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好きになんてならないぞ、魔女め

作者: 水池亘

 郊外の駅から五分ほど歩いてたどり着いたのは、まるで天を突き破るかのような高層タワーマンションだった。

「本当に住んでる人いるんだな、これ……」

 あたりまえのことなのだが、一般庶民たる僕には別世界すぎて上手く想像ができない。

 入り口で番号を入力し、名を告げるとくぐもった音で「どうぞー」と女性の声がした。同時にすーっと自動ドアが開く。全く音のしないエレベーターに乗り、瞬きする間もなく十二階。

 彼女が住むのは日の当たる角部屋だった。玄関の脇に、可愛らしい青色のチャイムボタンが取り付けられている。僕はゆっくりとそれを押した。

 ピンポーン。

 甲高い音が扉の向こうで鳴り響き、直後、ガタンと大きな物音。そして足音がドタドタ鳴り、こちらに近づいてくる……ことはなく、十秒ほど一定音量で動き回ったかと思うと、不意に止まった。

 静寂――。

「えぇ……」

 困惑し、僕はチャイムを何回も鳴らす。ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。だが中からはもはや足音一つ聞こえてこない。間違いなく、彼女はそこに居るはずなのに。

 しかたない。僕は大きく息を吸った。

「すみません、鏑木(かぶらき)葉香(ようか)さん! 僕、七時に約束している名取(なとり)重吾(じゅうご)です! 母から話、聞いてますよね。開けてください!」

 言葉に合わせ、扉を叩く。これでも足音はしない。まさか……失神? 冷たい汗が背中を流れる。僕はよりいっそう拳に力を込め、扉を強く叩きつけ――


 ガチャ。

 扉は何の足音もなく、唐突に開かれた。


「うわっ!」

 思わず叫び、僕は後ろに跳んだ。その様子はバッチリ彼女に見られていた。ジャージ服のまま仁王立ちする彼女は、僕の顔をひとしきり眺め、満足そうにニヤッと口角を上げた。

「どう? 驚いた?」

「そりゃそうですよ……って」気づいた僕は、眉をひそめた。「まさか、ワザと?」

「にゃっはっは、まーねー」

 楽しそうにくすくすと笑っている。

 つまり彼女は、意図的にドタドタ足音を鳴らし、僕に聞かせることで「扉を開けに来るときは足音が鳴る」という先入観を植え付けた。その後、すり足等で音を出さずに玄関まで行って扉を開けたというわけだ。単純なイタズラだ。単純すぎてタチが悪い。

 もちろん、腹を立てるべきだっただろう。だが……僕はただ、呆然と彼女の容姿を見つめていた。

 すらりと伸びた背。

 美しく伸びた黒髪。

 細い身体、大きく膨らんだ胸。

 カールした長いまつげ。

 何より、ぱっちりと眩しく澄んだ茶色の瞳。

 ――端的に言って、彼女はとんでもない美人なのだった。

「ん? どした?」

「……いや、何でも」

「そんなにこのお姉さんが美しいかね」

 その台詞に僕は言葉が詰まってしまった。これでは図星と言っているようなものだ。ニヤニヤしている彼女の顔がちょっと憎らしい。

「まーとにかく上がってよ。話は中でしよう。熱いコーヒーでも飲みながらさ」

「いや、コーヒーは……」

「いい豆を買ったんだ。美味しいから、ね?」

 有無を言わさぬ口調に、僕は察した。きっと母さんから聞いて知っているのだろう、僕がコーヒーを飲めないことを。

 くそっ。

 こんな人だと知っていたら、初めから引き受けなかったのに。


   *


「ねえ、ちょっといいバイトがあるんだけど」

 そんなことを母さんが言い出したのは夕方過ぎ、僕が適当に作った回鍋肉を二人で食べ終えた後のことだった。

「バイト? うちの高校、禁止なの知ってるでしょ」

「別にどこかの企業で働こうって話じゃないのよ。あたしの友達の手伝いをして、お礼にお小づかいを少しもらうだけ。問題なんてありゃしないわ」

「詭弁だよ、それ」

 渋い顔の僕をよそに母さんは話を続ける。

「友達ね、葉香ちゃんっていうんだけど、仕事がすごく忙しいらしいの。あんまり忙しいから身の回りのこと全然できない、家政婦が欲しい、って言うからさ。うちにちょうどいいのがいるよって紹介したのよ」

「勝手なことしやがる……」

「あんた部活もやってないし、時間あるでしょう。それに、パソコン買う金が欲しいって言ってたじゃない」

「それはまあ、そうだけどさあ」

 新しいPCが欲しいのは事実だ。最先端のゲームを遊ぶには、何年も前に買った安物では心許ない。とはいえ、どうしてもすぐに欲しいというほどでもない。

「絶対やれって言ってるわけじゃないわ。一回直接話でも聞いてみて、それでやるかどうか考えてみてってだけ」

「えー、面倒だなあ……聞いたところでどうせやらないし」

「じゃあ会わないのね」

「うん」

「葉香ちゃん、めっちゃ若くて美人だよ」

「……」

 僕はしばし考え込んでしまった。


 ――結局、母さんの言葉に嘘はなかったわけだが。

 僕はテーブルを挟んで対面する彼女の顔を、今一度見つめる。

 予想していたよりずっと若い。たぶん二十歳前後だろう。そういえば母さんの交友関係はやたら広かった。あの人なら、二回りくらい年下とも簡単に仲良くなれるに違いない。そんな人物からどうして僕みたいな日陰者が生まれたのか。遺伝子学に疑問は尽きない。

