C's コーリング《03.Cの邂逅》
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* @scene title Cの邂逅
* @specified day 2024/03/23
* @arranged time 11:45
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ガンシューティングを進めながら麻陽が話した内容は以下の通りだった。
駅前広場あたりからずっと付きまとわれていること。こちらが気づいていることがばれてしまうから今すぐに確認してはならないが、付きまとっている者は、青い上着に白いシャツ、黒い長ズボンで、深く帽子をかぶり、短髪黒髪で、サングラスとマスクで顔を隠した中肉中背で、少し腹の出た中年男性だということ。自分に見つかっているということは、このようなことに手慣れていない素人であるということ。
「その……Cさんに付きまとわれている原因として思い当たることはある?」
「そうですね……。十中八九、わたしの家庭が原因だと思います」
それを聞き、鈴花は(なるほど)と納得する。
麻陽の両親である碧海夫妻が有力な実業家であることはもちろん、碧海家自体も代々一族経営で数々の成功を収めてきたことから、過去には《碧海財閥》などと呼ばれていたことは、このあたりの地方で経営業に傾倒している者か、麻陽と仲の良い者であれば周知の事実であった。
「わたし自身には何の力も無いんですけどね……」
自嘲気味に話す麻陽の言う通り、彼女は《碧海財閥》の令嬢ではあるが、碧海家代々の事業継承における通例から跡継ぎは兄の役目とされている、ということは以前から何度も鈴花の前で彼女自身が語っていたことだ。当然ながら彼女は兄と違い経営に関する特別な教育などを受けておらず、高校時代の麻陽を近くで見ていた鈴花が信じて疑わない程度には普通の暮らしを送っていた。
「こういうことは珍しいんですけど…………」
麻陽自身が経営の場に顔を出すことは無いため、《碧海財閥》を知っている者は多くとも、麻陽を見てすぐに《碧海財閥》の令嬢であると分かるのは、麻陽自身と仲の良い者か、碧海夫妻と懇意にしている経営者やその関係者くらいである。
鈴花は改めて麻陽を見る。銃型のコントローラーを両手持ちし、ガンシューティングをプレイしながら淡々と話しているその声色や態度とは裏腹に、麻陽の構えるコントローラーには若干の震えがあった。
その震えは明らかに恐怖から来るものであったが、しかしその恐怖は付きまといから来ているものではないことに鈴花は気づく。
しばらく前から様子がおかしかったこと、この話を始めてから麻陽が鈴花の顔を見ないこと、これは彼女に近しい人間のみ分かることではあるが、無理をしてゲームに集中している風を装っているというのがその証拠だ。
「鈴せんぱい、今日はもう……」
「麻陽、私は大丈夫だからね。こんなの全然怖くないよ」
鈴花は嘘をついた。
当然のごとく鈴花は現状に恐怖を感じている。捕まったら何をされるか分からないし、正直に言うと今すぐにでも家に帰って引きこもりたかった。しかし、(年上の自分が怖がってどうする!)と、鈴花は自身を奮い立たせる。
「麻陽のことだから、今からどうするかはもう考えてあるんでしょ?」
「…………でも嫌じゃないですか? せっかく遊びに来たのに付きまといの対策に時間を使うなんて……。わたしのことは気にせずに、今日は解散ということにしても……」
ゲームを進める手が止まる。ゾンビたちに攻撃されて、画面上に表示されている体力ゲージがみるみるうちに減少していく。麻陽はここでようやく鈴花に向き直った。
「解散なんてするわけないじゃん。こんな面白そうなこと、私を除け者にするなんていい度胸してるよね」
「…………そんなこと言うなら甘えちゃいますよ。いいんですか?」
不安と期待の入り混じった表情。既に鈴花の心は決まっていた。
「聞かせてよ。麻陽の考えたその対策ってやつを」
………
……
…
その日、津鳴木惟男は全くといっていいほど運がなかった。
新台目当てで早朝からパチンコに赴くも惨敗で、店舗を出てしばらく歩くと吐き捨てられたガムを踏み抜き、靴からガムを剥がし終わるとスマートフォンを無くしていることに気づき、そのせいで店舗に舞い戻る羽目になり、しかし親切な誰かがスタッフに届け出てくれていたので受け取り安堵するも、店舗を出てすぐに何故かめちゃくちゃに激昂しているカラスに襲われた。
