第20話 『カレン=◼️◼️◼️◼️◼️ 其の二』
――――。
『ぎゃああああああ!!』
『うわぁあああああああああ――!!』
『ううう……痛いよぅ……パパ……ママ……』
地獄絵図。今ほどその言葉に相応しい状況は他にないだろう。
火を吹く馬のような悪魔が、美しい草原を燎原へと塗り替える。
半人半牛の悪魔が、家族同然の同胞達を、玩具のように握り潰す。
雷を吐く河馬のような悪魔が、大切な牛馬を塵のように蹴散らしていく。
暴虐を尽くした後に残るのは、赤黒い生物だった何か。
『頑張れッ! 子供たちが逃げるまで、持ち堪えるんだ……ぐわぁああああああ――!』
一族の中でも、腕っ節のある男性たちが勇敢に立ち向かうが、おびただしい数の悪魔たちの前では焼け石に水。
死や絶望すら生温い、文字通りの"︎︎地獄"︎︎がそこにはあった。
『……ぁ……ぁぁ……』
あまりに惨い目の前の光景に、幼い私は思わず目を伏せる。
悪魔が本当に実在したのか、なぜ私たちが襲われているのか。
そんな当たり前の疑問を、浮かべる余裕すら無い。
ここから逃げないと。
一体どこへ。
逃げ場などあるはずがないのに。
頭の中が、ぐるぐるとした思考で押し潰される。
それでもどうにか恐怖を堪え、立ち上がろうとする。
が。
『……あ』
次の瞬間、私は尻もちをついて後ろに倒れ込んだ。
確かに立ち上がったはずなのに、膝に力が入らない。
それどころか足がまともに動かせない。
両足はしっかりとついているのに。
まるで、自分のものでは無くなったような感覚がした。
恐怖で動くことすらままならず、呆けていると。
『グルルルルル……』
近くにいた、翼の生えた狼のような悪魔が、私を見た。
大きな爪を地に突き立てる姿は、まるで獲物に狙いを定める時のそれだ。
『……ぁ……いや……』
叫ぶことすらできない。
蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことか。
次の瞬間、どっ! と。
狼の悪魔が私に向かって走り出す。
恐るべき速さで迫ってくるにつれ、生まれて初めて感じる死の予感。
恐い。
恐い。
死ぬのが恐い。
その恐怖を少しでも和らげようと、私はぎゅっと目を瞑る。
そして、悪魔の足音がもうすぐそこまで迫ってきた……その時だった。
『カレン――――ッ!』
聞き馴染んだ声が、私の耳に響き渡る。
その声に思わず目を上げて…………。
刹那――ざしゅ。
ぶしゃあ、という音と共に、私の眼前が赤で染まった。
『あ…………』
何が起こったのか、一瞬、理解が遅滞する。
信じられない光景、信じたくない光景が、私の思考の邪魔をする。
そして――遅れてやってきた脳の処理に、残酷な現実を突きつけられる。
『いやぁあああああああ――――! お母さぁあああああああああん――――!』
目の前には、私を庇って倒れ伏している、母の姿があった――
――――。
『かはっ……カ、カレン……大丈夫……?』
倒れる母を、私は必死になって起こそうとする。その背中は大きな爪で切り裂かれ、おびただしい出血が見られた。
『ぐすっ……ひっく……お母さん……どうして……』
ぐったりとした母を両手で支える。
返り血で身体中が汚れようとも、構わず支え続ける。
『カレン……私はもういいの……今すぐ、ここから逃げなさい』
母は弱々しい声でそう言った。その命はもうすぐ尽きようとしていることは、幼い私ですら瞬時に悟った。
『いやっ! お母さんがいなくなるなんて……そんなのいやぁ――!』
そう叫んだ、その時。
突如、私が白く輝いた。
『!?』
一体、何が起こっているのか。
パッ、と私の躰から溢れ出した、眩いばかりの光。その光が、母を優しく包み込む。
そして輝きが収まった時、信じられない光景が目に映った。
なんと、あれほど重症だった母の怪我が、完全に治っていたのだ。
『こ、これって!? カレン、あなた――』
『お、お母さん――あ……』
母が驚きの声を上げたのも束の間、私は急にふらりとよろめく。
『カレンッ!』
猛烈な虚脱感に襲われ、倒れ込みそうになった所を、咄嗟に母が受け止めた。
『はあ……はあ……お母さん。だ、大丈夫……なの?』
朦朧とする意識の中、何が起こったかも分からず、私は目を瞬かせる。
一方で母は私を抱き止めたまま、静かに私の顔を見つめていた。
『――ええ。あなたのおかげでね』
直ぐにそう微笑んで、母は周囲をゆっくりと見渡す。
一面、おびただしい肉塊が積まれた赤黒い海。
痛ましげに見つめながら、再び私へと視線を戻した。
『……カレン、よく聞いて』
そう言いながら、母はカレンの頭を優しく撫で、何事か念じ始める。
するとどういう訳か。あれほど虚脱感のあったカレンの体が、ふっと楽になった。
『――あなたのその力、絶対に他の人に見せちゃ駄目よ。本当に信じられる、大切な人ができるまでは』
『え……?』
藪から棒の母の言葉に、私は腑抜けた声を出す。
母は、何か決意を固めたような瞳を携え、そして同時に悲しそうな様子だった。
『それと、あなたは必ず生きて。一人で寂しいかもしれないけど、あなたの味方になってくれる人はきっと見つかるわ。それまで生き延びて。
……どうか、あなた一人だけでも』
何を言っているのか分からない。
だけど、母が私の前からいなくなってしまう――
そんな予感がした。
『やだぁ! お母さんっ! いなくならないで……!』
『いい? ……約束よ』
首を振りながら泣きじゃくる私を前に。
母は穏やかに微笑んだまま、再び何かを念じる。
次の瞬間、体中の力がふっと抜け、猛烈な睡魔が私を襲った。
だめ。
今、眠ったら、二度と母に会えなくなる。
直感でそう悟るが、瞼は重りが付いたように、ゆっくりと沈んでゆく。
そして。
『お母……さん……』
抗えないまどろみの中、大好きな母を呼びながら。
私の意識はゆっくりと、深い底に沈んで行くのだった。




