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保管庫

魔法使いは、嘘をつかない”

作者: 守野伊音






 一歩、家から出る。それだけで鳥肌が出るほど緊張したことを知られたくなくて、さっさと足を進めようとしたら腕を引かれてつんのめった。

 危ないと文句を言おうと振り向けば、視界に影が落ちた。ついでに唇も塞がった。

 彼が体勢を崩してしまわないようにと支えに上げかけた両手が中途半端な位置で固まる。さっき鳥肌が出た場所全てを熱が塗りつぶしていく。

 唇が離れた後もわななく私を、特に何の変化もない表情で見下ろすアスティルを睨み上げる。そこで初めて彼の表情に変化が現れた。

 大変、呆れきった顔である。


「と、つぜん何!?」

「僕には不調を隠すなと言っておきながら、お前が隠したのは面白くなかった。それとお前、いい加減慣れろ」

「交際期間0秒、夫婦期間一月と半で何を慣れろと言うの!?」

「つまり、僕の頑張りが足りないと」

「すごーい、いい天気ー」


 こういうとき、話と視線は逸らすに限る。主に私の精神安定のために。

 久しぶりの外は、灰色の雲が空を覆っている。だけど、いやだからこそ、濃い匂いがするのだ。森から、土から、水から、髪を揺らす風が運んできた匂いに満ちている。湿度が多い、けれど少し冷たい風。懐かしい、生命の息吹。

 残念ながら魔法がかけられていたのは家だけなので、薬草園と畑は自然に還ってしまっている。どこから畑なのか、もう分かりやしない。草がぼうぼうに生えている中、ぽつんと建っている一軒家。

 随分久しぶりに見る我が家は、感慨と懐かしさと、やっぱり日常が詰まっていた。

 家と畑をぼんやり眺めていると、アスティルの手が肩に触れた。振り向くと、僅かに細められた目が心配そうに私を見ている。出会ったばかりの頃は感情が読み取れなかったなと、懐かしく思う。


「……いいか?」

「勿論。戸締まりはお出かけの基本だものね!」


 防犯大事。握りこぶしで返事をすれば、ふはっと笑い声が降る。


「そうだな。戸締まりは基本だ。じゃあ、後三歩下がれ」


 アスティルを支えようとしたら平気だと手で制されたので、代わりに荷物を持って三歩下がった。それを待って、まだ笑っている彼の右手が振られる。

 見慣れた境界が目の前に現れた。歩幅にして一歩もない距離。その向こう側は、私がずっと見ていた空間だった。

 漂う風は失われ、全てが固定された場所。時の流れから切り離された、無の空間。草木も含め、全て玩具のように見えた。お人形遊びで使われるような、精巧な偽物。

 切ないのか、もの悲しいのか、恐ろしいのか、それとも恋しいのか。時の流れから切り離された大切な家を見つめる。胸に浮かんだ感情に名前をつけるのは難しそうだ。


「ルビニア」


 振り向けば、栗毛の馬が立っていた。私の夫が馬になった。あなたっていつも突然。

 馬と向き合って固まっていると、反対側からひょいっとアスティルが顔を出す。


「どうした?」

「……あなたっていつも突然だなぁって」


 アスティルが魔法で出した馬は、綺麗な栗毛だ。魔法で作り出した雄の馬は、生き物とは少し違う。魔法道具に近い存在だと分かっているが、のんびり瞬きしている姿はどこからどう見ても本物の馬にしか見えない。だがこの馬、熊より強いと私は知っている。

 昔も彼が出かける際によく見たが、それでも突然出されるとびっくりするというものだ。しかしそのびっくりは彼に理解できないようで、目をぱちくりしている私に首を傾げている。


「馬になったかと思った……」

「は?」


 独り言のつもりがしっかり聞かれていた。慌てて何でもないと手を振り、荷に取りかかる。アスティルは左手がうまく動かせないが、魔法で荷を上げてくれるので私は固定に回る。何度か縄を引っ張って弛みがないか確かめていく。

 アスティルにも引っ張ってもらい、最終確認を済ませる。大丈夫そうだ。

 小さく息を吐き、馬に体重を預けるように立っているアスティルが心配で顔を覗き込む。


「アスティル、身体は平気?」

「大丈夫だ。さっき説明しただろう。聞いてなかったのか」

「だって……」


 シチューを食べながら、アスティルの状態について簡単に説明を聞いた。

 何度も死にかけて、その都度強引に命を繋ぎ合わせていたら、不気味がったシレイア側が勝利より何よりアスティルを殺すことを重視した作戦をとり、集中砲火を受けて殺された。

 アスティルはまだ試験段階だった魔法を作動し、魂を固定し、それを核として肉体を再生させたという。魔法で常時生命活動の補助を行い、平行して肉体の修復も行い、肉体と魂の固定を確実なものとして生ある者としての権限を強めている、そうだ。

 正直、なんということでしょう、あなたが何を言っているのかさっぱり分からないのという状態だが、渋る彼の服を脱がせればもう全部がどうでもよくなった。

 無事なところなど、一つもなかった。

 掌と同じく、肌は焼け、引き攣れ、残った傷跡がぼこぼこと這っている。首や手足にある繋ぎ目を、千切れたからなと何の感情も浮かべず言い切った人の頭を胸に抱き、力一杯抱きしめる以外出来なかった。

 肉体を再生させたと言っても、死ぬ前の状態に戻しているだけなのだ。正確に言えば、身体の再生自体は意識が強く反映されるため、自分が一番正確に覚えている状態を再現する。アスティルの場合、それが私と離れた年齢だという。

 だからその三年後に死んだと言ったが、あの頃の見た目のままだ。

 しかし、傷は違う。これらは刻まれたものだ。

 アスティル曰く、戦時下において己の状態を詳しく把握できる精神状態ではなかったとのことだが、それでも意識が覚えていなくても身体が覚えている。それは意識で制御できるものではない。傷ついたという事実が残っている以上、どうしようもないのだという。

 だから、生前負っていた傷はまだ治っていない。片目を失い、千切れた跡を残し、動かない手に、動きづらい足。そんな状態で旅に出なければならないのだ。心配するなと言われても、どうしたって心配してしまうのは致し方ないと思う。

 その後、昼間っから妙な気分になるからやめろと何の感情も浮かべず言いきった人の頭を真っ赤な顔でひっぱたいたのも致し方なかったと思っている。


「心配なんだもの……」


 最後は自分でも聞き取れないほど小さくなった。アスティルは肩をすとんと落としながら息を吐き、私の額を人差し指で弾いた。


「あいた!」

「倒れたら妻が看病してくれるそうだから大丈夫だ」

「それは当たり前にするけれど、倒れる前に申告してね!? いきなりはやめてね!?」

「すごーい、いい天気ー。さっさと馬に乗れ」

「えぇん……」


 ぴしゃりとやり返され、めそめそ馬に乗る。馬に……いつも思うが、馬、たっか。

 貧乏故に馬を買うことが出来ず飼えなかったので、あまり乗る経験がなかったツケは慣れに現れる。初めて馬に乗ったのは、彼のお世話をしにここへ通い出してからだった。それまでは老齢のロバに荷を引いて貰いながら、のんびり歩いたものだ。そのロバもとっくに死んでしまい、後は徒歩一直線である。

 その馬も普通の馬ではないため普段はしまわれており、お世話などの触れ合いもなかった。結果、私はあまり馬が得意ではない。いつもアスティルに乗馬を手伝ってもらっていたが、今は私が彼を手伝うべきだ。

 ふんっと気合いを入れ、華麗によじ登る。……ひらりと跨がるとかどうやるのだ。足が短いのがいけないのだろうか。そりゃ、馬と比べたら私の足なんて短短短足だろう。馬に乗る度ちょっぴり悲しい思いをするから、いつまで経っても得意にならないのかもしれない。

 カナブンよろしく四肢をいっぱいに使ってよじ登る私のお尻を無言で押し上げたアスティルは、さて今度は私が手助けをと振り向くため体勢を整えている間に私の後ろに座っていた。流石魔法使い。恐れ入る。

 うんうんと頷いていると、心なしか冷たい声が頭頂部に降った。


「言っておくが、使った魔法は手足の補助だけだぞ」

「魔法で飛んでいたならまだ心安らかでいられたのに!」


 しくしく嘆きながら、手綱を取る。流石に左手が動かない人に手綱を握らせるわけにはいかない。普通なら二人乗りで荷を積んでいる馬の手綱など、素人に裁けるわけがないが、如何せんこの馬は普通ではないので問題なかった。

 軍馬のような力を持っているのに、なんとも素直に私の指示に従ってくれる。

 ゆっくりと、しかし確実に進み出した馬にほっとしつつ、ちらりと家に視線を向けた。

 いつか帰ってこられるのかな。私にとって、初めて住めて嬉しいと思えた家だったから愛着は一入だ。けれど、ちょっとだけ、たとえ留守番であってもこの家で一人で過ごせるようになるには少し時間が要るだろうなと思うと複雑な気持ちにもなる。