 ぼんやりとそんな無体なことを考える。差し出されたばかりの黒い液体からは、半透明の湯気がゆらゆらと立ち上っている。

「あれ、飲まないの?」

「……知ってるくせに」

「何のことかな、へへへ」

 そう笑って首をかしげる。

 もういい、さっさと話を済ませよう。

「あの、バイトって具体的には何を……」

「私の身の回りのこと全般だね。例えば部屋の整理とか」

 その言葉に僕は辺りを見回す。

 入ったときから気づいていたが、とにかくこの部屋は乱雑だった。特に大量の本が山のように積まれ、散乱している。紙くずやペットボトルなんかも辺りに散らばっている。ゴミ屋敷ほど酷くはないものの、お世辞にも綺麗な部屋とは言いがたい。薄ピンク色の女性らしい壁紙が泣いている。

「あとは、夜ご飯作ってもらったりとかね。できる? 料理」

「まあ人並みには」

「おー、いいねいいね」

「本当にたいした腕じゃないですよ」

「またまたぁ。そんなこと言う人ほど実は上手いって、私知ってるんだからね」

「いや本当に……」

「えへへ、楽しみだなあ」

 葉香さんは屈託なく笑っている。

 そもそも僕は一言も引き受けるとは言っていないのだが……。

「他には、ちょっと書類整理してもらったり、調べ物してもらったり、くらいかな。あ、たまに肩を揉んでもらおう」

「か、肩!?」

 僕は思わずうろたえる。

「いやー仕事してると肩凝るんだよねえ。集中しすぎて生活も適当になっちゃうし」

「いやでも、僕は男ですよ?」

「それがどーかした?」

「どーかした、って……」

 僕は困惑して眉をひそめる。あまりそういうことに頓着ない人なのだろうか。それはそれで困る。

「と、ところで」僕は話を逸らすことにした。「仕事って、何ですか?」

「え、奈々さんから聞いてないの?」

「全く。何も知らないです」

「えぇ……」

 彼女は呆れたようにひとつため息をついた。

「まったくもう、適当なんだから奈々さんは」

「それは完全同意ですが……で、何なんですか?」

「それはねぇ、ふっふっふ」

 彼女は妖しく笑う。そして僕のほうにぐいと顔を近づけ、囁いた。


「魔女、だよ」


「……は?」

 思わずぽかんと口を開けてしまった。

「何の冗談です?」

「あれ見てごらん」

 彼女は唐突に部屋の隅を指さした。そこには丸められた紙くずが一つ転がっている。

「えいっ」

 声を上げ、彼女は伸ばした人差し指をヒュッと小さく振り下ろした。その瞬間――


 ボンッ!

 弾けて燃えた。紙くずが、音を立てて。


「……え?」

 そう呟く僕の顔はきっと恐ろしく間抜けだっただろう。

「ふふー、驚いた?」

 彼女は心底楽しそうに言う。

「あまり知られてないけど、結構いるんだよねー魔女って。私のママも魔女でさ、子供の頃からいろいろ教えてもらってたんだよ。で、もったいないから仕事にしちゃった」

「は、はあ」

 僕の口から気の抜けた声が流れる。

「魔女の、仕事……って、何なんですか?」

「まあ人によるかな。悪の存在を討ち滅ぼす正義の魔法使いなりぃ、って人もいるらしいよ。ま、私はそういうの御免被りたいからリモート専門。魔術書書いたり、魔法陣作って提供したり、そんなとこかな」

「はは、なるほど……」

 僕は乾いた笑みを浮かべる。それを葉香さんはじとっと見つめた。

「あー、信じてないな。せっかく魔法見せてあげたのに。しかたないなあ」

 おもむろに、彼女は床にぺたんと座り込んだ。そして積まれた本の山をかき分ける。

「あれ、どこだっけ。これじゃない、これでもない……あっ、あった!」

 一冊を引き抜いて、僕に向けて掲げてみせる。それは赤いハードカバーの本で、表紙には知らない言葉がアルファベットで印字されていた。

「じゃーん! これ、私が書いた魔術書だよ。特別に見せたげる」

「いや、僕は別に……」

「いーからいーから、ちょっと読んでみてよ。って言っても読めないと思うけどね。あはは」

 笑顔の彼女は押しつけるように僕に本を渡した。勢いに押され、僕は開いて中を見る。

「これは……英語?」

「っぽいけど違うんだ。魔女がよく使う言語で、表向きはどっかの国の古語ってことになってるはず」

「はず?」

「よく知らないんだよー。別に知らなくても書けるし」

 本は小さな横文字でびっしりと埋め尽くされていた。ところどころに挿絵が挟まれていて、ローブ姿の男が何かしていたり、謎の幾何学模様が並べられていたり。眺める分には楽しくなくもないが、内容はもちろんさっぱりわからない。