生活費として財布に入れていた現金もほとんど溶かしてしまったので、帰宅すれば妻に罵倒されることは確定しているし、大抵は子どもがその場にいても構わずに罵倒されるので、思春期の娘も最近は自分に対して非常に攻撃的になってしまった。
津鳴木は「はぁ……」とため息をつくが、自分が悪いとは全く思っていなかった。
(これはただ運が悪いだけ。俺は親である前に一人の人間だ。やりたいことは自由にやるし、自分が稼いだ金銭は自分が使いたいように使う。それの一体何が悪いのだ)
ムシャクシャしながらも、しかし財布の中身は非常に心もとない。自分が悪いとは思っていなくとも、罵倒されたくはないし、生活費が残っているに越したことはなかった。
津鳴木は駅前広場のベンチに腰掛けて、今日の言い訳を考えていた。言い訳を考えつく前に妻や娘にばったり会ってしまうと困るので、このような時のために帽子を深くかぶり、事前に用意しておいたサングラスと大きなマスクをつけている。
ぱっと見、不審な男という風貌であったが、過去に感染症の大流行があってからは、今の津鳴木のような格好をしている人間は珍しくなくなっていた。
人相を隠し、財布の中身をどうするかの計画を立てていたからだろうか。職場でゴルフの接待に付き添った際に、《碧海財閥》の社長が『携帯の待ち受け画像に設定していた家族写真』に映っていたその少女が眼前に現れたことで、彼の脳内は真っ黒い感情に支配された。
(碧海の娘はたんまりと小遣いを貰っているに決まってる。生意気な娘の多すぎる小遣いは取り上げてやらねぇとなぁ……。教育も出来て俺の生活費も戻って来る。一石二鳥じゃねぇか)
碧海の娘が友人と思しき女と合流し、目的地への移動を開始したその後ろを、津鳴木は距離を取りながらゆっくりと歩いていく。
しばらく歩いて辿り着いた二人の目的地が《ラウンズ》のゲームセンターであったことに、津鳴木は少しだけ驚いた。津鳴木の中には、普段から高価な雑貨やアクセサリーなどのショッピングに出向いているという勝手なイメージがあり、今回も当然そうであろうという思い込みがあったからだ。
(碧海の娘もまだガキってことか)
《ラウンズ》の内部では、人々の声やゲームの音などで碧海の娘たちの会話は全く聞こえてこなかった。津鳴木自身、騒音についてはパチンコの店内で慣れているとはいえ、声が聞こえないということは少し目を離した隙に見失ってしまうということでもある。そのため彼は、店内ではある程度二人の近くまで接近していた。
ゲームを楽しむ碧海の娘たちに対し若干苛つきながらしばらく観察していると、二人はエスカレーターを使って二階に移動を始めた。津鳴木が一分程度の時間を置いてから後を追い、同様にエスカレーターで二階に辿り着くと、二人はエスカレーターから少し歩いたところで立ち止まり、どこに行こうか迷っているようだった。
津鳴木は咄嗟にゲーム筐体の前に移動し、遊んでいるように見せかけながらも二人をちらちらと視界に入れ続ける。しばらく迷っていたようであったが、結果的に二人はその場の近くにあった古いガンシューティングゲーム筐体の布の幕に覆われたエリアに入っていった。
津鳴木は気怠そうにその様子を見届けてから、近くにあったベンチに座りつつ、これからどのようにして碧海の娘を脅すかを考え始める。
(脅す? いやいや、脅すんじゃない、これは教育じゃないか。碧海の娘が一人になったタイミングで正面から脅迫して財布を取り上げるだけだわな)
津鳴木が舌打ちと貧乏揺すりを繰り返しながら、二人の入っていった布の幕に覆われたエリアをしばらく観察していると、数分程度後に、ゲームを終えたのであろう二人がようやく姿を表した。
その姿を目線で追いかけながら、数秒の後に少し離れた位置から再び追跡を開始する。
二人はエスカレーターで更に上の階に登っていく。五階まで辿り着いたところで、ようやく津鳴木は二人がその階から入場できる運動スペースに向かっていることに気付く。
いい加減一人にならないものかと考えていた、彼のマスクの内側にある口元が邪悪に歪む。