 アスティルが、私のお腹に回している腕の力を強めた。はっとなり、家から視線を外す。私が心配をかけてどうするのだ。


「じゃあ、出発進行ー! それで、どこへ行くの?」

「さあな。特に決めていないが……どこか行きたい場所はあるか?」

「うーん……そういえば今の季節ってなに?」

「……恐らく、春だと、思うが」


 やけに歯切れの悪い言い方に嫌な予感がする。仰け反って後ろを見れば、何故か額をぺしりと叩かれた。痛くはないが反射的に目を閉じる。しかし口は閉じない。


「アスティル、身体の修復に十年かかったって言っていたけど、動けるようになってから何日経ってるの?」

「…………一晩は、経った」

「駄目でしょう!」


 不可抗力とはいえ夫婦揃って季節を把握できていない現状そっちのけで怒る。

 帰ってきてくれたことは、それはもう筆舌に尽くしがたいほどに嬉しい。それは事実だ。だが、誰が重体から重傷へ移行して即座に帰ってきてほしいと言った。

 そもそも、重傷へ移行してすらいないかもしれない。


「……寄り道せずに帰っただけだ」

「療養は寄り道とは言いません!」


 むすっとした顔をしても、駄目なものは駄目だ。


「……普通は、早く帰らず酒を飲んでくる夫に不満を言うらしいぞ」

「あなたの口から普通はって言葉が出たことにびっくりしたんだけど、もしかしてお友達出来たの?」

「部隊内で妻帯者が勝手に集まっていた。うるさかった」


 飲みと療養は全く違うし、夫婦定番といわれるその諍いの根幹問題もまた違うと思うのだが、まあそれはおいておこう。

 まだむすっとしているアスティルの頬を下から突っつく。


「一緒に愚痴を言い合ってすっきりすればいいのに」

「……お前は」

「ん?」

「僕に対し、愚痴はあるのか」


 初めて聞かれた問いに目をぱちくりさせる。夫に対する愚痴、不満。ないわけではないが、それをこの人が気にしているとは思わなかった。

 一体、妻帯者の集まりで何を聞いてきたのやら。

 やけに離縁を心配していることからも、どうやら他の人が妻から言われた愚痴や不満に、自分も心当たりがあったのかもしれない。


「例えば?」

「……靴下を裏返したままにするな、とかだ」

「衣類って裏返して干すと長持ちするのよ。表だと干してる側から傷んだり色あせしちゃったりするから、手間はかかるけど裏返して干すほうが私は好きよ。あ、でも、片方裏返しで片方そのままだとこのやろうって思うわね。あと、いっつも考え事しながらお風呂入るの、脱衣所が脱皮後みたいになってて面白いけど、脱いだときズボンの中からパンツは出しておいてほしい。そして考え事しすぎて浸かったまま長風呂しないように気をつけてね。えーとそれとお茶飲んだ後のコップは放置しないでせめて水に浸けてほしい。茶渋ついちゃうから」

「直、す」

「後はねー」

「……起きてから眠るまでの全てを洗い出して申告しろ。いま、この場で!」


 医者から余命宣告を受けると分かった上で待機している患者のような、悲痛な面持ちと決意を持って私を見下ろす人のほっぺたを仰け反ったまま両手で潰す。

 いつもなら何をするとはたき落とされるのに、今日は甘んじて受けるつもりのようでそのままだった。


「急いで帰ってきてくれたのは本当に嬉しいし、私もかなり限界だったのは事実だけれど、自分の身体を大事にしてくれないのは大変不満です」


 いーっと怒ればキスをされた。ちょっと意味が分からない。

 離れていくアスティルを見送り、無言で体勢を戻す。視線は進行方向へ。馬の頭越しに道を見つめる。宣戦布告も無しに攻撃を仕掛けてくるのはどうかと思う。

 現在夫への不満はこれ一択である。

 咳払いし、赤くなった耳は髪で隠す。母譲りの髪は柔らかく、普段は好きではないがこういうときは便利だ。


「今が春なら、これからの季節は北が過ごしやすいんじゃないかしらね」

「ああ、そうだな。……夏は苦手だ」

「暑いものね、分かるー。でも私、夏独特の文化は大体好きよ。夏野菜も好き! みずみずしいものが一際美味しい季節よねぇ。思いっきり夏を楽しむためにあえて南を目指すのもありかしら! 私、海を見たことないし、海で夏が旬の魚って何かしらね!」


 笑ったのか、アスティルの身体が小さく震える。


「お前といると、僕まで夏に浮かれそうになるな。昔は夏なんて大嫌いだったが」

「夏野菜いっぱい食べようね!」

「お手柔らかに頼むよ」


 強くなりたい。彼に守られて、その外套にしがみついてずっとめそめそするようなことは、もうしたくない。

 今度は一緒に連れていってもらえるくらい強く……今度なんて、なければいいなぁ。

 馬を徐々に早めていくにつれて、風が強くなる。視界が上がれば遠くまで見渡すことが出来た。

 あちこちで揺れる花、柔らかな黄緑。なるほど、確かに今は春のようだ。すると後ろから舌打ちが聞こえた。


「ルビニア、後で僕の髪を切ってくれないか。そろそろ鬱陶しい」

「はいはーい。いつもと同じくらいでいい?」

「ああ、頼む」


 まっすぐに背筋を伸ばし、手綱をしっかり握る。早くなった馬の足により、私達の家はあっという間に見えなくなった。







 一日で国を駆け抜ける、という程ではないが、規格外の速さで走り続けることが出来る馬に乗りいくつかの夜を野宿すれば、私達はあっという間に知らない土地へ辿り着いた。

 辿り着いたのは港町だ。

 巨大な船が毎日停泊しているような場所ではないが、見知った人間しかいないような寂れた土地でもない。程よく人の出入りがある、けれど身分が高い人間が好んで訪れる施設があるわけでもない場所。

 アスティルの体調を整えるためと、変わった国の様子を確認するための逗留をここに決めたのは何個は理由がある。だが一番の理由は大きな図書館があることだった。

 商船の出入りがあるほどには大きな場所だ。だから、珍しい本もよく届いている。十年の魔法の変容を確認したい。そう言ったアスティルの目がきらきらしていたので、私も大賛成した。

 結局、この人は研究と学問が好きなのだ。知らない知識を仕入れることも、それらを使用するすべを模索することも、その為に失敗することですら。どうあっても学者であり、研究者であり、医に通じた魔法使いだった。

 好きなことをすればいい。いや、してほしい。あの時代は、あまりにあなたに厳しかったから。学者であるあなたに、研究者であるあなたに、医術を持つあなたに、魔法使いであるあなたに、とても酷な時代だった。

 今もそうでないとは言い切れないけれど、出来るだけあなたに優しい時代になっていればと願ってやまない。



 私達は小さな部屋を借り、二人で暮らし始めた。しばらくは働かなくても何とかなるくらいの貯蓄はあったが、毎日図書館へ通っていたアスティルは、館長に誘われて本の修繕の仕事に就いた。

 何でも沖合で本を積んだ船が沈没し、それを引き上げたはいいが大量の本が海水に浸かってしまったのだそうだ。魔法使いの人手が足りないところに、ひょっこり現れたのがアスティルだったらしい。魔法使い同士は互いにそうと分かるので、目をつけていたそうだ。

 一日に修繕する量は決まっていて、それをこなしてさえしまえば後は好きなだけ本を読むことが出来ると聞き、アスティルは二つ返事で引き受けた。修繕する量が決まっているのは魔力が枯渇すれば動けなくなる魔法使いが多いからである。だから平均的な魔力消費で済むように規定されているのだろう。

 だがアスティルは元々凄まじい魔力量がある人だ。さっさと本の修繕を終わらせ、いそいそ本を読んでいるらしい。あまりに本を読むので、呆れかえった館長が閲覧に許可が要る本まで解放してくれたくらいだ。彼も学者だというので、思うところもあったのだろう。


 現在、モニアーにいた魔法使いはシレイアの管理下に置かれている。その名と住所は常に把握され、シレイアから発行された登録書がなければ職にも就けない。登録書を確認し、シレイアの許可があって初めて仕事に就けるのだ。

 実力のある魔法使いは過去に戦場に出ていたことも多く、その影響で不当な扱いを受けたり、逆に他の職に就けないよう囲い込まれている。それを嫌って登録から逃げ回っている魔法使いも多数いると聞く。

 アスティルもその一人だと判断されているのかもしれない。

 特にアスティルの場合は見た目で分かる怪我を負っている。あの時代、魔法使いはたとえ子どもであろうが掻き集められた。戦場に出ていた魔法使いはシレイアから逃げている者も多く、彼らに同情的な人も確かにいる。

 本来アスティルもその登録書がなければ図書館で仕事など出来ないのだが、館長は目を瞑ってくれ、その上貴重な本まで読ませてくれるのだ。本当に、頭が上がらない。

 私は町のお店で働き始めた。

 昼間は食事を提供し、夜は酒場となる店だ。お店を経営しているご夫婦はとてもいい人達で、ふらりと町にやってきた私を雇い入れてくれたばかりか、よく面倒を見てくれる。夜は危ないからと、私は昼のお店でしか働いたことがないくらいだ。

 夜の仕込みのため、昼の部は早めに閉め、そこで私の仕事は終了となる。その後、夕食の買い物をしながら図書館へアスティルを迎えに行って部屋へ帰る。それが、今の私達の日常だ。


 


 扉に取り付けてある小さな鐘がからりんっと音を立てる。机を拭いていたふきんを握りしめたまま振り向く。

 結んだ髪が跳ね、自分の頬を打った。ぶっと呻きながらも、自分で自分を攻撃することには慣れてきた。この髪の長さは駄目だと分かったので、切るかもっと伸ばすか悩ましいところだ。


「いらっしゃいませー、あ、こんにちは!」


 お店に入ってきたのは、近くで家の修理をしている大工さん達だった。いつも、お昼と休憩に寄ってくれるのだ。


「テーブルくっつけちゃいますねー」


 さっき片付け終わった二人用のテーブルを寄せようとすると、その前に手慣れた動作で制される。


「あー、いいよいいよ。自分でやるから。おーい、いつものよっつー!」

「あいよー! あんたー、いつものよっつー!」

「おーう! おれ、いつものよっつー!」


 どっと笑い声が上がる軽快なやりとりは、私がこの店で働き出す前からあったものだ。彼らはこの店の常連だし、大将さんの友達なのである。日によって人数の変動はあって、一番若い青年はここ一週間よく一緒に来ていた。