「……これを、葉香さんが?」

「まーね。結構大変な仕事だったけど、これがわりと売れてねえ。今でも印税入ってくるよ」

「そうですか、はは……」

「どう? 信じてくれた?」

 彼女は少し首を傾げ、僕を下から覗き込むように見つめた。

「いやー、まあ、そうですね」

 正直、よくわからない。

 わからないが、どうせ僕には関係ない。

「じゃあ僕はこれで……」

 僕はすばやく立ち上がる。

「ねえ、バイトの話なんだけどさ」

「すみませんが、お断りで」

「週二回、夕方六時から夜の九時くらいまででどう?」

「だからやりませんって」

「一日一万出すよ」

 僕はピタリと動きを止めた。

「い……一万?」

「そう。悪くない条件だと思うけどな」

 彼女は愉快そうに僕を見ている。

「……逆に怪しいですよ、それ。高校生の短時間バイトに一万も出すなんてどうかしてる」

「大丈夫だよ。どーせすぐ払わなくても良くなるからねぃ」

 当然のように言って微笑んだ。

「……どういうことですか?」

「きみが望んでタダ働きしてくれるようになるってことだよ」

「はあ?」

 僕の声は思わず裏返った。

「そんなわけないでしょうが」

「あるんだにゃあ、これが」

 そして彼女は自信満々に言い放った。


「だってきみは私のこと好きになるんだから」


「はい?」

「恋しちゃうんだよ、きみが、私に」

「……ははは、面白い冗談ですね」

 僕は真顔で言った。葉香さんはいたずらっ子のような笑みで僕を見つめている。

「ふっふっふ。忘れたの? 私の職業」

「職業?」言ってすぐ気づく。「まさか……」

「そう。私は『自分を好きになってもらう魔法』を使えるんだよ。いわゆる魅了、チャームってやつだね」

「卑怯ですよ!」

「まーまー、そんなに簡単じゃないんだよこれが」

 葉香さんは右手をふりふり振った。

「人の心を操る魔法ってのはすごく難しいし、時間もかかるのさ。だから今すぐここでかけてハイ終わりってわけにはいかない。何度も同じ時間を共有して、じっくりと魔法を重ねがけしなきゃいけないんだよ。しかも相手の心の強さによっては、いくらやってもかからないこともある。だから普通はそもそもやろうと思わないんだけど、今回はね、ちょっと試してみたくなっちゃった」

「……僕は実験台ってことですか」

「お互い仲良くなりましょう、ってことだよ」

 ニヤリと笑って、彼女は今いちど僕に顔を近づけた。鼻をかすめる、柑橘系の良い匂い。

「詭弁だ……」

「まあ詭弁でもいいじゃない。きみが心を強く持てば、お金をいっぱい稼げるよ。どう? いい話でしょ」

 至近距離の彼女がにっこりと微笑む。

 ……言いたいことはたくさんあった。

 訊くべきことも山ほどあったと思う。

 だが、目の前にある彼女の整った顔立ちと、脳裏をよぎる最新パソコンの影が、自然と僕の口を閉じさせた。

 はあ、まったく……僕はどうしてこう餌に釣られてしまうのか。

 ため息をつき、僕は自らへの戒めとして、冷めたコーヒーを一気にあおった。

「うわ美味っ!」

「でしょー!」

 葉香さんは満面の笑みで、どうだと言わんばかりに胸を張った。


   *


 チャイムを押しても反応がない時は合鍵を使って良いことになっていた。

 合鍵……。

 僕は鈍色のそれをまじまじと見つめる。

 知り合ったばかりの男子高校生にあっさりと鍵を貸し与えるなんてどうかしている。

 まあ、今更か……。

 僕はため息をつき、玄関の扉を開けた。

「葉香さーん! いますよねー!」

 僕は少し大きな声で呼びかける。やはり反応はない。しかたなくそのままリビングまで上がり込むと、パソコンの画面を真剣な顔で睨みつける葉香さんの横顔が目に入った。整った鼻筋が明かりに照らされ煌めいている。僕は一瞬、呆然と息を呑んだ。すぐ我に返ったのは、ボサボサの髪が目に映ったからだ。