運動をして代謝が良くなれば飲み物を買いに行ったり、トイレに行ったりして単独で行動する可能性が上がるし、疲労していれば脅迫のタイミングで抵抗する力も弱まる。仮に逃げ出したとしても疲れで追いつくことも容易になる。
二人が入場手続きをしてゲートをくぐり、屋上にある屋外の運動スペースへと進んでいった後、少し時間を置いてから津鳴木も入場の手続きをする。有料ではあったがたいした額ではない。
手続きを終え、二人を追って彼もゲートをくぐり、屋上に向かう。
津鳴木が屋上に出ると、数人の若者たちがミニコートで簡易的なサッカーやバスケットボールをして体を動かしていた。(碧海の娘は……)と津鳴木が二人の姿を探すと、彼女たちは他の若者たちがスポーツをしているところを見ながら、おそらくは自分たちは何をしようかと吟味しているところのようだった。
津鳴木は中肉中背の中年であり、最近はあまり運動をしていない。そして現在は特段、体を動かす趣味もない。接待のためにゴルフに付き合ったりすることはあるが、それはあくまで仕事だからであって、中年となった今では、自ら体を動かして遊びたいと思うような人間ではなかった。
彼は周囲を見渡してから、近くにあった休憩用のベンチに腰掛ける。碧海の娘らが運動で疲労するのを、彼は気長に待つことにしたのだった。
しばらくの後。
コートが空くのを待っているように見えるが、いい加減に運動を始めない碧海の娘たちをしばらく観察していた津鳴木であったが、どうにも居心地の悪さを感じていた。
(見られている…………?)
先程から若者たちからチラチラと視線を受けていることに津鳴木は気づく。
疑問に感じて、周囲をぐるりと見回すと、彼はすぐにその原因に思い至った。
ここまでの道中やゲームセンターの内部であれば、感染症対策などを理由としてか、サングラスとマスクの組み合わせでなくとも、顔を覆い隠すような津鳴木と近しい風貌の者はちらほらと散見されていた。しかし。
ここには、体を動かし汗をかき体力を使って遊びたい若者が集まっているのである。
この運動スペースには、サングラスとマスクで顔を隠している者など、津鳴木の他には誰もいないのだ。
そして入場料のかかるこの運動スペースにわざわざ入り、何をするでもなくベンチに腰掛け周囲を見ている中年男性というのは、若者たちからすると、この場においては不審極まりない、不可思議な存在であった。
視線、視線、視線、視線、視線。
不思議そうな視線、訝しさを含んだ視線、侮蔑を含んだ視線。
「はぁっ、はぁっ」
津鳴木は自らの呼吸が少しずつ荒くなってきているのを自覚する。周りからの視線の全てが自分の行いを見透かしているように感じる。
「はは……ははは……」
居ても立っても居られなくなった津鳴木はベンチから立ち上がると、そそくさとその場を移動する。
そしてそのまま挙動不審な動きで周囲を見渡して見つけた、この屋外の運動スペースで唯一空いている一人用コンテンツであるストラックアウト――いわゆる的当てゲーム――のエリアに吸い込まれるように入っていく。
「ひ、久しぶりだなぁ、こうやって投げるのも」
上ずった声でそんなひとりごとを言いながら、津鳴木はエリア内に転がっていたボールを手に取ると、前方のパネルに向かって投げ始める。
草野球の経験があるためか、素人ながらもピッチングフォームはきちんとしている。しかしサングラスとマスクで視界が悪いことと、元来あまり投球コントロールが良くないことから、ボールが当たったら消えるはずのパネル上の光源は一向に数を減らすことはない。
(今だけだったら別にいいか……。とにかく不自然さを拭わないと…………)
津鳴木はおもむろにサングラスとマスクを外して、手荷物のカバンにしまい込む。
ストラックアウトのエリアはこの屋外の運動スペースの最奥にある。もしも碧海の娘たちが通りかかったとしても、この位置取りであれば後ろ姿しか見られることはない。このエリアに隣接しているバッティングゲームをプレイしている利用客からは顔を見られる可能性はあるが、彼女らの風貌から考えても二人がこのゲームをやるイメージは全く沸かなかった。
もちろん監視カメラに顔が映ってしまう可能性もあったが、監視カメラは基本的には人の手が届かない高所に設置されているものである。帽子を深く被っているだけでも、高所からの撮影であれば顔の判別は難しいだろうと津鳴木は考えた。
