で麻陽がそう呟いた。
「あれ、知り合いだった?」
「うーん、知ってるような知らないような。見たことがあるかもって顔でした」
「枝森っていうらしいよ。さっきちょっと話しかけられたんだ。ほら、私のと同じあのお茶を買おうとしてて」
「そうなんですか? でもわたし、枝森って名前には心当たり無いかもです」
「やっぱり知らない人だったんじゃない? 知り合いに雰囲気が似てたとか」
「あ、それは違くて」
鈴花は首を傾げながら麻陽の方を見る。
視線に気づいた麻陽は鈴花に向き直り、視線を合わせてこう言った。
「見たことある気がするの、女性の方ですから」
………
……
…
コンビニを出て少し歩いてから、大通りを一本それた先に鈴花が住むアパートは建っていた。
外壁はくすんだ橙色のレンガ風で、マンションと呼べるほどの規模感かと言われると微妙な見た目であるため基本的にアパートと評されているが、その実、鉄筋コンクリート造の四階建てであり防音性にも優れている。
夜間では分かりづらいが、外観に目立った破損は無く塗装も比較的均一に保たれていることから、メンテナンスが行き届いていることも伺えた。
二人はアパートの前まで来ると、入口の自動ドアを通り抜けた。
その先は狭いエントランスになっており、正面には各部屋の郵便受けが並んでいるのが見える。
鈴花は自身の部屋番号が記されている郵便受けを開けて中身を確認するが、しかし朝の時点で郵送DMやその他の郵送物は全て回収していたからか、中には何も入っていなかった。
郵便受けから左側の壁面には宅配ボックス用途の共用ロッカーが設置されているが、ここにも当然鈴花の荷物は置かれてはいない。
鈴花はチラと共用ロッカー側を見てから、それとは反対側の、建物の奥へと通じるスライドドアの方へ移動した。
「ここカードキーが必要になるんだけど、向こう側からなら自動で開くから」
鈴花が手荷物からカードキーを取り出し、スライドドアのすぐ横にある小さな端末にタッチすると、ピッと小さく音がしてドアが開く。ドアの先は左手に長い通路となっており、すぐ正面には階段があった。
その左隣にはエレベーターの扉があり、その更に左には一階の部屋が二部屋、その向かい側にも二部屋ある。この構造は四階まで同様となっていた。
荷物があることから二人はエレベーターに乗ったが、鈴花は「2」のボタンを押したのですぐ降りることになった。
エレベーターから出て部屋の方に歩くと、右手一番奥の203号室と書かれた扉の前で立ち止まる。ここが鈴花の部屋だった。
「おじゃま、しまーす」
鈴花が鍵を開けてから扉を開き中に入ると、律儀にそう言いながら麻陽も続く。
入ってすぐは土間で、続いて細い廊下となっており、右手にはトイレの扉と、その隣に洗面所と風呂場への入口があった。
向かい側には洗濯機と乾燥機、その奥には小さめの冷蔵庫と電子レンジ、それからコンパクトなシステムキッチンが備え付けられており、コンロはIHで直火での調理はできない仕様であることが窺える。
そして廊下の突き当りには木製の扉があった。曇りガラスを扉の上部下部にそれぞれ四枚ずつ嵌め込んだよくあるデザインの扉だ。
玄関の土間は狭く、平均的なサイズの靴を四足置いたら通り抜けるのに少し苦労する規模感だった。
鈴花が靴を脱いで備え付けの靴箱に入れると、麻陽もそれに習って隣に靴を入れる。その後、鈴花はスリッパを二足取り出すと一足を麻陽の足元に置いた。
「これ、お客さん用に買ったやつ。ほぼ新品だから良かったら使って」
麻陽が頷いてスリッパに足を通すのを確認してから、自身もスリッパを履いて、鈴花は彼女を先導して廊下突き当りの扉を開けた。
まず目に付くのは正面に見える設置式かつ小型の防音室だった。
今は防音扉が開いているのでゲーミングチェアや複数のディスプレイが置かれていることが外からでも分かる。普通のアパートに設置されているものではないので、それを見た麻陽は驚いた。
「防音室だ! これなら時間をあまり気にしなくても良いですね!」
「そうだね。これは父さんが大家さんに相談してくれて、そしたら置いてもらえたんだ。一人でも淋しくないように、通話でも賑やかに出来るようにって。その代わり、家賃は少し上がっちゃったんだけど」
「いいですね。……見たことがあるだけですけど優しそうなお父さんですよね」
「ん……。ま、そうだね」
身内が褒められたことで、なんとも言い難いこそばゆさを感じる。鈴花にとって家族は物心がついた時から父親だけだということもあり、それは尚更だった。