 仲良しな様子は毎日見ても飽きず、いつもくすくす笑ってしまう。私より余程手際よく机を合わせた四人は、それぞれお気に入りの席に座った。

 その間にお水の用意をして、御礼を言いながらそれぞれの前に置いていく。その時、一番手前にいる青年が花束を持っていることに気が付いた。


「わあ、可愛いお花ですね!」


 大ぶりな花こそないが、野原で揺れている様を思わせる可憐な淡い色でふんわり纏められた可愛い花束だ。お店のテーブルは二人掛けのものが多く、それに合わせるように椅子も小さめだ。荷物を置く場所があまりないし、花束では背もたれとの間に置くことも出来ないだろう。


「宜しければ、お食事中こちらでお預かりしましょうか?」


 四人の中で一番若い彼の手に握られているその可愛いお花が、潰れてしまうのも、それを気にしすぎて彼がゆっくり食事できないのも気の毒だ。

 お水を置き終えたお盆を脇に挟み、受け取る用意をすると、残りの三人組がにこにこしていた。

 いや、にやにやか。いや、にこにこ、にやにや……その様子を見て、ピンとくる。さてはこの花、色恋沙汰の類いだな。

 誰かからもらったのか、はたまた誰かに渡すのか。いつもは元気に天気の話をしてくれる青年が、今日は何やら口籠もっているので、私は自分の勘の当たりを悟る。彼の先輩に当たる三人は、決して悪い人でないが子どもの悪ノリを多少残したままの大人なので、下手な対応をすれば彼がからかわれてしまうかもしれない。

 ここは話題を変えるのが一番だ。


「そういえば」

「あの、この花!」

「はいお預かりしましょうか!?」


 話題を変えようとしたら青年本人から引き戻された。お任せください! 完璧な状態でお預かり致します! 何故ならこの店、ここ最近諸事情でお花と縁があるので!

 両手を差し出せば、思っていたより強い勢いで花束を渡された。慌ててふわりと抱き直す。


「あの、これ、差し上げます!」

「え?」


 花の見た目と同じく、ふんわりとした香りが鼻腔を擽る。思わずくしゃみをしかけた。昔は毎日のように嗅いでいた香りが、何だかとても懐かしく感じ、くすぐったいような温かいような、柔らかい気持ちになれる。

 そして、私に花をくれた人の気持ちに気付き、優しい気持ちにもなれた。その気持ちは顔にも表れていた。思わず笑顔になって御礼を言う。


「ありがとうございます、可愛いですね!」

「それで、あの、この後よろしければお茶を!」

「あ、お茶も入れますね! 少々お待ちください」


 頂いたお花を大事に抱え、一旦隣の部屋に移動する。そこには一抱えほどある花がバケツに入っていた。一つの花束ではなく、四つの花束の集合体だ。そこにさっき貰った花束を入れる。

 ご機嫌で戻ってくると、何ともいえない顔をした四人と目が合った。首を傾げつつとりあえずお茶を淹れ、お花の御礼にお菓子も添える。


「これ、お花の御礼です。私が作ったのでお店のほど上手じゃありませんが、よろしければ」

「いいんですか!」

「はい! それと、優しいあなたには特別にもう一個つけちゃいます」

「あ、ありがとうございまっ……優しい?」


 ぱっと嬉しそうになった青年の表情が陰る。しまったお菓子苦手だっただろうか。内心焦りつつ、話を続ける。


「だって、お花屋さんのために買ってきたんですよね!」

「………………はい?」


 いいのだ。皆まで言うな青年よ。


「あの、すみません。花屋のためって……?」


 そう思ったが、青年自身が話を続けたので、ならば私が彼の善行を語ろうと口を開く。


「角のお花屋さんに新人さんが入って、その子に練習させてあげるために皆さん花束買ってこられるんですよね。私に花束くださる方達が教えてくださったんです。あなたもそうなんですね。この町の人、みんな優しくて素敵。ここはとってもいい町ですね!」


 空になったお盆を抱えてふふっと笑う。皆の優しい気持ちに自然と微笑みが生まれる。

 お花屋さんに入ったばかりの新人の女の子は、どうやら少しばかり不器用な子らしくて、花束を作るのが苦手らしい。だから皆、ちょっとした花束を注文して練習に付き合ってあげているのだそうだ。

 確かに最初もらった花束は少しよれっとしていたが、今ではぱりっとした物からふんわりした物までお手の物になっている。皆の優しさが、一人の少女に技術と自信を与えたのだ。ここは本当に素敵な町だ。


「皆さんの優しさの恩恵を私まで頂いちゃって、ありがとうございます。お花、大事にしますね!」


 ぺこりと頭を下げたとき、町に鐘の音が響き渡った。時計台の鐘三つ。私の仕事時間の終了でもある。

 いつも通り、店内にいるお客さんは目の前の四人だけだ。ひとまずここの給仕は終わらせていこう。そう思っていたら、いつの間にか厨房から出てきていた女将さんが私のお盆を受け取ってくれた。


「今日もお疲れさん」

「皆さんのお料理出来るまではまだ」

「なーに言ってんだい。金にならない仕事はしないさせないってのが商売人だよ。それが出来ない奴はただの無能さ。ほら、帰った帰った」


 背中をぐいぐい押され、店内を後にする。女将さんはいつも大鍋を振るっていだけあって、力が強い。ちょっとでも力を抜けば隣の部屋まで吹っ飛ばれそうだ。

「あ、あの、じゃあ失礼します! お花、ありがとうございました! 大将さん、女将さん、お疲れ様です!」

「おー、今日もありがとよー」


 いつも通り、女将さんによって隣の部屋に押し込まれる。鐘が鳴ったらすっぱりお仕事終了になるのは、まだ少し慣れない。



 エプロンを外し、結んでいた髪を下ろす。ずっと縛っていたから縛っていたことすら忘れるくらい違和感はなかったが、それでも外すと開放感が溢れる。

 髪に手を突っ込んでわさわさと解し、鏡を覗く。前髪を留めている髪飾りがずれていないことを確認して、鞄を持つ。そして一抱えのお花を抱え、入ってきた扉とは反対の扉から出る。そこには廊下が続いていて、突き当たりの扉を開くと外に通じていた。

 このお店は鐘三つで一旦お店を閉めるのだ。本当ならこの時間だともうお店は準備中の看板になっているのだが、あの四人は常連さんだし大将のお友達なので許可が出ている。その証拠に、お店の前に回れば看板は裏返っていた。

 外から硝子越しに手を振る。皆が手を振り替えしてくれたが、青年だけは何故か複雑な表情をしているのが花束越しに見えて首を傾げてしまった。



 鼻歌を歌いながら市場を覗く。港町だけあって、魚が安く新鮮だ。ど田舎の山育ちの私には、物珍しい物ばかりだ。魚に限らず、野菜も果物も、お肉でさえも珍しい物がある。


「いらっしゃい。今日はどれにする?」

「あの、このお魚はどうやって食べると美味しいですか?」

「それは煮ると柔らかくなりすぎるから焼く。スープに使いたいならこっちがお勧めだね。出汁もよく出るよ」


 お店の人にどう料理するのか聞きながら、今日の夕食を組み立てていくのも楽しい。ここの店員さんは、五十代ほどの女性だ。恰幅よいからか声も大きいので、様々な音が混ざり合っている市場でもよく声が通る。


「じゃあ、これを二匹ください」

「はいよ。しっかし、暑いのに今日もスープかい?」


 それは私も思う。


「スープ好きなんですよ」

「暑いのに毎日頑張ってるから、おまけでこれもいれとくよ」

「あ、ありがとうございますっ!」


 おまけで先日料理の仕方を習ったお魚を入れてくれた店員さんにお礼を言う。実は、他の店でもちょくちょくおまけを貰ってしまった。本当に皆、気のいい人ばかりである。

 お金を払いながらその一環である花束をがさりと持ち直せば、店員さんはあっはっはと大きな声で笑う。


「ここいらは海の女ばかりで荒くたいから、あんたみたいな柔らかい女の子は大変だねぇ」


 柔らかいって何だろう。……お肉か。

 無言で二の腕を揉んでいると、女性は更に大きく笑った。

 ふと視線を下ろせば、私が来るまで女性が座っていた傍の台に美しいガラスのコップが置かれていた。


「…………クリュスタロス」


 ぽつりと言葉が落ちていた。その言葉を拾った女性は、いつだって勢いよく跳ねている眉を、困ったように下げる。


「あんたくらいの年齢だとやっぱりまだ分かるもんだねぇ」

「そう、ですね」


 私も彼女と同じ顔で笑う。そうするしかないのだ。

 モニアーの夏は、ガラス細工がそこかしこで見られた。魔法使いではない人々が、暑い夏を少しでも涼しく過ごせるように水のように涼しげなガラス細工を作り始めたのが始まりだと云われている。

 お祭りの日は、それは大きなガラス細工が作られた。それらを囲んで人々は暑い夜を踊り騒いで過ごし、次の日そのガラスは全て溶かされ、美しいガラス細工として再び生まれ変わる。今度は、人々が家庭に持ち帰れる、様々な物へと変化して。

 祭の夜にしか現れず、そのガラスで作られる細工は名残の滴。人々は、祭りで作られたガラス細工を宝石にたとえ、クリュスタロスと呼んだ。

 けれど現在、モニアーの夏祭りは行われていない。町中を彩るガラス細工も存在しない。

 シレイアの夏が取り入れられ、色とりどりの薄い布があちこちで揺れている。涼しげな風を感じられるようにとのことらしい。

 確かに、まるで水の中にいるかのようだ。目指したものは同じで、それらが活用される季節も同じなのに、ここにモニアーの夏はない。祭りも、巨大なガラス細工に心を輝かせた夜も、沢山のガラス細工の中からたった一夜の名残の滴を求める淋しい高揚も。何もない。

 これが敗戦だ。侵略を受けた国の、正しい在り方なのだ。


「ここいらは国境から遠いからねぇ。戦火は少ないもんだったよ。それでも男達を戦場へ取られたから、戦災が少なかったとは言えないけどね。あたしの夫も帰ってきやしなかったし。全く、どこで野垂れ死んじまったのやら。場所が分からなきゃ、骨を拾いにも行ってやれないってのに」