「葉香さん! 葉香さんってば!」

「……ん? あれ、じゅーご君。どしたの?」

「どしたの? じゃないですよ。バイトです、バイト」

「え、あーもう六時!? 全然気づかなかったや」

「ていうか葉香さん、風呂入ってます?」

「あー……」

 呟いて葉香さんは中空を見つめた。

「入った。入ったよ。入った入った。たしか。たぶん。きっと」

「今すぐ入ってきなさい」

 僕は浴室を指さす。葉香さんは渋い顔で、

「は~い……」

 力なく返事をして、木目のタンスに手を伸ばした。開けられたその中身を、僕はうっかり目にしてしまう。

「今日は何にするかにゃあ……かわいいのがいいにゃあ……」

 ぶつぶつ言いながら、淡い色の下着やらパジャマやらを引っ張り出す葉香さん。

「ちょっとあの」

「んー?」

「僕がいるんですよ、僕が」

「それがどーかした?」

「僕、一応男なんですけど」

「それがどーかした?」

「……どーもしてないです」

 僕は諦めて下を向いた。葉香さんは抜き取った下着類をピンク色のバスタオルでくるみ、小脇に抱えて浴室へ消えていった。

 何なんだ、あの人は……。

 何度か横に首を振り、僕は大きくため息をついた。


「今日は一緒に映画を見ます」

 僕が適当に作った四川風麻婆豆腐丼をかき込みながら、葉香さんがそう言った。

「は? 映画?」

「うん。じゅーご君を魔法にかけなきゃならないからね」

 ニヤリと笑う彼女の表情を見て、僕は首をひねる。

「映画と魔法に何の関係が?」

「知らないのー? 男女が二人で映画を鑑賞するというシチュエーションには魔力を増幅させる力があるのさ。だからこそ無数のカップルがこぞって映画館に行くってわけ」

「無数のカップルは魔法使えないんじゃないですかね」

「使えなくても、見えない魔力が働くの! じゃなかったらどーしてせっかくのデートの二時間を一人でもできるよーなことで無駄に浪費するってのさ。馬鹿みたいじゃん」

「口が悪い……」

 肯定も否定も、当然僕にはできない。

「あ、もちろんバイトの範囲内だから給料出すよー、安心してね」

「いいんですか?」

「いーのいーの。先行投資ってやつさぁ」

 葉香さんはにこにこ笑っている。僕も気が引けないわけではないが、パソコンのためだ。ここは好意に甘えておこう。

「ところでこの麻婆豆腐、すんごい美味しーね!」

「あ、それは嬉しいです」

「まー私にはちょっと辛すぎるけどねー。舌焼けちゃうよぉ」

「そうですか? マイルドにしたつもりですが」

「嘘だあ。私に意地悪してるんでしょー」

「してませんって」

「むぅー」

 頬を膨らまして僕を睨む葉香さん。

 うーむ。僕は何も言わず、豆腐と米をかき込んだc。


 彼女が選んだ映画は僕の知らないタイトルだった。少し前の時代に流行ったものらしい。

「前から見たかったんだよね。赤面しちゃうくらい甘ったるい恋愛映画らしーよ」

「そういうの興味あるんですね」

「うん。爆笑できそうだから」

「性格が悪い……」

 巨大なテレビの前に二人並んで座る。その間には山盛りのポップコーン・キャラメル味。

「何飲むー? 私はコーラにするけど」

「同じのでいいですよ」

「あー、何かそれカップルっぽいな。憎いねぇ、このこのぉ」

「はあ……」

 呆れる僕の前で彼女はくすくす笑っている。

「はい、コップ。倒さないようにね」

「どうも」

 受け取って、黒い液体を一口飲んだ。

「ぶほっ!」

 に、苦あああっ!

「あっははは、引っかかったー!」

「なんだこれ……コーヒー……?」

「そーだよ。ペットボトルの安物」

「理科の劇物じゃなくて?」

「大げさだなあ。間違いなく飲み物です」

「なら良かったです……おえぇ」

 えずく僕を見る葉香さんは少しだけ申し訳なさそうにしている……といいなあ。

「あはは、ごめんごめん。そんなに苦しむとは思わなかったや。お口直しに、これどーぞ」

 すっと差し出されたコップには泡立つ黒い液体が入っている。

「……今度は何ですか?」

「コーラだって。ほんとのほんと!」

「どうだか……」

 と言いつつも、僕は素直にコップを受け取った。甘い香りが鼻をつく。目をつむり、ぐいと一口飲むと、甘味とともに炭酸の粒が舌と喉を叩いた。

「ね? ちゃんとコーラでしょ」

「そうみたいですね……葉香さんにも人の心が残されていて良かったです」

「そこまで言うー?」

「言っても許されるでしょう……まあ、普通の美味しいコーラですよ」

「うんうん、それは良かった。美味しーよねー、私が口つけたコーラ」

「は!?」

 思わずコップを落としかけた。

「口を、つけた?」

「うん。つまり間接キスってこと!」

「……言ってて恥ずかしくならないですか」

「ちょっとね!」

 葉香さんは苦笑している。

「やっぱり何歳になってもドキドキしちゃうよね、間接キスって」

「何歳なんですか?」

「……」

 急に無言になり、葉香さんは上目遣いで僕をじろりと睨みつけた。


 映画は僕には退屈な内容だった。

 話の筋自体は理解できるのだが、とにかく登場人物に感情移入できないのだ。

 ……まあ、恋愛経験の欠片もない僕に、フィクションの恋愛感情に共感しろというほうが無理な話なのかもしれない。

 薄暗い部屋の中、ぼんやりテレビに目をやったままポップコーンに手を伸ばすと、さらりとした温かなものに手が触れた。ん? これは……手だ。

 気づいた瞬間、反射的に手を引いた。でも出来なかった。彼女の手が僕の手をギュッと掴んでいたからだ。

「ちょ、葉香さん」

「ダメだよー悪戯なんかしちゃあ」

 葉香さんはニヤリと口角を上げて僕を見た。

「偶然ですって」

「どーだかねぃ」

 楽しそうに弾んだ声で言う。

「ま、いいや。映画に集中しなよ、じゅーご君。いーところなんだからさ」

「誰のせいで……」

 僕が文句を言おうとしたところで彼女は視線を外し、テレビに向き直った。表情からは笑みが消え、真剣な目つきに変わっている。

 彼女の言うとおり、物語は山場を迎えていた。僕は目をこらし、何とか映画に入り込もうと試みた。

 くそ、葉香さんめ……。

 僕は心の中で舌打ちをして、ポップコーンを闇雲に口に詰め込んだ。


「あー、つまんなかった!」

「えぇ……」

 明かりをつけて開口一番、彼女のディスりに僕は思わず困惑の声を漏らした。

「あんなに真剣に見てたのに……」

「そりゃーちゃんと見ないと、物語に申し訳ないでしょー。まずは全力で物語を受け止めて、その上でつまらねーものはつまらねーって言うのが知識人の嗜みってものだよ。わかる?」