防音室は廊下から入ってきて正面、かつ部屋の左の壁に接合されており、中は三畳よりは狭く完全に一人用の空間となっていた。
部屋自体は防音室の分だけ狭くなってはいるが、空間的には余裕があり、中央に多用途の正方形のこたつ机と座椅子、更に右の壁面に接するようにシングルベッドが置かれている。
さらに部屋の中央奥にはベランダに出ることのできる掃き出しがあり、その壁面と防音室に挟まれるように中型の棚が設置されている。この棚には参考書や専門書、漫画等が雑多に収納されていることから、鈴花の『大学生感』がそこに集約されているのがわかる。
また、シングルベッドの頭側には鏡のついた大きめの衣装棚が設置されている。鈴花は基本的に衣類やタオルをそこに収納しているのだが、しかし利便性から特定の衣類だけはベッドの下に付いている引き出しに収納していた。
そことは反対のベッドの足側には、小型の棚と、その上に乗る程度に小型の液晶テレビが置かれている。
防音室含め、これだけ家具が置かれていても手狭さはほとんど無く、一人暮らしをする部屋にしては多少広さがあるという、そんな部屋だった。
グッズの類は置いていないのかというとそういうわけではなく、テレビの横にアクリル製の透明な小物入れが置かれており、鈴花はこれをグッズのディスプレイとして活用している。
中には《*いかりんぐ*》の名前の由来となったゲームのプレイヤーキャラクターである、イカをモチーフにした女の子の人形が飾られていた。
鈴花はこの小物入れの蓋を開くと、お茶のおまけとして付いてきたキーホルダーサイズのチャモを入れ、その人形の隣に飾る。
「チャモ、わたしも買えば良かったなぁ」
「これはコチャモね」
「あ、もう名前付いてるんだ……」
「うん、サイズ感ぴったりでしょ」
「言いたいことはわかりますよ、えぇ」
その後、二人は荷物等を置いてしばらく談笑してから、それぞれシャワーを浴びて、いつでも寝られる状態に移行した。
白を基調としたもこもこのパジャマを着てもこもこ生物と化した麻陽に対して、鈴花は普段からジャージが寝巻き代わりである。
麻陽がパジャマを持ってきていたことに、鈴花は彼女が背負っていたおでかけセットを見た時と同様に若干の違和感を抱いたのだが、しかし些細なことだったので言わないことにした。
それから、麻陽のもこもこを触らせてもらって、鈴花も似たようなパジャマが欲しいなと少しだけ思ったり、鈴花が付けたマスコットキャラのような小動物的なミニキャラが装飾されているヘアピンを見た麻陽が、可愛い可愛いを連呼したりするといった一幕を経て、ベッドは明日予定があるらしい麻陽に使ってもらい、鈴花は防音室に置かれているゲーミングチェアで寝ることが決まった。
その際に鈴花は、ゲーミングチェアにリクライニング機能があることを伝え、実際に動かして見せ、普段からここで寝ることもあるから問題ないと念を押すとなどあらゆる努力をして、客人の立場で申し訳ない思いがあると言う麻陽によって提出された、一緒のベッドで体を寄せ合って寝るという案をついに廃案としたのだった。
そしてそのまま消灯し早めの就寝となった。
明かりの消えた部屋、防音室の中、ゲーミングチェアを背に鈴花は今日あったことを思い返す。
久々に再開した麻陽は高校時代の記憶のままだった。
懐かしい空気感、澄んだ青空、二人で遊んだ様々なアーケードゲーム。
そんな二人にストーカーが影を落とすが、しかし麻陽は強く、降りかかった火の粉を自らの力で払い除けてみせた。
ストーカーの話をされた時に感じた不安と恐怖を鈴花は思い出す。
自分の立っている場所が、安全な平地ではなく、実際は今にも崩れそうな崖の際であったことを知ったかのような、普段であれば目に見えていない安心の基盤を認識して、それが急に無くなったかのような、そんな感覚。今思い出してもぞっとする。
あの時、麻陽とは同じ気持ちを共有していただろうか。
多分違う。あの時、鈴花はそれに気づいていた。確かに不安はあったかもしれないが、きっとその方向は自分とは決定的に違う。自分は弱虫であり、麻陽には勇気があるのだ。
鈴花の中でモヤモヤが渦巻き、再びストーカーの恐怖に飲まれかけた時。
「鈴せんぱい、起きてますか?」
不意にベッドの方から麻陽の声がした。防音扉は開けたままだ。
「起きてるよ」
「このままで良いので、少しだけお話ししませんか?」
麻陽の問いに、鈴花は「いいよ」と返す。