 女性は僅かに目を細め、通りを駆け抜けていく幼子達を見つめた。


「今はきっといい時代なんだろうね。何せ終戦直前のこの国は酷い有様だったから。飢えもせず、理不尽な搾取もなく、強制的に命懸けの地へ取り立てられることもない。料理だって、町の名前だって取り上げられずここにある。シレイアはまあ、寛容な国なんだろうね……だけどさ、廃れたわけでもない祭りを塗り替えられるのは、淋しいもんだね」


 五、六歳ほどの子ども達は、きゃらきゃらと軽やかな笑い声で駆け抜けていく。あの子ども達は、モニアーの夏祭りを知らない。あの子達にとっては、今の布が溢れるこの姿が、故国の祭りなのだ。


「あの頃はこんな国さっさとなくなっちまえって思ったもんだけど、敗戦ってのはこういうことなんだって身を以て知るのは平和になってからだったんだねぇ」

「……ええ、同感です。私も随分、思い知ったので」


 良くも悪くも何も知らない子ども達は、かつてモニアーで溢れていた数多のガラス細工のようにきゃらきゃらと輝きながら雑踏に消えていった。




 わさわさと揺れる花束と食料達を抱え、よろよろ歩く。

 残念ながら腕は二本しかないので、引っかけられる物は鞄に取り付ける。そんな状態で市場を歩いていると、度々目に入るものがあった。

 シレイアの国旗だ。

 ここに来て一ヶ月近くになるが、まだ見慣れない。ああ、本当にモニアーはなくなったんだなぁと、見る度ふと思い出す。思い知るといったほうが正しいのかもしれない。

 町行く人々の格好も、シレイアの流行が多く取り入れられている。小物だって、見たことのない装飾が施されていた。足下を見れば、敷き詰められた石畳には何カ所が新しい部分がある。シレイアの紋様が描かれたそこにはかつて、モニアーの紋様が嵌まっていたのだろう。

 モニアーの歴史が、シレイアに塗り替えられる。戦争に負けるとはこういうことだ。侵略を止められないとはこういうことなのだ。

 たとえ、祖国がどれだけまともに機能していなかったとしても、それまで脈々と継がれてきたものが、文化が、文明が、日々の習慣が、ぶつりと途切れる。それに対して声を上げることすら出来ない。塗り替えられていく常識を、黙って見送るしかないのだ。

 何もかもの決断がシレイアの後でしか許されない。シレイアの是非がなければ決定することすら出来ない。

 そんな理不尽を、仕方が無い常識と受け入れることだけが、侵略を受けた敗戦国の民に許される唯一だ。

 その仕組みに終わりはない。モニアーがシレイアに勝利しない限り、敗戦は永劫続くのだ。


 末期だったあの日々を愛していたわけではない。それはほとんどの人間が同じだろう。今の方がよほど穏やかな暮らしが出来ている。それは確かだ。

 けれど、あの時代、あの国を運営した人々の末路を悲しむことは出来なくても、私は、あの国は愛していた。

 そうと気付くまで、少しかかった。

 着慣れた刺繍を、スカートの形を、祝日を、祭りを、季節と共に流れる習慣を。総じて文化文明と呼ばれるそれらを、私は、モニアーという国だけは、確かに愛していたのだ。

 急に荷物がずしっと重たくなった気がして、小さく息を吐く。しかし黙々と歩いた。それしか出来ることはない。


 やがて目的の場所に辿り着いた。

 一段一段が広いのに段差は低い階段が続く先にあるのは、この町で一番大きな建物だ。建物の大きさの割に窓が少ないのは、ここが図書館だからである。

 本に日光は禁物だ。虫干しなどのため偶に当てる分は薬にもなっていいが、常に当たっていると本が焼けて劣化してしまう。

 本は財産であり財宝だ。物としても、知識としても、歴史としても、思考としても。本は時代の遺物だと私に滾々と語った人は、床に山積みにするけれどまあそれはそれだ。

 荷物を持ったまま広い階段をえっちらおっちら上り、正面ではなく裏手に回る。魚やら花やらを持って図書館に入るわけにはいかないのだ。それに、どうせ目的の人物は裏にいる。

 塀と建物の間の細道を抜けると、広い裏庭に出た。荷物の搬入も行われるから裏門も広いものだ。守衛さんに頭を下げると、慣れた様子で帽子を取って振ってくれる。


「今日もお迎えかい? 君も彼も、毎日えらいねぇ」

「もうだいぶいいんですよ。でも、私が迎えにきたくって」


 えへへーと笑いながら、もう一度頭を下げて扉へ向かう。両手が塞がっているので、行儀が悪いと分かっているが肩で押して扉を開ける。取っ手にだけかろうじてでも指が届けば勝利だ。

 建物の中は、いつもしんっとしていて薄暗い。夏真っ盛りではないとは言え、もう夏にさしかかったいま気温は汗ばむほどなのに、ここは少し肌寒いくらいだ。

 図書館には専属の魔法使いがいる。彼らは本の修繕や、温度、湿度を管理していた。古い本や稀少な本には保全の魔法もかける。手が足りていれば全部の本にかけたいだろうなと言っているのを聞いたことがあった。

 この図書館では、専属の魔法使いと館長さんが魔法使いだ。

 二人とも年配の男性で、旅人もそれなりに多いこの町で、戦時中もずっと図書館を守り続けた凄い人なのである。

 扉を入ってすぐの椅子に荷物を置かせてもらい、本を一冊抜き出す。前方にある大きな扉には行かず、左の廊下を進む。あちらは図書館に繋がっているのだ。厚い絨毯に音が吸い込まれる廊下の途中でぴたりと止まる。

 何の装飾もない素朴な扉だ。そこをノックするも返事はない。いつものことだから気にせず扉を開く。いつものことならノックしなくてもいい気はするが、そこは一応礼儀と言うことで。


 部屋の中は、扉に負けないほど素朴だった。装飾のついていない薄い机と軽い椅子。そして小さなベッドがあるだけだ。だってここは仮眠室なのである。

 夏だというのに長袖で首まで覆う服を着ている人はベッドに腰掛け、私に気付いていない。アスティルは最近ようやくまともに動くようになった左手で本を持ち、右手でページを捲っている。まだ細かい動作を自然に出来る程には機能が回復していないのだ。ベッドの横に立てかけられている杖を蹴飛ばしてしまわないよう気をつけつつ、アスティルの前に立つ。

 それでもまだ気付かない人に苦笑する。これでも私以外の人が来たらすぐに気付くらしいので、何だかくすぐったい気持ちになるのだ。


「ノーヴァ」


 ここで名乗っている彼の偽名を呼びながらとんとんと肩をつつけば、ようやく気付いた視線が私を向く。眼帯に隠れていない左目と一緒に顔の向きも変わり、そのまま上がってくるので私もかがんで軽くキスをする。

 これくらいのことは普通に出来るようになった。まあ元より夫婦なので。人前だったら? 皆まで言うな。私達は夫婦だ。

 生死が懸かっていたら出来ないこともない。


「もうそんな時間か」

「そうだね。もっと読みたいなら待ってるけど、荷物に魔法かけてー。お魚買っちゃったの」

「いや、帰る」

「そう?」


 杖を手渡して、本を受け取る。杖を支えに立ち上がったアスティルにもう一度本を渡す。そして、私が持ってきた本も一緒に渡した。


「返却、お願いします」

「今日は?」

「今日は借りなくていいかな。よろしく。あ、転ばないでね」

「僕は何歳児なんだ」


 一緒に部屋を出て、私は荷物の元へ、アスティルは館外持ち出し禁止の本と一緒に私の本を返しに戻っていく。最近は持ち出し禁止の本ばかり読んでいるので、家には持って帰らないのだ。

 一緒に読書もいいけれど、今は話すほうが楽しいので私も読みきった本を返した後は新しい本を借りないことにした。

 後ろ姿を見ると、もうほとんどふらついていなくてほっとする。まだ身体の修復は終わっておらず、体内の機能も完全に回復したとは言い難い。けれど修復終了した箇所が多くなればなるほど、常時使い続けている魔力が減るので楽になる。

 とにかく可動域を増やすと言っていたので、後回しになっている目が治れば完治なのだと思う。

 魔法使い独特の、多数の色を持つ珍しい瞳。

 出会ったばかりの頃、気味が悪いだろうと彼は吐き捨てたが、果実が色づいていくような色合いを好ましく思っていた私は盛大に視線を彷徨わせた。

 その事実は結婚した晩に白状することになったのだが、結婚というとんでもない行事を突然行ったにもかかわらず、私に好かれている自信がないのはどういうことなのだと憤慨した思い出しかない。


「ニア、待たせた」

「うーうん。じゃ、帰ろうか」


 荷物を持とうとしたら、重い方がひょいっと持ち上げられた。身体が鈍らないように訓練が必要だと言われてから、こういうときは素直に持ってもらうことにしている。

 奪い返すと不機嫌になるので面倒くさ……臨機応変って大事だと思うのだ。


「ありがとー」

「それにしても、凄い花だな。飲食店で毎日そんなに花を必要とするのか?」


 アスティルは私が腕に抱えた花を見て、訝しげな顔をした。私も一緒に首を傾げる。その動きで花の香りが立ち上った。土と葉の匂いで緩和されないと、柔らかでいて濃厚な香りは香水の原液のように重い。