「わからないです……」

「まだまだだねぃ。で、どーだったの? じゅーご君的にはさ」

 彼女は笑顔で僕の目を覗き込む。

「いやあ……正直、よくわからなかったです。惚れた腫れたとか、別世界すぎて」

「えー?」

 葉香さんは不思議そうに首を傾げる。

「だって高校生でしょー? 男子と女子の学園生活パラダイスでしょ。色恋沙汰なんてそこらにゴロゴロ転がってないの?」

「もちろん転がってますよ。僕の足下に来ないだけで」

「あー、そう……」

 そう呟いて、困ったような表情になった。

「なんか、ごめんね」

「謝られるほうがつらいんですが」

「悪かったってぇ」

 僕の目の前で両手を合わせる葉香さん。まあ、悪気がないのはわかる。

 話題を変えるべく、僕は「あ、ところで」と幾分作った声を出した。

「魔法はどうなったんですか? 映画中にかけるとか言ってましたが」

「おっ、よくぞ訊いてくれました! んっふっふ……」

 葉香さんは奇妙な笑い声を出した。

「じゅーご君、ポップコーンどのくらい食べた?」

「え? ポップコーン?」

 僕は思わず首を傾げた。

「覚えてないですけど、まあ一袋分くらいは」

「ふっふっふ。あれには全て私の魔法がかけられていたんだよ。食べてしまったきみはもう私の虜ってわけ。どう? 私見てドキドキしない? 胸が高鳴ったりしない?」

 葉香さんは得意げな表情で、バレリーナみたいにくるりと一回転した。

「出直してきてください」

「えー、そんなあ」

 露骨に肩を落とす葉香さん。

「がっかりだぁ、およよ」

「動きがわざとらしいんですよ」

「あはは」

 あっさりと葉香さんは明るく笑った。

「まーこれくらいですぐ効くとは思ってないしねー。また次の機会に期待するよ」

「次の機会……」

 呟く僕を葉香さんはじっと見て、微笑んだ。

「ふふ、次は何をしようかなあ」


   *


「さて、ここでクイズです」

 僕が適当に作った酢豚を食べ終え、食後のコーヒーを飲み干した葉香さんは、そう言ってニヤッと笑った。

「これはいったい何でしょーか?」

 台詞と同時に、右手の指でつまんだ物体を僕に掲げて見せる。細長い棒だ。平べったく、厚みは一ミリ程度。先が匙のようにくぼんでいる。

「耳かきですね」

「ピンポーン!」

「帰ります」

 鞄を掴み立ち上がる僕を葉香さんが「ちょちょ、待たれよ」と引っ張った。

「頼むよぅ。絶対気持ちいいからさぁ」

「嫌ですよ。命の危険がある」

「大げさだってぇ! これでも私、テクニシャンなんだぞー」

「証拠はありますか?」

「だって自分で耳かきするとすっごい気持ちいいから!」

「他人にしたことは?」

「ないです……」

「さようなら」

 立ち去ろうとする僕に、急にやわらかい重みが巻き付いた。葉香さんに抱きかかえられているのだと理解するのに少しだけ時間がかかった。

「ちょ、やめてください!」

「慎重にやるから! 絶対安全にするから! ね!」

 抱きしめられた両腕にギュッと力がかかる。鼻をかすめる、柑橘系の良い匂い。

「わ、わかった、わかりましたから!」

「えっ、ほんと!?」

 葉香さんはパッと僕の体を離した。ふんわりした感触の余韻がまだ残っている。僕は何度か首を振って、正常な思考を取り戻そうとした。

「はあ……痛かったら怒りますからね」

「うわーい、ありがとう!」

 僕の手を取ってぶんぶんと振った。満面の笑みだ。

「そんなに耳かきしたかったんですか」

「うん。じゅーご君に耳かきしてあげたかったんだー」

 そんな彼女の言葉に、僕はただ「それはどうも……」と曖昧に笑うしかなかった。


 湯気を立てる42℃の湯船を眺めながら、僕は大きくため息をつく。

 体を温めるべく、このお湯に入らなければならないのだが、体が上手く動かない。

 こうなるから、先に入ると言ったのに……。

 先頃、いざ耳かきを始めようという段になって、葉香さんは唐突に、「あ、その前にお風呂入らなきゃね」と言い出したのだった。

「え、何で?」

「まー後でわかるよ。じゃ、私先に入っちゃうから」

 そう言って例のタンスに手を伸ばす。

「ちょちょ、下着なら後で出してください。僕が先に入りますから」

「だーめ。それはダメだよじゅーご君」

「何でですか」

「一番風呂は家主の特権なんだよ。学校で習わなかった?」

「学校を何だと思ってるんですか……」

「とにかく、最初は私ねっ!」

 言うが早いか、バババッと下着類を集めて浴室へ去っていってしまった。

 ……その結果、今こうして僕は真っ裸で固まっている。

「実はシャワーだけで上がったって可能性は……?」