鈴花にとって、この提案は願ったり叶ったりだった。
「なんだか不思議だなーって思うんですよね」
「不思議?」
「思い出しませんか? 高校時代、まだ鈴せんぱいが学校にいた頃のこと。あの頃は毎日が楽しかったなぁ」
鈴花は高校時代に帰宅部であったが、基本的に物怖じしない麻陽に引っ張られては様々な場所に赴いた。
それまで何となく他人との関わりを避けてきた鈴花は、麻陽と出会い一緒にいることで社会性を学び、共通の友人ができるまでになった。麻陽のおかげで鈴花は、人とのコミュニケーションを完全に放棄せずに済んだのだ。当然ながら人と関わることでトラブルも起こり、大変なことも当然あったが、鈴花には二人が笑顔で過ごしていた記憶が多く残っている。
もちろんできる限り外に出たくないのは昔から変わらない。楽しくなかったのかと問われても、麻陽同様、胸を張って楽しかったと言える。それは間違いない。
しかし鈴花には、楽しかったかどうかより、麻陽のこの言葉のニュアンスが気になった。
「そうだね、楽しかったよ。…………ねぇ、私がいなくなった後は楽しくなかった?」
鈴花の言葉に、少しだけ間が開く。
「……鈴せんぱいが同級生だったら良かったのにって思ってました。わたしにとってあの二年間はかけがえのない宝物なんです。他の全てが霞むくらいに、わたしにとっては…………」
「ちょっと、照れるからやめてよ。そりゃ光栄だけどさ」
言いながら鈴花は無意識に頭を掻いていた。
これは動揺した際に彼女がよくやる癖であった。
「…………鈴せんぱい、今頭触ってましたね。ふふ、可愛い」
「は、はー? そんなことしてないしー」
長く一緒にいた麻陽にはこの通りお見通しである。
「ネットではいつも話してましたけど、今日久々に鈴せんぱいに会って、色々あって、こうしてお泊まりまでして。不思議。なんだかあの頃に戻ったみたい」
そう言って嬉しそうにくすくす笑う麻陽。彼女と話していると、鈴花の中のストーカーへの恐怖と不安が少しずつ和らいでくる。
「…………思い出せますか? わたしと鈴……せんぱいが初めて会った時のこと」
麻陽の言葉に、鈴花は当時の情景を思い起こす。
桜舞う川沿いの通学路。人付き合いを避け俯きながらの帰宅の路。ふわり風と共に両頬に感じた手のひらの暖かさ。少し下から鈴花を見上げるその微笑み。日光により金に輝く髪がしなる。その姿は、まるで天使のようだと鈴花は思った。彼女は鈴花の目を見て、そして口を開く――――。
「初対面であれが出来るんだから、麻陽は勇気があるよね」
「…………あー、忘れてくださいよ! あの時はどうかしてたんですぅ……」
「さっきの仕返し。脳裏に焼き付いて忘れられないよ、あの麻陽は」
鈴花の言葉に、しばらくの沈黙が訪れる。
さすがにからかいが過ぎたかなと反省することになったが、その反省の中、気づけばストーカーへの恐怖を微塵も感じなくなっていることに鈴花は気づいた。これであればしっかりと睡眠をとることが出来そうだった。
「麻陽、ありがとね。麻陽が話してくれたおかげで元気出たよ」
「急にどうしたんですか? 結婚ですか?」
沈黙していた麻陽だったが、鈴花の感謝の言葉にはすぐに軽口で応じてきた。
「たわけ。あーもー、褒めたらすーぐこれだよ」
「あちゃぁ、流れでいけると思ったのに」
「こらこら……」
この時、鈴花は自分の中で麻陽の存在がとても大きいものであることを自覚するに至った。
(私の不安感に気づいて、それを解消するために話をしてくれてたっていうのは流石に買い被り過ぎかな? でも麻陽ならそうだったとしてもおかしくないかもなぁ)
友人なら何人かいる。しかし麻陽のような関係の友人は他にはいない。先輩と後輩の関係ではある。彼女はどうしてか放っておけない後輩だ。しかしそれ以上に、この関係を言葉にするなら、『親友』が適切であると鈴花は思った。
(……麻陽があの二年間を宝物と言うなら、それは私にとってもそうかもしれない)
麻陽が言うように、当時の日々は鈴花にとっても宝物だ。
これから先の人生においても心の支えになるだろうし、こんなに可愛らしくて勇気があって、自分を好いてくれている人が側にいる、それがどんなに幸福なことか。大切にしていきたいと、鈴花は改めてそう思う。
それからは他愛のない話をしていた。ほどなくしてどちらからか会話が途切れ、その後は静寂が訪れる。
疲労感、安心感、充足感といった様々な感覚が二人を飲み込み、彼女らの意識がまどろみへと沈むまで、さほど時間は要さなかった。