 思わずくしゃみしてしまう。鼻を擦りながら、花を見下ろす。


「お店には飾ってないよ。あ、カウンターにはちょっとだけ飾ってるけど、そんな毎日変えないわよー」

「お前、毎日持って帰る花は店から貰ったって言ってなかったか?」

「お店から貰ったんじゃなくて、お店で貰ったの。お客さんがね、くれるの」


 守衛さんに挨拶をしつつ図書館を後にする。裏門から出て少し歩けば、私達の家があるのだ。だから私が迎えに来て一緒に帰るのが一番効率がよかった。

 お店と図書館は反対方向だし、アスティルはそんなに長距離を歩ける身体ではなかったのだ。だから本当に、私を迎えに来てくれたのは最大限の無理であり、無茶だった。

 私はお花屋さんのくだりも合わせてお花を貰った経緯を説明した。途中から黙ってしまったアスティルは、どうやら何か考え事をしているようだ。

 難しいことを考えているのか眉間に皺が寄っているから、不機嫌にも見える。どうせ今日読んでいた本のことを考えているのだろう。

 自分の中で結論が出るか、話した方が整理できそうなら話しかけてくるだろうと結論づけ、隣を歩く。歩く場所は、決まってアスティルの右側だ。以前は立ち位置なんて意識したことはなかったけれど、今は彼の死角を歩きたい。

 しかし、ぐいっと腕を引っ張られて左側に置かれた。思考の海に沈みながらも自分の望みは要求する。魔法使い、そういうとこある。


「見えないと言ってるだろう」

「見えないからそっちにいるんだってば」

「僕からお前が見えないと言っているんだ。言うことを聞け」

「やなこったー」

「あ、こら!」


 くるりと後ろに回って右側に収まると、また腕が伸びてきた。荷物を持っているからと遠慮していたが、そっちがその気ならこっちにだって考えがある。伸びてきた腕をえいやと捉え、胸にいだいて抱きつく。


「荷物重くなさそうだから、腕組んで帰ろうよ」

「……これは組んでいると言わない。どちらかというと、確保だ」

「成程」


 市場とは違い、もっと雑多でこぢんまりした屋台がぽつぽつ点在している。店と同じで建物も雑然としており、大小様々な建物がぎゅうぎゅう詰めに建てられていた。ここは旧通りと呼ばれる場所だ。戦争より前からそう呼ばれていたという。 

 開発が行われた町並みはどんどん綺麗になっていったけれど、ここは海からも街道からも外れていてある意味再開発から取り残された場所だ。

 そうはいっても、住宅はひしめき合っているし、店も建物の間に嵌まるように点在している。旅人や流れの民が多く集まっているので大通りに比べたら治安が悪いのは難点だが、ここを一人で歩いたことはないので今のところ何事もなく過ごしている。

 建物の間を縫うように作られている錆びた鉄の階段を上っていく。

 細く急な階段は、身体がうまく動かせないアスティルにはつらいだろうと、最初の頃ははらはらしたものだ。今でも杖が邪魔そうではらはらしてしまうが、以前に比べると安心して見ていられるようになった。もし落ちても魔法があるのだが、それでもはらはらするし、ずっとすると思う。


 薄暗い通路を通れば、前から五人組の男が現れた。狭い廊下は道を譲らねば行き来も出来ない。男達は道を譲ったこちらをちらりとも見ず、足早に立ち去っていく。

 礼も言わない不届き者かぁと呆れたが、何階の住人かすら知らない。この場所は地続きの人ではなく流れ者が多く住むので、隣人の名前すら分からないのだ。

 辿り着いた薄い扉に鍵を差し込む。がちゃりと重たい音がして、鍵が開く。

 部屋の中は廊下に負けず劣らず薄暗い。後から部屋へ入ったアスティルが、鍵と魔法で施錠と防音をかける音を聞きながら靴を脱いで先に上がる。

 アスティルの身体のことを考えて、すぐに床に倒れ込んでも大丈夫なよう靴は玄関で脱ぐようにしているのだ。

 先に上がって荷を置き、アスティルの杖を受け取る。部屋は狭いので、すぐ壁に手をつくことが出来るから杖はあまり使わないのだ。窓も一応あるにはあるが、すぐ目の前に隣の建物の外壁があって、開ける意味がほとんどない。

 狭い部屋の奥に並んでいる花だけが彩りと言っていい、殺風景な部屋だ。私達の荷物は、あまり広げず部屋の隅に置いてある。

 アスティルが軽く指を鳴らせば、部屋の中がぱっと明るくなった。


「魔法って、本当に便利。いいなぁ」

「今は一般家庭でも利用できるよう、魔法保全の技術が研究されているらしい。昔もその構想だけはあったが、戦場で使える技術の研究ばかりが先行して中々着手されなかった。これが完成すれば、魔法使いがいない家でも魚を冷やせるし、火を使わず明かりを保つことが出来る」

「へぇー! 便利ー! それなら雨の日でも洗濯物乾かせるの!? 私でも!?」


 それはなんて素敵な世界だろう。わくわくしてアスティルの腕を掴めば、むっとした顔をされた。何故に。


「お前には僕がいるだろう」

「一般家庭でも使えるんじゃないの!?」

「我が家は一般家庭に入らない」

「なんてこったい!」

「よそはよそ、うちはうちだ」

「まさかあなたの口からそれを聞く日が来るの!? 嘘でしょ!?」


 出会ったばかりの頃は、淡々とした無表情で、冷酷と勘違いしてしまいそうな事ばかり言っていた人から、まさかご家庭定番の台詞を聞く日が来ようとはっ……私の悪影響だったらどうしよう。私、この人の教育に悪い気がする。

 しょんぼりしつつ、アスティルが魔法をかけてくれている箱に生ものを入れていく。その間にアスティルは洗濯を始めた。

 朝は何かとばたばたするので家事が出来ないのだ。だから帰ってから一緒にやるのである。

 掃除洗濯と済ませる頃には夕食の準備に取りかかるには丁度いい時間になっていた。


 アスティルは魔法を使って身体の調子を確認している。

 床に座り、深く息を吸って目を閉じているアスティルの身体が淡く光を放つ。風もないのに髪が不自然に靡き、身体中を光の線が伝っていく。この光景を見る度に、ああ、魔法使いだなぁと分かりきっていることを再認識する。

 不具合を確認し、不備と偏りを集中して治していくそうだ。まるで道具を修理するみたいな要領で身体を治していく違和感には未だ慣れない。彼自身は欠片も気にしていないが、魔法使いは少し、常人と感性がずれるものなのである。

 その間に食事を作っていると、いつの間に終わったのか後ろからアスティルが覗き込んできていた。


「手伝うか?」

「んーん、後は煮込むだけで出来るから……おもーい!」


 私のお腹に手を回し、肩に顎を乗せて体重をかけてくるアスティルをお尻で突き飛ばす。しかしくつくつ煮える鍋に視線を向けたままで、どうやら離れる気はないらしい。

 多少かけられている体重が緩和したので、好きにさせておくことにした。

 以前は毎日のように用途不明の液体を器具内でくつくつぼこぼこどんろどんろさせていた人だ。研究設備が整っていないここでは中々出来ないから、あの環境が恋しいのかもしれない。そう思って好きにさせていたら、首に息を吹きかけられて思わず笑う。


「もう、くすぐったいってばぁ!」

「まだか?」

「残念生煮えです」


 きっぱり言い切れば、お腹に回っていた手がふわりと持ち上がる。鍋の上に翳された手から、淡い光が漏れ出す。くつくつと煮えていたシチューが、あっという間にくつくつくつくつくつくつと三倍以上の早さで音を放つ。


「出来たぞ」

「便利ー。やっぱり将来家庭で魔法使えるようになったら私も使いたいな」

「僕以上に便利な道具は出来ないぞ」

「夫を道具扱いって、私どんな鬼畜生なの」

「よそはよそうちはうちだろ」

「ここでその台詞は大変まずくないかしらね」


 私の夫は真顔で冗談言う。……冗談のはずだ。






 お風呂は魔法使い以外は井戸から水を汲み上げてこなくてはならないけれど、我が家は魔法使いがいるので用意は全く手間取らない。

 先にお風呂から上がり、あーっと息を吐く。部屋の中は閉めきっていても快適な温度に保たれているが、お風呂上がりにはちょっと暑い。アスティルの魔法がなければ、到底過ごせたものではない温度になるだろうが。

 火照る身体を収めながら、入れ替わりでお風呂に入っている人の水音をぼんやり聞く。お風呂の介助をしなくてよくなったのは、正直助かった。

 だってここのお風呂、非常に狭いのだ。

 各部屋についているだけでもありがたいと思わなければならないが、一人で使っても腕が壁に当たってしまうくらいなのである。ぎゅうぎゅう詰めでは介助も何もあったものではない。

 それ以上に、アスティルの申し訳なさそうな顔を見るのがつらかった。

 あの服の下にある肌が、どれだけ異様なことになっているか、私は知っている。継ぎ接ぎだらけの肌は色も変わり、人の肌とはとても思えなかった。へたくそな子どもが必死に縫いつけた人形だってもう少しマシかもしれない。

 アスティルは普段から身体を維持するために魔力を使い続けている。長袖で過ごす理由は彼の身体にある傷と継ぎ接ぎだ。首にもまだくっきりとした繋ぎ目が残っている。

 気持ち悪くなんてない。怖くなんてない。ただ、あなたがどれだけ痛かったか、恐ろしかったか。それを思い知るのが、悲しいだけで。

 謝るあなたが悔しかった。あなたに謝らせる自分が惨めだった。

 だけどどんな言葉を並べても、どれだけ態度で示そうと、傷を負った経緯を彼が誇れない以上、言葉は上滑りしていく。傷が、その理由だけで人を切り刻むのだ。

 敗戦は国の歴史を切り刻み、戦争は人の歴史を切り刻む。呆気なく歴史を塗り潰すくせに、傷や痛みはこじ開けるだけでちっとも消そうとしない。



 水音が止んだのを機に、俯いていた顔を上げる。頬を手の甲で押しつぶしたままぐりぐりと回し、強張りを解く。ついでに化粧水もつけてしまう。我が家の化粧品は、アスティル印の特注品だ。

 自分の支度を終えると、次にアスティル印のクリームの容れ物を取り出す。

 風呂場から出てきた音を聞きながら適当に混ぜ合わせたクリームと化粧水を手に取り、振り向き様にえいやと狙いを定める。そしてちょうど後ろに座ったアスティルの顔を両手で挟み込む。そのままもにもに揉み込むと、端正な顔が可愛くなる。