 いや、葉香さんは風呂上がりの牛乳を飲みながら「やっぱり日本人には湯船だよねぃ……」とか言っていた。今思うと、あれは僕に聞かせるためにあえて言っていたのだ。

 くそっ。

 彼女の思い通りになってたまるか。

 僕は意を決して、湯船に足を差し入れた。

 それから一分後、僕は肩まで湯につかって溶けている。

「ふええ……気持ちいぃ……」

 思わず声が漏れる。

 入ってみれば何のことはない。ただのあったかいお湯だ。どことなく柑橘系の良い匂いがするような気もするが、気のせいだろう。気のせいであってくれ。


「上がりました……」

「いいお湯だったでしょー」

 笑顔の葉香さんを僕は恨めしく睨んだ。

「……わかっててやってますよね?」

「何のことかにゃ? 私はあの湯船に魔法をかけておいただけだよ」

「魔法?」

「そう。入ると私のことを思ってドキドキしちゃう魔法!」

 葉香さんは堂々と胸を張る。

「……魔法、なんですか。本当に? 比喩ではなく?」

「正真正銘の魔法です。これでも私、魔女ですから」

「そうですか……」

 僕は思わずホッと息を吐いた。そんな様子を見たのか、葉香さんはニヤリと笑って、

「ま、それにきみが先に入ると、私のほうがドキドキしちゃうからねえ」

「はあ?」

 僕の声は裏返ってしまった。

「またそんな冗談を……」

「えー、ほんとのことなのにぃ」

 口を尖らせる葉香さん。

 駄目だ、こんなからかいに付き合い続けていたら身が持たない。

「もういいですから、さっさとやってください、耳かき」

「おっ、乗り気だねぇ。良きかな良きかな」

「今すぐ帰ったっていいんですよ僕は」

「素直じゃないなあ」

「ずっと素直ですよ」

 真顔で僕は言った。

「ま、そういうことにしとくよ」

 そう言って葉香さんはくすくす笑った。


 このリビング兼仕事部屋には、何故かベッドがある。

「え、寝室は別にあるんですよね?」

「そだよー」

「じゃあ何でベッドが?」

「これね、仮眠用。仕事中は寝室行くのも面倒だからさー。ま、結局椅子で寝落ちしちゃうんだけどね」

「はあ……」

 自分用のベッドが二つある生活というものが僕にはいまいちピンと来ない。少なくとも彼女がかなり裕福であることだけはわかる。

 そのベッドに、葉香さんはちょこんと腰掛けた。そして薄着に包まれた自分の太ももを、両手でぽんぽんと叩く。

「はい、どーぞ」

「……は?」

「は? じゃないよ。ほら早く寝っ転がりな」

「………………………………………………………………………………………まさか、膝枕?」

「そーだよ。耳かきと言ったら膝枕。それが世界の理じゃないか」

「ははは、ご冗談を」

「これが冗談に見える?」

 彼女は少し拗ねたように僕の瞳をじっと見る。

「……マジですかぁ」

 僕はこれ以上ないくらい大きなため息をついた。

「これも魔法の一環ですか……」

「いや、私の趣味ですが?」

「趣味が悪いよぉ」

「魔法はこの竹製極細耳かき『匠』にたっぷりかけてあるからね。耳かきすればするほど、あなたの心と体にじわりと浸透します」

「そんな、湿布みたいな」

「ま、似たようなものだよ」

「似てるのかよ……」

「いーからほら、早く横になりなさい」

 葉香さんはおいでおいでと掌を振る。

 僕はレモンを噛み潰したかのように顔を大きく歪め、右手で覆った。その様子を葉香さんはにこにこ見ている。

「ああもう、わかりましたよ。やりますやります、やればいいんでしょ!」

 僕はベッドの、彼女から少し離れた位置に腰掛ける。そしてぱたんと横に倒れた。僕の頭が、彼女の太ももに触れる。

「ひゃうっ!」

「あのさぁ……」

「だってくすぐったかったんだもん! しかたないでしょー!」

「わざとじゃないなら、まあいいんですけど。いや良くないですけど」

「もー、おとなしく横になってなさい。脳に突き刺さっても知らんぞー」

「知らんで済まないんですよそれは」

「いいからほら、目でもつぶってなー」

「わかりましたよ……」

 会話を止め、僕は静かにまぶたを閉じる。

 いま僕の体の中で最も熱を持っているのは左頬だ。彼女のなめらかな肌の弾力と体温が絶え間なく僕の心臓を揺さぶっている。

「じゃ、入れるよー」

 彼女の声が聞こえた直後、ぞわっ、とする感触が右耳で弾けた。

「あ、動かないでね。ほんとに危ないから」

 その言葉に、僕は黙って息を深く吐く。

 ぞわぞわがだんだんと奥へ潜っていく。そして不意に、強い快感が全身を襲った。

「おー、結構汚れてるねえ。さてはあんまり耳掃除してないなー? ダメだよ、清潔にしてないと。とは言っても本当は耳かきってしなくてもいいらしいんだけどね。でもしちゃうよねえ、気持ちいいもんねえ」