それに何も、今日財布を取り上げることに固執する必要はない。今日は足取りを確認するだけにして、後日改めて脅迫してやれば良い。何球か投げたらこのエリアから出て、休憩するふりをしながら運動スペースの入口で待ち構えていよう。
そのように、この状況から逃げたい余りに思考が支離滅裂になっていることにも気づかず、何球かボールを投げ続け、息が上がり、少し肩が痛くなってきた頃。
「お久しぶりですー!!」
追い打ちをかけるかのように背後から声をかけられた。
「へあっ!?」
思わず振り返ってしまい、津鳴木はギョッとする。
振り返った先、ストラックアウトエリアの入口で、碧海の娘が津鳴木に向かって笑顔で手を振っていた。
「ど、どなたで――」
「たしか父のお知り合いの方ですよね――!」
「あ、あー! 碧海さんのところの、あー!」
かぶせるように碧海の娘が捲し立てたことで会話のテンポが早くなり、自らの口で碧海と自分に接点があるのだと正直に本人に伝えてしまったことに、津鳴木は後から気づいた。周囲からの視線に過敏になっている津鳴木は咄嗟に嘘をつくことが出来なかったのだ。
それ以上に、何故? 何故? 何故? 何故?と、津鳴木の脳内は疑問符でいっぱいになっていた。
どうして声をかけられた? 顔を見られていた? 何かヘマをしたか? 次いで様々な疑問や疑念が脳内を覆っていく。
(いや、冷静になれ、落ち着け……動揺を悟らせるな…………)
「やっぱりそうですよね! 間違っていたらどうしようかなって思ってたので安心しました!」
「ぐ、偶然ですねぇ。今日はお一人で?」
当然ながら津鳴木は碧海の娘が友人らしき女性と共に来ていることを知っていたが、周囲や本人に不信感を与えないようにするために、冷や汗をかきながらもそう質問する。
「今日はお友達と来てます。すぐそこで待ってもらっています」
「はぁーそうですかぁ。お嬢さんのような方でも、お友達とこういったところに来るんですねぇ」
「その、ごめんなさい。間違っていたら申し訳ないので、お名前、お伺いしてもいいですか?」
その問いを受け、津鳴木は碧海の娘が自分の名前を正確には記憶していないであろうことに思い至る。まだ何もしていないが、念の為、本名は伏せておいたほうが良いのではないか、と彼は考える。
「父から常々『偶然を味方につけて、縁を逃すな』と言い聞かせられておりまして、ビジネス上のお付き合いがある方を見かけたのなら、声をかけて、ご挨拶をして、嘘ではないと証明するためにも一緒に写真を撮らせて頂いて、きちんと報告しないと、わたし父に怒られちゃうんですよ…………」
付き合わせてしまって申し訳ないのですが……と碧海の娘は付け足す。それを聞いて、津鳴木は心中で歯噛みする。写真付きで報告されてしまうのならば、偽名を使ってもじきに本名に辿り着かれてしまうし、その際にはどうして偽名を使ったのか追及されてしまうのは必至だ。
そもそも写真を撮って報告する必要があるということ自体、謎のしきたりではあったが、あの《碧海財閥》の碧海一族の教育であれば、娘の言うこと全てを真に受けるのではなく『常に証跡を用いて具体的に説明せよ』といった指導をしていてもおかしくはない。頭のおかしい異常な教育方法に津鳴木は身震いする。
「…………碧海さんのところには私程度じゃあ理解が難しい不思議なしきたりがあるんですねぇ。めんどく――――いや、大変でしょうに。あ、あのぉ、私黙っておきましょうか? ここで出会わなかったということにすれば報告しなくても良いんじゃないでしょうかね。お父上も少し、心配性というか、ねぇ。もっと娘のことを信用しても良いんじゃないでしょうかねぇ。へへ――――」
「何か黙っていないといけない理由があるのでしょうか」
「へ――?」
津鳴木は一瞬、自分の耳を疑った。
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。
「あとは御社と、あなたのお名前を聞くだけなんですが」
そう言って碧海の娘は隣接しているバッティングゲームのエリア側に手を向ける。
(嘘だろ…………)
津鳴木がゆっくりとぎこちなく首を動かし、そちら側を見ると、真隣のエリアにはいつの間にか碧海の娘の友人である女性が佇んでいた。スマートフォンを片手にこちらを見ている。
そして津鳴木と目が合うと、「どうも」と短く会釈をする。
(写真、もう撮られて……?)