「お前なぁ」

「乾燥肌さんは保湿しましょうねー」

「肌の修復が間に合っていないだけだ。後で適当に塗るからいい」

「いいわけあるか。適当にして痒くなるのはアスティルでしょ。ほらほらほら、いつも通り服の中でやるから大人しくなさい!」


 毎日のことなのに毎日ちまちま抵抗するアスティルは、毎日のことなので毎日さっさと押し切る私に諦めるのだけは早くなってきた。

 全身丁寧にクリームを塗り込んでいく。両面しっかり施していると料理の下拵えを終えた気分になる。だが、何気なくそれを伝えた日はそのまま真夜中に突入したので黙っておくに越したことはない。お互い明日も仕事なのだ。夫婦活動はほどほどにしておかないと、私の精神がもたない。


 この部屋にベッドはない。狭すぎて家具なんてほとんど置けないのだ。ここだけで完結できるようにか、かろうじて炊事場と水回りが用意されているのが救いである。

 床に直接引いた布団に二人で潜り込み、しばし互いの位置調整を図る。ごそごそ体重の置き場所と手足の位置を調整していく。定位置に収まると、ふわっと欠伸が出た。


「それで、保全の術は一旦不可能ということになったんだ」

「へぇー」

「しかし、Ⅲ型の魔力に対してだけ僅かな反応があった。だから今度は見方を変え、Ⅲ型魔力の研究に移行した。その結果、従来のⅠ型からⅨ型の魔力ではない、全く新しい型の魔力の存在が明らかになった。一種の亜種だが、性質が全く異なるんだ」

「ほぉー」

「Ⅲ型の魔力にだけ僅かであるが共通点が見られたため、ひとまずⅢ型亜種とされている。このⅢ型亜種は本来ならば長い時間をかけて構築しなければならない長期間維持する魔法を、短期魔法の労力で発動できることが分かっている。だがその原理は未だ解明されていない。解明されてはいないが魔法保全の現実味は一気に増した」

「はぁー」

「魔法保全とはようは魔力の固定だ。僕が家にかけていたように術者が傍で術を保たなくても維持できる魔法は現在でも存在するが、その型は魔法使いの中でも扱える者が少ない。扱える者と扱えない者の違いは今まで明確化されていなかったが、Ⅲ型亜種が魔力の固定に適した魔力であることが判明した為、恐らくこれを扱える者だけが使用できていたのだろうと仮定出来る。だからこの魔力が発見された以上、魔法保全自体はそこまで難しい問題ではない。問題は、魔力を持たない人間が保全された魔力をどう扱うかという点だ。現実的なのは保全された魔力に、追加で発動する魔法の規定を設定しておくことだが、追加付与がどう影響を及ぼすのか。そこまではあの図書館に資料がなかったから確認できていないが、まだ目処が立っていないところを見るとこの辺りで躓いているのだと僕は思っている」

「ほぁー……」

「一通りの新聞も確認したが追加情報は発見できなかった。Ⅲ型亜種の魔力を発動できる魔法使いの少なさもその原因の一つだろう。Ⅲ型亜種の研究資料は数が取れていない物が多い。扱える魔法使いの少なさだけではなく、どうやら一度に発動できる量が少ないらしい。しかし固定が可能なことを考えると魔力の濃度が高いのかもしれない。つまり、Ⅲ型亜種は魔力を凝縮させた物であるという仮定が立てられる。凝縮された魔力が保全に適している。成程、道理だ」

「すやぁー……」

「ここの図書館は素晴らしい品揃えだがやはり最新情報となるとしばしの遅れが出るため、続報が待ち遠しい。なあ、ルビニア」

「ぷすぅーぷすぅー……」

「つまりⅢ型亜種は」

「ふが……」


 私の夫、適当な相槌でも満足してくれるから大変有り難い。









 次の日も世界は気持ちのいい快晴だった。つまり暑いのだが、それでも海が太陽の光を細かくきらめかせている姿は美しく、そろそろ慣れてきたと言ってもいい今でも気分が上向く。

 アスティルとは図書館で別れ、ごった返す市場を避けて海沿いの道を歩いて出勤しながら、私は鼻歌を歌う。時々、顔見知りになった人と会うので軽く頭を下げる。

 潮の香りも、忙しない海鳥の鳴き声も、山では体験できないものだった。まして、絵の中では。

 そこまで考えて、慌てて思考を散らす。あの場所を思い出すことは、意図的に避けている。しばらくは働かずとも何とかなる状態で私も働いているのは、一人でアスティルの帰りを待てないからだ。

 そもそも、一人でいられない。恐慌を起こし、泣き叫ぶ。

 どれだけ自分を説得しても、アスティルは図書館に行っているだけだと自分を納得させても駄目だった。

 一人ではいられない。一人では待てない。人気がないだけで、もう駄目なのだ。小さな子どもでもあるまいしとどれだけ恥じ入っても、しんっと静まりかえった部屋に一秒だっていられない。


 変な癖がついてしまったと苦笑しながら謝罪する私を、アスティルは責めなかった。それどころか図書館の人に話を聞き、いつでも人の出入りが途切れない働き口を見つけてきてくれたのだ。

 本当に有り難いと思っている。心から。

 だが、感謝の気持ちを身体いっぱいに表して抱きついたら真夜中に突入したのは未だに納得していない。夫婦活動のきっかけが全く読めない。

 そして、私を抱きしめたまま何度も謝っていたのも全く納得してないのでそのつもりでいてほしい。



 今日も元気な女将さんと大将さんにお世話になりながら、いつも通りお店で働く。今日も何本か花束を貰ってしまった。

 お花屋さんの奥さんは臨月だそうなので、臨時収入にほくほくしていると、何故か苦笑気味の女将さんが教えてくれた。皆がお花屋さんを利用しているのはご祝儀的な意味合いもあったようだ。

 相手からお返しを貰うことなく、さりげなく支援する。粋とはきっとこういうことをいうのだろう。大変勉強になった。

 忙しい昼時を過ぎれば、あっという間に鐘の音が近くなる。時計を見ずとも、何となくの時間把握が出来るようになったきたものだ。

 最初は混雑する時間帯に目を回したものだが、今ではなんとか手際よく回せるようになってきた。毎日忙しくも穏やかで、日常が回っているのだと実感できる。毎日同じような流れであっても、時間が流れているっていいなと思っていると、小さな鐘がからりんっとなる。


「あ、いらっしゃいませー」


 扉には既に準備中の札を出しているので、入ってくるのはいつもの人達だ。今日も暑かったので、袖を捲り、胸元を引っ張ってぱたぱた空気を取り入れている。がさつに見えるが、こう見えてお店に入る前に服を叩いてくれているのだ。何でも以前そのまま入ろうとして大将さんに叩き出されたらしい。

 昨日と同じ面子の四人は、既にくっついている机におっとした顔をしながら座る。


「今日も暑いですね」


 いつもお客さんに机を寄せてもらっている教訓を生かし、今日は先に寄せておいたのだ。この一週間ほどいつも同じ面子だなぁと思いながらお水を出していく。以前はもうちょっと人の入れ替わりがあったように思うけれど、まあそういうこともあるだろう。

 今日も一番手前に座っている一番若い青年は、今日も花束を持っていた。昨日より大きい。この町に来るまで花束なんて縁のない代物だったが、最近皆さんの好意で目が肥えてきた。


「あ、あの、ニアさん!」

「はい?」


 初めて名前を呼ばれてちょっとびっくりする。私は彼の名前を知らないけれど、お客さんと店員なんてそんなものだ。

 空になったお盆を胸に抱くと、さっきまで乗せていたコップから落ちていた結露が胸についてしまい慌てて離す。手際よくこなせるようになってきたつもりだったが、どうやら気のせいだったようだ。

 仕方がないので夕食時にでもアスティルに話して笑ってもらおう。


「あの、ですね」

「はい」


 またお花をくれるのだろうか。それとも預かるのだろうか。どちらにせよ、他の三人の中年達がにやにやしているので、出来るだけさらっと渡してくれたほうが彼のためになる気がする。

 しかしそれは人それぞれなので、店員の私は出来る限り彼がからかわれたりしないよう補助するべきだ。


「よければこの後っ」


 彼の出方によってさらっと受け取るべきか話を逸らすべきか考えていると、三回の鐘が鳴った。女将さんが素早く厨房から出てくるのが視界の端に見えた。

 もう少し、もう少し待ってほしい。せめてこの粋な青年が用事を言い終わるまでは!