 彼女はいつもより小さめの声でこしょこしょ話している。返事を返せない僕はただ「あ、う、お」と声を漏らすだけの人形と化している。

 これが魔法の力か……。

 やがて思考は圧倒的な快楽に押し流されていった……。


「……くん、じゅーご君」

「ふえ?」

 僕はぼんやりと目を開ける。

「ここは……天国……?」

「殺した覚えはないんだけどな、私」

「え、あ、葉香さん!?」

 僕はガバリと飛び起きる。無意識のうちに袖で口元を拭い、自分がよだれを垂らしていたことに気づく。

「あっ、いや、すみません!」

「いーよー別に。全然汚くないしね。むしろ私の耳かきでじゅーご君を眠らせてやったぞ、やったー、って感じ」

「そ、それならいいですけど……」

 どうやら僕は気づかぬうちに寝入ってしまったらしい。それは、葉香さんの耳かきが気持ちよすぎたことの照明でもある。

 不覚だ……。

「それにしても、寝てるきみの顔、かわいかったなあ」

「からかわないでくださいよ……」

「だってほんとのことだもの。写真もあるよ。見る?」

「ちょ、消してください!」

「はっはっは、嘘だよ。耳かきしてるのに撮れるわけないじゃんねー」

「こいつ……」

「よし、じゃー次行こーか」

「次?」

 きょとんとする僕に葉香さんは微笑みかけた。

「そーだよ。右耳は終わったから、今度は左耳。とーぜんでしょ?」

「そ……」反論しようとして、言葉が見つからなかった。「それは、そうですね……」

「ふふふ。わかったら、ほら横になる!」

「はいはい……」

 諦めたように呟いてから、はっと気づいた。

 今まで僕は、彼女の体と反対方向を向いていた。

 それが逆になるということは……。

「んー? どうかした?」

 葉香さんはニマニマと笑っている。

「嫌だぁ。あんまりだぁそんなの」

「文句言わないの。男でしょー」

「だからなんですよ……ああ」

 僕は嘆いて、思わず天を仰いだ。

 ――そうして僕は、目の前に女性の体があるというシチュエーションを初めて体験することになったのだった。しかも、ただの女性じゃない、とびきりの美人の体だ。

「無だ。無になれ重吾。自らの存在をこの世に溶かすんだ」

「何ごちゃごちゃ言ってるのー。ほら、じっとして」

 葉香さんの掌が、優しく僕の頭に当てられる。

 南無……。


「いやー、取った取った」

 たっぷり時間をかけて耳かきし終えた葉香さんの顔はどこかツヤツヤしていた。

「楽しかったねぃ。ね、じゅーご君」

 その言葉に、僕は無言で彼女を恨めしそうに見る。

「僕は大変疲れました」

「何でさ。気持ちよかったでしょー」

「……それは、そうですけど……」

 認めたくないが、嘘をつくのも癪だ。

「ふふー。私、耳かきの才能あるかも」

「どうせ魔法の力でしょ」

「なーに言ってるの。気持ちよかったのと魔法は関係ないんだからね」

「そうなんですか?」

「もちろんだよ。魔法の力は無色透明無味無臭で今もじわじわきみの体に浸透中だよ」

「最悪の気分だ……」

「ま、効果が出るのはいつだかわかんないけどねー。にゃっはっは」

 葉香さんは声に出して笑った。


   *


 雨がしとしと降っている。僕は傘を閉じ、雨露を払ってからマンションの自動ドアを潜った。

 ……その日は、どうも世界がおかしかった。

 目に見えているものが時々ブレたり、ぼやけたりする。

「あーそれ、魔法のせいだよ」

 縦セーターを着た葉香さんがあたりまえのように言う。

「……適当言ってるでしょう、葉香さん」

「にゃはは、バレたか」

 彼女は笑顔で舌を出す。

「まー、疲れてるんじゃない? 今日はもう帰りなよ」

「え? まだ一時間も経ってないですよ」

「そーだけどさ。結局のところ体が一番大事なんだよ、人間ってやつぁさぁ」

「自分のことを棚に上げて……」

 僕は机に並んだエナジードリンクの空き缶を眺める。

「自分より他人の心配をするなんて、立派な心がけですね」

「何言ってんの。じゅーご君だから心配してるんじゃんかー」

 平気な顔でさらりと言った。僕は思わず固まってしまう。

「ん? どしたの」

「いえ……何でもないです。そうだ、米を炊かないと」

 僕は慌てて椅子から立ち上がり、次の瞬間、世界が傾いた。

「え?」

「うわっ、じゅーご君!」

 葉香さんの叫びが遠くなっていく……。


「ん……?」

 まぶたを刺す目映い光に、僕は目を覚ました。ゆっくりと体を起こし、辺りを確認する。

「ここは……?」

 花畑だ。

 あらゆる種類の、あらゆる色の花がところ狭しと咲き誇っている。その中央に僕は横たわっていたのだった。

 しばらくの間、僕は呆然と口を開けていた。

「……天国? いや、まさか」

「そのまさかなんだよにゃーこれが」

 背後から軽い言葉が放たれる。馴染みのある声色。僕は素早く後ろを向いた。


 純白のドレスに身を包んだ葉香さんが、笑顔で僕を見つめていた。


「……え?」

「こんにちは、じゅーご君」

 にっこりと微笑む葉香さん。

「ええと、あの……どういうことですか?」

「察しが悪いなあ。これ見ればわかるかにゃ」

 言うが早いか、葉香さんはくるりと後ろを向く。その背中には両手を広げても足りないくらい大きな、真っ白い翼が生えていた。

「じゃーん! 天使の翼!」

「て、天使?」

「そう! 実は私、魔女じゃなくて天使だったのです!」

 得意げな顔で胸を張った。

「………………………………………………………………………………………ああ、やっぱり」

「やっぱり?」

「薄々そうじゃないかって思ってたんですよ。だってこんなにかわいらしい人、人間とは思えない」

「かっ!?」