津鳴木は碧海の娘を再び見る。
そして津鳴木はようやく思い至った。
自分の悪意が完璧に見透かされている。
そんなわけはないと津鳴木は心中で何度も否定する。
しかし決定的に、今の状況、そしてこの構図がそれを裏付けているのだ。
碧海の娘は出入り口を塞ぐように立ち、悪気なさげにニコニコしている。
碧海の娘の友人は片手にスマートフォンを持ち、画面に指を添えながらこちらを見ている。
奥のバッティングゲームエリアでは屈強な若い男たちが速球を打ち返している。
出入り口を越えても、外のミニコートには活力と正義感に溢れた若者が多数。
(これは……まるで俺は、餌に釣られて罠に追い込まれた鼠じゃねぇか…………)
その構図は、誰がどう見ても悪意が潰されることが明白な、詰みの状態であった。
(何なんだ……何なんだよ、これはぁ…………!!)
この構図、この状況からは、自らの身分を開示する他に道は無い。
こうして津鳴木は、自分の勤めている会社と自らの名前を碧海の娘に伝えるに至ったのだった。
………
……
…
「それで実際のところ、全て計画通りに進んだってこと?」
「まさか。ほとんど偶然というか、津鳴木さんの自爆というか……」
鈴花と麻陽の二人は《ラウンズ》を離れ、バスに乗った後、鈴花の暮らしているアパートの近所にある食事処《桜仙》にやってきていた。
《桜仙》は、老夫婦が二人で切り盛りしている食事処だ。料理は専ら老夫が行い、老婦が接客・配膳・会計を担当している。暖簾をくぐると店内は手狭で、テーブル四つが四方に配置されており、入口から見て右奥のテーブルには、現在、女性客が一人。その手前にあるテーブルは鈴花と麻陽が使用している。部屋の最奥には厨房へとつながる通路があり、その手前に会計用のレジがある。
「ところでこれ、すごいですね。全部で何種類くらいあるんだろう……」
《桜仙》店内の壁には、ありとあらゆるところにメニューが書かれた紙が貼り付けられており、初めて来店した麻陽はその物量に圧倒されていた。
「百種類はあるんじゃないかな。どれでも普通に注文できるみたいだよ」
「ふわーっ、歴史を感じると同時に迷っちゃう自分がいます」
「でしょ。ゆっくり選んでいいからね」
「鈴せんぱいはもう決めたんですか?」
「うん、決めてるよ。いつものやつ。私も最初は迷ってたけど、今は大体『C定食』にしてるんだよね」
「『C定食』……どこだろう……」
麻陽は首を大きく振りながら『C定食』の文字を探すが、中々見つけることが出来ないので早々に諦めた。
「『C定食』ってどんな定食なんですか?」
「茄子と豚肉の味噌炒めがメインの定食だよ。サラダも付いてる」
「わたしもそれにしようかなぁ。ちなみに『A定食』と『B定食』はどんな内容なんですか?」
「ないよ」
「はい? 今日はもうやってないとか、売り切れてるとか、そういうこと?」
「いや、存在してないって意味で」
「うそ……。『A定食』と『B定食』が無くて、飛んで『C定食』だけ存在してるなんてことあるんだ……」
麻陽が「どうして『C定食』なんでしょう……謎が深まりますね」などとぶつぶつ呟いている間に、老婦が二人分のお冷を持ってやってくる。
「ご注文はお決まりになりましたか?」
「麻陽、決められそう?」
「あ、鈴せんぱいと同じでいいですよ」
「じゃあ『C定食』二つで」
「はぁい、『C定食』二つね」
老婦は紙の伝票にメモを取ると、厨房の方へと歩いていく。
「さっきの『津鳴木』だっけ?の話、そろそろちゃんと話を聞きたいんだけど」
鈴花は少し身を乗り出しながら、老婦の歩いていく姿を目で追っていた麻陽に対してそう言った。
麻陽は「あれ?」と不思議そうな顔をすると、自分のこめかみに左手の人差し指を当ててから目を閉じ、あからさまに思い出そうとする仕草をしてから、すぐに目を開いて、立てた人差し指そのままにスナップを効かせて左手を前に倒した。
「…………言われてみれば! あの時は時間がなくて鈴せんぱいには大まかにしか話してなかったんでした」
「そうだよ。色々聞きたいこともあってさ」
鈴花は口元に手を添えて少し考えてから、「まずは」と一つ目の問いを投げかける。