 外よりは涼しい室内なのに汗を沢山かいている青年に私まで焦っていると、三回の鐘とは違う軽い鐘がからりんと鳴った。


「あ、すみません。次は夜からに――ア、ノーヴァ? どうしたの?」


 ここにいるはずのない人がいて思わず瞬きする。かつんと杖を鳴らしてお店に入ってきたのはアスティルだった。

 驚きから醒め、小走りで駆け寄って辿り着いた彼の傍は涼しい。お店だって少しでも涼しくなるよう色々努力しているが、水辺の木陰のような涼しさを纏う魔法使いには叶わない。魔法使い、とても便利だ。

 しかし、今はそれどころではない。


「何かあったの? それに、急にこんなに動いて大丈夫? 熱は?」


 元気になってきたとはいえ、こんなに長距離歩いたのは久しぶりなので心配になってしまう。顔色を確認し、掌を額と首に当てて熱を測る。その手を取り、軽く指を絡めたアスティルは緩く首を振った。


「いや、もう身体を動かすほうがいい頃合いだからな。いつもお前に迎えに来てもらっているんだ。そろそろ、僕が迎えに来てもいいだろう?」

「それは嬉しいけど……」

「帰り、散歩がてら色々寄ろう。僕もお前も、明日は休みだろう?」

「ほんと? 嬉しい! ノーヴァの行きたい場所も言ってね!」


 指を絡めていたアスティルの手を両手で握り、ぶんぶん振る。


「お店の前で待ってて、すぐ支度してくる!」


 手を空けるためについお盆を渡してしまった私から、大人しくお盆を受け取ったアスティルは苦笑した。いつもの片方だけ吊り上げる皮肉気な笑い方ではない柔らかな笑みで、思わず赤面しそうになった。


「僕に渡してどうするんだ」

「いつもの癖で……ごめん」


 しおしお受け取り、くるりと振り向く。厨房から半分だけ身体を出していた女将さんまで苦笑していて首を傾げる。しかし、お店で騒いでしまったからだとすぐに気付く。


「すみません!」

「鐘鳴ったんだからもう仕事は終わってるよ。店も閉まってるんだから、気楽にしていいんだよ。ほら、残業になっちまうから支度しておいで。あんたはちょっと気を使いすぎるねぇ。中で待っててもらいな。この連中よりよっぽど中で待っててもらう理由があるじゃないか」

「すみません、ありがとうございます。ノーヴァ、座らせてもらおう? はい」


 椅子を引いて示せば、杖をつきながら大人しく座ってくれる。


「足、痛くない?」

「問題ないから気にするな。いいから用意してこい。急がなくていいから転ぶなよ」

「もう。私、何歳児なの?」

「今朝派手に足をぶつけていたのを僕は見たが?」

「気付いてたの!? ……ノーヴァ、顔洗ってたから誤魔化せたと思ったのに」

「誤魔化されてやったんだ」


 それはどうもありがとうございます。

 どうやら曲がっていたらしい髪飾りもついでに直してくれたので、それも追加でしおしお御礼を言う。この葉っぱを模した髪飾りは昔アスティルが買ってくれた物だから、大事にしているのである。

 アスティルの体調が問題なさそうなので帰り支度に入りたいが、その前にいつもは元気いっぱいに話しているのに先程からやけに静かなお客さん達を振り向く。


「お騒がせしてすみません。すぐ帰りますので。皆さんはどうぞごゆっくりー」


 ぺこりと頭を下げて奥に引っ込もうとしたら、大将さんのお友達が慌てて立ち上がった。


「お、おいニアちゃん!」

「はい?」


 またくるりと振り向く。何だかアスティルがお店に来てからくるくる振り向いている気がする。目が回っちゃったらどうしよう。

 アスティルがいるから支えてくれるし大丈夫かなと、いつからか当たり前のように甘えてしまう自分の思考にちょっと苦笑すると同時にくすぐったくなる。アスティルもそう思ってくれていたらいいな。

 お友達は、節くれ立った太く短い指でアスティルを指さした。


「……誰?」

「あ、夫です。夫の、ノーヴァです」


 こう紹介するの、何だか照れくさい。ちょくちょく使うことが出てきた文言だが、未だに照れてしまい、それを誤魔化すためにえへへと笑う。照れ隠しのために首を掻こうとした手をノーヴァが取り、また指を絡める。


「妻がいつもお世話になっております。皆さんのおかげで、毎日楽しそうに帰ってくるので僕も感謝しています」


 衝撃的な顔をした四人と同じ顔を私もしていた。

 アスティルが、アスティルが殊勝な言葉を! 他人に穏やかな笑顔を!

 昔は、無表情か冷笑か皮肉気な顔か無表情か無表情か無表情か……まあ、昔はアスティルに向けられている顔もそれは酷かったから、彼がそういう表情になるのも仕方がなかったのかもしれない。

 彼が魔法使いであることは、その瞳を見れば一目両全だ。だけど皆、驚いた顔はしていても恐怖や嫌悪を浮かべてはいない。

 かつて魔法使いとは、一般人にとっては自分達が使えない力を使う異端の存在で、偉い人達にとっては言うことを聞かせづらい使える駒だった。戦争が終わって、彼らの力は日常生活に役立つ姿に形を変えようとしている。だから昔より身近な存在になったのかもしれない。

 ここの人達が特別人懐っこいのかもしれないが。


「えっと、じゃあ待ってて。すぐ用意してくるから」

「だから、急がなくていいからぶつけるなよ」

「はいはい」


 そういえば会話が増えると同時にお小言も増えたなぁと、昔を懐かしみながら奥に引っ込む。ぱっと支度をして、今日貰った花束をわさっと抱える。いつもは裏から出るが今日はそのままお店に戻っていく。

 すると、女将さんが苦笑して出迎えてくれた。


「今日はデートだろ? 花、よければあたしが貰うよ。荷物になるしね」

「あ、ありがとうございます!」

「いいって。両手開けといたほうが楽だろ? いっぱい楽しんでおいで」

「はい!」


 女将さんは、厨房の奥からエプロンで手を拭きながら出てきた大将さんに花束を渡す。大将さんも当たり前のようにそれを受け取った。言葉が要らない行動のやりとりって、見ていて気持ちがいいしとても羨ましい。私達もこういう分かり合えた夫婦になりたい。


「そろそろかとは思ってたんだが、すまんな。詫びに今度奢るから、また寄ってくれ」

「いや……だが、ほどほどにしてくれ」

「おかげで花屋は出産費用が整って助かったぜ!」


 別に大将さんとアスティルに分かり合ってほしいわけではなかった。喧嘩してほしいわけではないので分かり合ってくれるのはいいことだが、何故私を飛び越えてここが分かり合うのだ。

 今一釈然としない思いを抱えながら、お騒がせしましたーと頭を下げてお店を出る。ガラス越しに中を覗くと、机に突っ伏した青年の背を皆が叩いていた。

 あそこも分かり合っている。やはり付き合いの長さも重要なのだろうか。私とアスティルはそんなに付き合いが長いわけではないが、これから長くなるのでそこは問題ないと思うのだ。


 外に出ればじりじり照りつける日は暑いが、アスティルの傍は涼しい。発生させた魔法を空気中に停滞させるためにあれがこうなってそれがどうのこうのという話を聞いた気はするが、お察しの通りぐうすかぴぃと返事をしていたため何も覚えていない。

 アスティルも私と討論をしたいわけではないようなので、覚える努力は早々に放棄した。


「ん」

「ん?」


 腕を突き出されたので首を傾げる。すると深く溜息を吐かれた。


「昨日はあれほど絡んできただろ、お前」

「アス、ノーヴァが自分から腕を差し出してくれるなんて! 転んだとき限定かと」

「僕はどんな薄情な夫なんだ」

「照れ屋さんなのかと……」

「……僕は別に照れないが。お前じゃあるまいし」


 ぶつぶつ言っている腕に有り難く抱きつく。骨と皮みたいになっていた腕にもだいぶ肉が戻ってきて嬉しい。筋だけど。

 嬉しすぎて、もっと堪能しようといつも胸に抱き込んでしまう。長い間胸に抱いた外套だけを縁にしていた所為か、胸に抱き込む癖がついた気がする。


「そもそも、今更何に照れるんだ」

「何にって……いろいろ?」

「今更?」

「今更って何が………………この話題やめよ?」

「お前から振らなかったか?」

「この話題やめよ!?」


 いつもは一人で歩く市場も、今まで気にはなっていたけれど足を伸ばすことはなかった観光名所も、通ったことのない路も。二人でのんびり歩く。

 人目を気にせず買い物をするのは、初めてだった。昔のアスティルは滅多に家から出たがらなかったし、偶に出るとしても一人で王都へ出向くだけだ。

 アスティルの家へは王家の息がかかった行商が必要な物を山の麓に届けにきたので、本当に出かけることなど稀で。

 偶に、本当に偶に一緒に出かけたときは、働き手を国に徴収された人々が、魔法使いに恐怖しながらも兵役を免れているアスティルへ恨みの視線を向けていた。

 あの時代を思い出すと、本当に碌な時代ではなかったと溜息しか出ない。

 世界とは、十年でこれほど変わるものなのかと、まだ驚く。それともあの時代、私達の生きた場所が特別厳しかったのか。



 屋台で買った物を二人で分けて何種類も食べてみる。もう今日の夕食はこれでいいかと割り切ってしまえば、後は食べたい物を思いっきり食べるだけだ。

 揚げた生地に蜜がかかった甘いお菓子を頬張りながら、流石にお腹張ったなと海を眺めながら足を揺らす。道からは少々高さのある堤防だが、魔法使いが一緒ならなんのその。

 堤防の上に座って屋台で買ってきた物を食べながら海を眺める。何という贅沢だろう。夕焼けに染まった海は真っ赤で、怖いくらい美しい。

 海が一望出来ると人気の展望台は、観光客や恋人がひしめき合っていると聞いてここにした。ここなら堤防に沿うように生えている木の陰で道からは見えないし、残るは正面に広がる海だけだ。

 海から流れ込む、重さを感じるほど濃度の濃い潮の香りを纏った風。同じ水場の風でも、川辺の風とは全く違う。川を通る風はさらさらとして冷たくて、とても鋭かった。海の風は重い。香りも、湿度も、肌を撫でる感触さえも。


「凄いなぁ。こんなに違うんだね」

「そうだな」

「ノーヴァは海、はじめて?」

「……いや。海沿いで生まれたからな」

「そうなんだ」

「ああ」

「そっかぁ」


 家族はいないと思ってくれて構わない。

 初対面でそう言い切った彼を覚えている。実際、知らないのだろう。家族が生きているのか、死んでいるのかも。私は風の噂で両親が健在であるくらいは耳に入るが、自分から調べるつもりは毛頭ない。

 私達はお互いに、相手の家族に会ったことがない。それらが自分を形成してきたことは間違いないのだが、今の生においてあまり重要視していないからだ。

 共にあるもの、強固な繋がり、それが当たり前なのだと定義されるもの。

 そういったものは、それらが最初から構築されていなかった場合、酷い執着を齎す。他の人には当たり前に埋められている部分がぽっかり空き、空白と化した場所を埋める術もない。自分の努力ではどうにも出来ない虚無だけが生み出され、乾きだけが訪れる。