 葉香さんはビクンと体を震わせて、そしてカチンと固まった。

「かっ、かわいい? 私が?」

「何をあたりまえのことを。顔も、体も、匂いも動きも言葉も、全部かわいくってどうにかなりそうなんですから。ちょっとは自重してください。いいですね」

「え? は、はい……」

 小さな声で答える彼女の顔が赤く染まっている。

「で、葉香さんは天使で、ここは天国だと」

「あの、まーそうですねはい」

「てことは僕は死んだんですね」

「そうなりますね」

「はあ……」

 大きくため息をついて、空を見上げた。

「死にたくなかったなあ。ずっと葉香さんと一緒に、料理作ったり映画見たり耳かきしたり、怒ったり泣いたり笑ったりしたかったなあ」

 瞳からつうっと雫がこぼれ落ちるのがわかった。

「……あの、じゅーご君」

「何ですか?」

「言いにくいんだけど、その……」

 葉香さんは見たことのない表情でもじもじしている。

「大丈夫ですよ。何言われても平気です。だって死んでるんですから、はは」

「いや、死んでないんだよねほんとは」

「は?」

 僕は思わず眉をひそめた。

「天国とか天使とか、ほんの冗談のつもりでさ。ほんとはここ、きみの夢の中なんだ。きみ、熱を出して倒れたんだよ。今は私の家で寝かせてる。でも高熱の時は悪夢見るって言うでしょ? だから、せめていい夢見させてあげたいなーって、それで魔法を使ったんだ」

「……ちょっと、何を言ってるのか」

「つまり、魔法で夢を作り替えたんだよ。悪い夢から、良い夢にね。そのためには私も夢の中に入らなきゃいけなくてさ。で、ついでだから、ちょっときみのこと、からかっちゃおうかなーなんて。えへへ。……反省してます。本当にごめんなさい」

 葉香さんはぺこりと頭を下げた。同時にいくつもの純白の羽がさあっと宙に舞って、それはそれは幻想的な光景だった。

「……つまり、あなたは現実の葉香さんと正真正銘、全く同じ人なんですね?」

「うん、そーだよ」

「一つ訊きたいんですが」

「何かな」

「ここでの会話って、お互い目が覚めたら綺麗さっぱり忘れてますよね?」

「……」

 葉香さんは露骨に目を逸らした。

「うわー!」

 思わず頭を抱える。

 大惨事だ。

 もう、表で顔を上げて生きていけない……。

「まーでも今私が話したこと含めて全部まるきり夢でしたーって可能性もあるから!」

「あるんですか?」

「あるある! 希望を失わずに生きよー!」

「はあ……誰のせいだと思ってるんですか……」

「今回に関してはきみのせいもあるでしょ」

「それは、まあ、はい……」

 声が小さくなる僕を見て、葉香さんは「ふふっ」と笑った。

「ま、現実のことなんてどーにでもなるから。だから、まずは体を治して、ね」

 そう言って、僕の頭をぽんぽんと叩く。

「じゃー最後に、よく眠れる魔法をかけてあげよう。私がパチンと指を鳴らしたら、きみはスッと深い眠りに落ちる。夢も見ないくらい深い深い眠りだよ。そして十分に快復できたら目が覚める。その間のことは認知できない。つまり、きみの体感としては、指が鳴った直後に目が覚めることになる」

「そんな都合良くいきますかね」

「いくんだよ。私の魔法を甘く見ないでちょーだい!」

「どうだか……」

 怪訝そうな顔の僕に、葉香さんは優しく微笑んだ。

「じゃ、また現実でね! ばいばーい!」

 パチン。


「はっ!」

 目を開けると、薄ピンク色の天井。

「はあ……はあ……ここは……」

 息を整えつつ、体を起こす。どうやら僕は、葉香さんのリビングのベッドに寝ていた。柑橘系の良い匂いがして横を見ると葉香さんがベッドにもたれるように眠っていた。

「うわっ!」

「……ん、あや……」

「おはようございます、葉香さん」

「んー? あ、じゅーご君!」

 葉香さんはパッと顔を明るくして、僕の額にひょいと掌を当てた。

「ちょっ!?」

「おー、だいぶ熱下がったねえ。これならご飯も食べられるかな」

 そう言っておもむろに立ち上がる。

「おかゆ作ったんだ。今よそったげるね」

「え、いや、おかまいなく……」

「こんな時くらいかまわせてよー」

 そう言って、キッチンまで早足で行く。少しして、茶碗とスプーンを手に戻ってきた。

「はい、あーん」

「え、いや自分で食べますから……」

「あーん!」

 スプーンをぐいと僕の前に差し出す。

「あ、ありがとうございます……」

 僕は口を開け、それをぱくりと口にした。

「あ、美味しい……」

「ほんと? 嬉しいにゃあ」

 えへへと葉香さんは笑う。

 いつもの葉香さんの笑みだ。

「あの、葉香さん」

「んー?」

「覚えてます?」

「え、何の話?」

「……いえ、何でもないです」

 僕はそう言って、ふっと微笑んだ。

「んー? 変なじゅーご君」

 そう言って首をかしげる葉香さんの両耳は真っ赤に染まっていた。


 翼の生えた葉香さんが夢でも本物でも。

 魔法の存在が嘘でも本当でも。

 どっちだってかまわない。

 僕と葉香さんのアルバイトは、明日も来週もその先もずっと続いていくのだから。


 やがて僕の体も全快し、夏も近いある日に僕たちは適当に作ったエビチリを食べている。

「ねね、じゅーご君。もうそろそろじゃない?」

「何がですか?」

「チャームの魔法にかかるのがだよ。どう? 葉香様の魅力にぞっこんですお金なんか要りませんタダ働きさせてくださーいって言いたくならない?」

「パソコン、最近値上がりしたんですよね」

「そんなぁー」

 しゅんとして下を向く葉香さんを見て、僕はつい笑ってしまった。

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