「麻陽はどうして件の『津鳴木』が、金銭狙いであることを断定できたの? 相手が素人であることとか、未遂だけど単独犯であることはしばらく観察してれば分かったかもしれないけど、変質者……いわゆる性的な異常者だったり、通り魔的な無差別に犯罪を楽しむような異常者だったりという可能性もあったと思うんだけど」
麻陽は答えを用意していたかのように考える間も置かずに、「それはですね」と回答する。
「もしも狙いが性的なものであったとするなら、ちょっと……言うのは憚られるんですが、身体的に兆候が見られたはずです。その……そういった直接的なモノでなくても、紅潮していたり、耳が赤くなっていたり、息が荒くなっていたりということも有り得ましたが、最終局面以外で、彼にはそういったものが見られませんでした」
鈴花が「なんかごめん」と謝ると、麻陽は笑って「大丈夫ですよ」と返す。
「それから、通り魔や無差別の犯罪者だったとするなら、駅からの道中に襲われていたはずです。その時はまだ後をつけられているという確証はありませんでしたが、警戒はしていました。でも、相手の体格から足はそう早くないことが分かっていましたし、距離感的にもそういったそぶりが見えてから走って逃げても全く問題ないレベルでした。今日はせっかく鈴せんぱいとお出かけしてるんだから、たまたまルートが同じなだけで、勘違いだったらいいなって思ってました」
麻陽は「結果的に、《ラウンズ》まで付いてきた挙げ句、その後もずうっと一定距離を保って後ろにいるので確信に変わったんですが……」とうんざりしたような表情で言う。
鈴花は「まあまあ」と苦笑いしながら麻陽を宥める。
麻陽は「えっと、それでですね!」と続きを話し始める。
「わざわざ《ラウンズ》に着くまでに手を出してこなかったということは、彼には何か明確な目的があるのだろうと思ったんです。それから、しばらく観察しても、他の方には全く目移りしていないように見えたのと、ガラスや鏡の反射越しに確認すると痛いくらいにわたしに視線を投げかけてきてましたから、明らかにわたし単独を執拗に狙っている。と、なると…………」
「お家柄を知っている者が金銭的に何かを狙っている、という可能性が最も高くなるってことか」
「そういうことです。カツアゲなのか置き引きなのか、手段までは分からないにせよ、どこかのタイミングで何かを仕掛けてくるんだろうなと。例えばわたしが一人になったタイミングとか、手荷物をどこかに置いたタイミングとかで、ですね。だからそれらに気をつけながら、あのゾンビのゲームのところで打ち合わせた通り、屋上の運動スペースに向かって、マスクやサングラスを取らないかなと期待したわけです。あの空間であんな格好をしていれば、それはもう周りから浮きますから。その後は、さっきも言いましたが、思った通りになった…………というよりもほとんど津鳴木さんの自爆でした。運が良かった感じです」
「なるほどね」
鈴花は感心しつつ、同時に納得もしていた。麻陽の持つこの観察力や状況把握能力は、普段ゲームを一緒にやる際にもプレイヤーAsとして遺憾なく発揮されていたからだ。
《*いかりんぐ*》の仲間内でも、FPSなどでゲーム内ランクを一定まで上げる目的がある場合で、ここは勝ちたいという特に大事な試合では、素人なりにしっかりとロールを決めてプレイするのだが、IGL(In Game Leader)と呼ばれる、戦況把握・作戦立案・チーム内で意見が割れた時に意思決定を行うという役回りは、Asになることが多かった。
「もう一つだけ聞きたいんだけど、そもそもどうしてリスクをとって津鳴木と直接相対する方法を選んだの? 麻陽も言ってたけど足も遅そうだったし、走れば当然逃げ切れたと思うよ。会社名・氏名はもちろん写真まで撮るのは流石にやり過ぎのような気がして」
鈴花のその問いに対し、麻陽は「それは確かにそうなんですが」と言ってから続ける。