 だが、というべきか、だからというべきか。ある日ぷつりと途切れる場合がある。執着が、それを救いとした幼き頃の自分が、ある日突然、本当に呆れるほど呆気なく、ああどうでもいいやと思うのだ。

 好かれたい、認めてほしい、輪に入れてほしい。自分を奮い立たせていたそんな願いが霧散し、何も残らない。後には本来そこに収まるはずだった空白だけがぽっかり残った。

 重たい海の風が髪を巻き上げて走り抜けていく。本当に、香りが強い。茹だるような暑さに温められた、粘っこい潮水の匂い。


「お互い、家族には恵まれなかったねぇ」

「そうか?」


 不思議そうに首を傾げるアスティルにびっくりする。私も彼も、実の親に捨てられ、親族からも葬られたも同然だ。お家の事情なるものを考慮しても、恵まれていたとは言いがたいのではないだろうか。

 びっくりして瞬きを繰り返す私に、傷だらけの手が伸びてくる。そして、私の頭を抱えて自分の肩に乗せた。


「お前は僕の家族だろう?」

「…………そうでした。私、凄い恵まれてました」

「だろう? 僕達は世界でたった二人っきりの家族だが、幸運なことにその唯一の家族に大変恵まれた」


 私達は互いに空白があって、けれどそれを埋め合ったわけではない。どちらかというと偶然邂逅したらお互いの空白に落ちて、抜けようとしなかっただけである。仕掛けたわけでもない落とし穴にお互い嵌まったのだから、笑うしかない。実際、お互い笑った。


 アスティルの肩に頭を乗せ、きらめく海をぼんやり見つめる。誰の理解も要らない。誰からの祝福も要らない。そう思う事柄がこの世にあるのだと、アスティルに会って初めて知った。

 世界から切り離されるかのような人生だった。そんな十五年を経て出会った相手と過ごした二年にも見たぬ期間で、そう思うようになった。

 私はそうだ。けれど、彼はどうなのだろう。


「アスティルは」

「おい」

「誰もいないよ。……アスティルは、研究したいんじゃないの?」


 彼の呼吸が不自然な停止を見せた。その肩に寄り添っているからこそ届いた音を、目を閉じて聞く。しかし思っていたより早く呼吸は再開され、身体の強張りも解けた。


「そうだな。今の時代なら興味のない分野に駆り出されることなく、望んだ研究に専念できるかもしれない。図書館の館長も、登録書を都合して知り合いの研究所に紹介するとまで言ってくれた」

「初耳です」

「いま言った」

「……悩んでたから教えてくれなかったの?」

「いや……夕食がシチューだったから途中で忘れた」

「幼児かな?」


 夕食が楽しみで報告を忘れるとは。塩一粒より細かい調合配分をしっかりばっちり覚えているのに、どうにも妙なところですっぽ抜ける人である。

 そういうところも可愛くて好きになったので、惚れた弱みで私の敗北だ。


「その場で断った」


 寄りかかっていた頭を起こし、まっすぐ海を見ているアスティルの横顔を眺める。海のきらめきをそのまま写し取ったかのような光が、魔法使い独特の鮮やかな瞳を彩っていた。


「研究は楽しいし、性に合っている。成果も出せる。まあこれは良くも悪くもだが。僕は、選ばなければその道しかないんだ」


 海だけを見ていた瞳が私を見て、緩やかに細まる。


「だから、選んだらお前に決まっているだろう」

「……私、難しいこと分からないわよ。研究の相談とか無理です」

「研究は誰とでも、どこででも出来る。だが、生きるのはお前とでなければ出来ない。出来なくなった。どれだけ研究が進もうが、お前と馬鹿らしい話をしていないと満足できないんだ。僕をこんな身体にした責任を取れ」

「言い方!」

「スープが食べたい」

「自由かな?」


 そしてスープは昨日も食べた。


「私お腹いっぱいだから、スープは入りません」

「シチューもいい」

「野菜好きになってくれて嬉しいけど、そういう問題じゃない」


 身体を捻り、アスティルの胸に額をつける。当たり前のように腕を回してくれることに、いつだって喜びが溢れた。


「……私、アスティルが我慢してるんじゃないかって思ってたの」

「僕は今まで生きてきた中で、今が一番楽しいんだが」

「そうなの!?」


 驚きで頭を上げると、額に柔らかな唇が降ってくる。必要性を何度説いても、予告制度は導入されない。大変遺憾である。


「研究とは結局知識欲という名の好奇心だ。僕がやらなくても誰かがやる。僕はその結果と過程を追えれば満足だ。僕はいま、研究以外が日常になった。お前と過ごせないならそっちのほうが不満だ。……どちらかといえば、お前のほうが我慢しているんじゃないのか?」

「何の話?」


 予想だにしていなかった話題に首を傾げると、アスティルはなんともいえない顔をした。


「しばらくの間は定住も出来ない。ここもそろそろ発つ。……お前がやりたいことを見つけても、出来ることが限られる」


 ほんの僅かな間に表情をしまい込んでしまった魔法使い特有の美しい瞳が、海のように揺れていた。川の流れと海の流れは、同じ水であっても全く違う。

 川は常に流れ、海はいつも揺蕩っている。大きな器に入った塩辛い水が、生命を内包してたぷんたぷんと溢れんばかりに。

 彼ほど物知りではない私は、海の広さを本質的に理解することは出来ないのだろうけど、彼のことならほんの少しだけ分かるのだ。


「私いままでずっと、やりたいことなんてなかったわ。何かを目指すこともなかったし、欲しい物もなかった。朝きちんと起きて、三食食べて、質素でも丁寧に生活すること。それだけは心がけていたけれど、それはやりたいことなんかじゃなくて、一人だと一度手を抜いちゃったらどんどん怠惰になってしまうと思ったから」


 額と頬を擦りつけ、小さく笑う。日差しは木の陰が遮っているし、アスティルのおかげで過ごしやすい気温に包まれている。

 けれど、魔法がなくたって私は彼に引っ付くと思うのだ。それはきっと、好きだから。


「私ね、やりたいことがあるかと聞かれたらアスティルと一緒にいることって答えるわ。その為ならどんな苦労だって厭わない。ひいひい息を切らしても、わあわあ泣き叫んでもいい。あなたと一緒にいることが、望みで、夢で、一番の欲なの。何かを生産することにしか価値が認められないのなら、私の望みに価値はないのかもしれない。私の夢は社会に貢献するわけでもなければ職人にしか出来ない特殊なことでもない。ただ、私が幸せになるだけの、閉じられた願いでしかないって分かってる。でも本当に、諦められない願いなんてこれしかないの。だからお願いアスティル、私が我慢してるなんて思わないで。私だって、今が一番幸せなのよ」


 定住も、他者との長い付き合いも、あればいいのかもしれないけれど無くたって生きていける。失えば私自身が崩壊するような物ではないからだ。

 アスティルが存在しなければ成り立たない夢なんて、大勢に認められる夢を持つ人から見たら笑われるのかもしれない。だけど大事なのだ。これしか無いからではない。これが一番大事だから、他が要らないのだ。

 擦り寄れば、ふっと小さな吐息が降ってくる。アスティルが笑ったのだ。


「互いの夢が重なって何よりだ。なら、これからも存分に苦労してくれ」

「望むところだけどあえてしたいわけじゃないからね!? 苦労ってそういうものよね!? それに、覚悟するのはアスティルかもねー?」


 ふへへと笑いながら伸びをして、私から唇を重ねる。私からはあまりしないし、外でなんて以ての外だから完全に油断していたのだろう。アスティルの目が丸くなっている。

 私の魔法使いは綺麗な顔をしているが、虚を衝かれると可愛くなるので一粒で二度美味しい。更に言うなら格好いいので三度美味しいし、噛めば噛むほど味が出る。こんなに素晴らしい夫がいるだろうか。ここにいる。


「次はどこに行く?」

「そ、うだな……図書館のおかげで十年の移り変わりは大体把握できた。次は国境に近づいてみよう。出来るならこの国は出たほうがいいからな」

「イリシーダ? ミルソ? カダシア?」


 隣国の名を、指を折りながら連ねていく。一応いま戦時中ではない国を選んだが、それでも事情は色々あるものだ。


「イリシーダはシレイアと一触即発だから避けたい。ミルソは最近王が代替わりしたから混乱に乗じるならここだろうが……出来るなら中立のカダシアを狙いたい」


 戦争に限らず、争いごとがあれば魔法使いが巻き込まれる。闘争が好きな人には願ってもない環境でも、アスティルには苦痛でしかないだろう。


「お前は行きたい国があるか?」

「ううん。私は……シレイアから出られたらそれでいいかな」


 大きな夕日が海に沈んでいく。沈めば沈むほど夜が下りてきた。日差しが薄まればその分気温も下がっていく。それでも夏の夜は熱が籠もるものだ。けれど、アスティルと過ごす夏は川を思い出す。

 さらりとした風、周囲とは明らかに違う温度、光を纏った緑に囲まれた、山の川。私とアスティルが一緒に夏を過ごした唯一の地と同じ空気だ。


「……ルビニア」

「ん?」

「僕達の部屋がある方角が、白い」

「ん!?」


 涼しげな山の風を思い出させる声が、嵐の到来を告げた。







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― 新着の感想 ―
[良い点] 2人とも、大きな傷が残っていて悲しくなりました。 ただ、それよりも2人が穏やかに、楽しく暮らせていることが嬉しいです。   とても好きな作品です。出会えてよかった!
[良い点] 素敵な夫婦ですねぇ。 互いの思い遣りと愛情が深い。でも、軽快な二人の会話で暗さが和らぎますね。 妻視点の何気ない情景で、敗戦の哀しさと復興の逞しさが伝わってきます。 ずっと幸せでいてほしい…
[良い点] 前作が本当に好きでアスティルとルビニアの二人のその後を見れて本当に嬉しいです! ありがとうございますm(_ _)m
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