「こういう付きまといって、悪意を持った何らかの狙いがあったとしても、この段階ではまだ罪というレベルには達していないと思うんです。この段階での津鳴木さんはストーカーに分類されるとは思うんですけど、ストーカーに対しては、その行為が『執拗かつ常習的で悪質であること』を証明しないとスムーズに罰せないはずなんですよね。一応、聞いた話なので間違ってるかもしれないんですけど」
「つまり今回の付きまとい行為だけだと、もし通報しても、止めてねって言ってそれだけで終わりになるってこと?」
「わたしはそう認識してます」
「それはなんというか、かなり理不尽だ。後手の対応にならざるを得ないし……」
「相手に嫌だと主観的に思われただけで罪になってしまうなら、通報した者勝ちになってしまうので、こういうのは仕方ないところはあると思いますけど、確かにちょっと納得できないですよね」
麻陽は「ちょっとお水飲みますね」と言ってお冷を一口飲み込んでから、続きを話し始める。
「そういうことだったので、今回は、『相手の名前と、可能であれば所属まで把握すること』『付きまといの証拠を残すこと』『今日これ以上の付きまといが出来ないようにすること』をゴールに設定したんです」
「わかった、だから写真を撮ったんだ。後から麻陽のお父さんに確認できることをちらつかせて名前と所属で嘘をつかれないようにするため、それから今日の付きまといの証拠を残すため、そして服装や人相を記録して今日これ以上の付きまといは難しくさせるため。一石三鳥だ」
「さすが鈴せんぱい。話が早くてすごいです」
(すごいのは麻陽の方では)と鈴花は思ったが、褒められることに悪い気はしないので黙っておいた。
「でも、今後はあんまり危ないことはしないようにしてね、麻陽。暴行されたり、誘拐されたりする可能性だってゼロではないんだから、自分の身を一番に考えてほしいよ、私は。それに今回写真を撮ったのも、写真を撮ることを伝えていたとはいえ、ほぼほぼ隠し撮り、悪く言えば盗撮のようなものだったんだから。全部上手くいったからまあ良いけどね」
「そうですよね……ごめんなさい。鈴せんぱいにも迷惑かけちゃいました」
「私は大丈夫。それよりも何事もなく、無事でよかったよ、本当に。それに、こんなこと言っちゃ駄目なんだけど、なんというか……その、エキサイティングで私は楽しかったよ」
「鈴せんぱい〜!! 好きです! 結婚してください!」
「はいはい、そういうのはいいからね〜」
そういったやり取りをしていると、老婦が二人分の『C定食』を運んでくる。
味噌を炒めた時の香ばしい香りが漂う。茄子と豚肉の味噌炒めがメインの皿に盛られており、お椀には生野菜のサラダと、それとは別にお味噌汁が付いており、それから茶碗には小盛りのご飯と、小鉢にはお漬物。
麻陽は知る由はないが、ここ一年で《桜仙》の常連となっている鈴花は、本来のC定食の量では食べきれないこともあり普段注文する時は少し量を減らしてもらっているのだが、今回は伝えるのを忘れていたにも関わらず、きちんと普段の注文通り少なめになっており、さらに鈴花よりも少食である麻陽の分も同様の量となっていた。
鈴花が老婦を見て「ありがとうございます」と言うと、老婦はにこりと微笑み「もしも足りなかったら教えてね」と優しく言うと、厨房の方へ戻っていった。
「わあーっ、美味しそうですね」
「ほら、熱いうちにささっと食べちゃおう」
「鈴せんぱいのおごりですもんね。ごちです!」
「うわっ、真剣な話を挟めば、あのレースゲームのこと忘れてくれると思ったのに!」
「一生忘れません! ごちです!」
「麻陽の前で軽々しくおごるなんて言うもんじゃないや……」
こうして二人は少し遅めの昼食へとありついたのだった。
………
……
…
碧海の娘に自らの情報を開示した後、津鳴木は陰鬱な思いを抱えたまま、しばらくストラックアウトを続けていた。
「なんだ、結構当たるじゃねぇか」
始めてすぐは全く的に当てられずにパネル上の光源は燦々と輝き続けていたが、人間とは学習するもので、今ではボールが当たらずに光ったままになっているパネルは二枚のみだ。
津鳴木がその状態からもう一度ボールを投げると、パネルの状態はリセットされ、パネル上の光源は全て復活し元通りとなった。
「はあーっ、もう肩が上がらん」
ボールを投げるうちに、陰鬱な気持ちも少しずつ晴れ、帰宅後に妻に詰られる覚悟も決まったので、津鳴木は潔く切り上げて帰宅することを決意した。
明日以降は筋肉痛が酷いだろうなと思い、彼は自らの衰えを自覚する。これでも昔は草野球でも出場すれば一度はホームランを打っていたし、投球コントロールは悪くても遠投は得意であった。妻と巡りあうことができたのも、その時の草野球仲間から紹介されたが故だった。
昔はもう少しお互いに色々なことを譲り合いながら愛を育んでいたような気がする。娘が産まれ、仕事に育児に忙しくなり、貯蓄を気にするようになり、お互い気持ちに余裕が無くなっていった結果、今のような関係になってしまったのだ。
碧海の娘に完璧にしてやられ、プライドをへし折られた津鳴木は、このストラックアウトを経て自分を見つめ直していた。今更、妻は何を言っても聞いてくれないかもしれない、しかし、威張らずに穏やかに、自分から譲れば、優しくできれば、昔のような関係に戻れるんじゃないか。
(帰ったら、土下座でも何でもして、今までのことを誠心誠意謝ろう。もしも碧海さんや娘さんに会うことがあれば、菓子折りを手渡し、受け入れてもらえなかったとしても、今回の件をきちんと謝罪しよう)
人生において、人は様々な経験をすることで性格や考え方が変化していくものだ。中でも挫折や後悔というのは非常に強い衝撃を伴うことから、人を変えやすい部類の経験である。津鳴木にとっては今日のこの経験が、まさに自らを変えるに足る衝撃的なものであったのだ。
津鳴木は汗を拭いながら、今の時間を確認するために、カバンからスマートフォンを取り出す。
そしてスムーズに電源を入れる。
ロック画面に時間が表示されるが、それよりも目につくものがあった。
津鳴木が登録してから長らく放置しているフリーメールアプリの受信通知だ。
(なんだ、珍しい)
疲労が顔に出ていたからか顔認証に失敗したので、自らの誕生日の数字四桁を入力してロックを解除し、そして彼は何の気なしにそのフリーメールアプリをタップする。
このフリーメールアプリは、立ち上がるともっとも最近受信したメールが表示される仕組みだ。
なので当然、そのメールが表示されることになった。
『二人に関わるな』
視界に入ってきた文字に、「うわあっ!」と津鳴木は悲鳴を上げ、思わずスマートフォンを落としてしまう。
バンと音がして液晶の一部にひびが入る。しかし画面は問題なく表示されている。
津鳴木が恐る恐る周囲を確認しながらスマートフォンを拾い、差出人のアドレスを見ると、未登録で、彼には見覚えのない、意味がないとしか思えないアルファベットの羅列で構成されていた。
受信日時は2024年3月23日。受信時刻は11:45。
そして件名にはただ一文字『C』と記入されている。
当然、津鳴木には、『C』という文字に心当たりはなかった。
「このメール、まだ続きが……?」
津鳴木がメールをスクロールすると、少し下の方に生年月日・住所や電話番号といった個人情報が記入されていた。
そしてそれは、いずれも津鳴木本人のものであった。
「おいおい嘘だろ……!! 碧海の娘はこんなことまでするのか……!!」
怒りの感情を露わにするも、碧海の娘と口にして、違和感を覚える。
何かがおかしい。何か見落としている、何かを。
違和感をそのままに、個人情報の記載よりも更に下にスクロールした津鳴木は目を見開き固まることになった。
そこには、通学中である娘の姿を隠し撮りしたであろう写真が一枚、添付・表示されていたのだ。
津鳴木は震えに立っていられず、膝から崩れ落ちる。
「やめてくれ、娘には、娘だけには手を出さないでくれ……。もう二度と関わりませんから、お願いします。お願いします……」
自分の娘が危険に晒されるということがこんなにも苦しいことであることと、自らが碧海の娘に対して行おうとしていたことの非道さを自覚し、後悔と焦燥と不安に押しつぶされ、項垂れた津鳴木の耳には、スイング音と金属バットでボールを打ち返す鋭い音だけが、強く、何度も何度も、激しくこだましていた。