秘密のラジオ、旅のはじまり
知りたくなかったことを知ってしまう、その覚悟はありますか……?
二人の女子高生の怪奇譚、始まります。
その日は少し帰りが遅かった。いつもは休日に出かけても、まだ陽が高いうちに帰宅している。今回は珍しく寄り道をしたので、マンションの一室に着いたときには、すでに日没を迎えていた。
十二階建てのマンションの八階、一番奥の部屋。ドアの鍵穴にキーを差し込み、開錠する。鍵がかかっているということは、どうやら母親はまだ帰っていないらしい。
父親が亡くなって以来、わたしの母親は女手一つでわたしを育ててきた。まあ、ここ三年の話ではあるけれど、それでも大変だというのは近くで見ていて分かる。一人しかいない子ども、つまりわたしを、働きながら育てる苦労が並大抵でないことを、わたしは知っている。
だから、まあ、迷惑はかけたくないよね。まだ高校生だけど、そのくらいは考える。母親を悲しませたくはないし、今以上の苦労はさせたくない。
そういうわけだから、家の中に誰もいないとはいえ、帰宅が遅くなったのは申し訳なく感じる。些細な罪悪感を抱きながら、わたしはドアを開けた。
「ただいま~……」
誰もいないと分かっていても、つい習性で言ってしまう。
その時、違和感を覚えた。わたしも母親も、最後に家を出るときは必ず戸締まりを確認している。もちろん窓も同様だ。だけどなぜか、風の流れを肌に感じる。
泥棒でも入ったのではあるまいな。不安になってわたしは、急いで靴を脱いで家に上がり、廊下を真っ直ぐに進んでいく。外と繋がる窓があるのは、廊下の先にある、リビングと隣の寝室だけだ。どこか開いているとしたら、その二つのどちらかだ。
リビングに駆け込むと、そこには確かに人がいた。
開け放たれた窓から風が入り込み、レースカーテンがゆらゆらと揺れている。同じように風に髪をなびかせながら、窓の前の床に胡坐をかいて、全身に風を浴びている女の子がいる。その後ろ姿を、わたしはよく知っている。
女の子はわたしが来たことに気づき、振り向いて笑った。
「やっと帰って来たね、藤香」
「彩実……」
そいつは高校の同級生、真中彩実だった。
彩実とは小学校からの付き合いで、わたしの数少ない友人の一人だ(自分で言って悲しくなってきたな……)。昔から人付き合いが苦手だったわたしに、ずいぶんと積極的に話しかけて、いつしか一緒にいるのが当たり前になっていた。まあ、わたしの苗字が松本で、自然と席が前後で隣同士になる、というのもあるかもしれない。
でも、さすがに、家の中に無断で入って許されるほど、親密なわけじゃない。というかどんなに親密な関係でも、こんなことはやらない。だって、これは立派な……。
「……不法侵入だよ」
「えー? 合い鍵もらっているのに?」
彩実が指先でリング付きの鍵をくるくると器用に回しながら、口を尖らせて言った。
ああ、そういえばいつだったか渡した覚えがあるなぁ……それでも無人の家に勝手に入っていい理由にはならないけど。
「何の用?」
「うっわ、冷たい反応。そんなだからわたし以外に友達がいないんだぞ?」
「失礼な。話し相手くらいならクラスにもいるし」
「業務連絡みたいなやり取りしかしてないのに、それって友達って言えるの?」
嫌な所を突いてくれる。わたしだってその程度で友達だとは思わないけど、会話する相手がいるだけで十分じゃないか。親密な付き合いなんて、彩実一人いればそれでいい。
とりあえず泥棒ではなかったので、わたしはひとまず安心して、自分の部屋にカバンを置いた。まあ、相手が彩実じゃなかったら、不法侵入で通報していたかもしれないが。
「今日は超絶ヒマでねぇ……友達の家にでも突撃しようかと思って」
「そんなバラエティ番組みたいなノリで……」
「でも外に出たら暑くてさぁ、ここなら窓からの風が気持ちいいから、藤香が帰ってくるまでこうして涼んでいることにしたの」
まあ、小高い丘の上にある建物で、窓のすぐ外は町全体を見下ろせるくらいだからな。すぐ下は崖になっているから、わたしはちょっと下を見るのが恐いけど。
「スマホであらかじめ連絡するという発想はないのか」
「それがちょうど壊れていてさぁ。家で待っていればそのうち会えるから、連絡できなくてもいいかと思って」
本当にやることなすことが大雑把すぎる……わたしはため息をついた。
彩実は基本的に優しいし、友達想いのいい子だと思う。だけど何をするにもなおざりな一面があって、失敗することも多い。同じ失敗を何度もしでかすほどバカではないし、周りの子も割と好意的に見てくれるので、しょうがない子だ、と思われることがほとんどだ。コミュニケーションを欠かさないことが幸いしていると言っていい。
あとはまあ、思い込んだら止まらない一面もある。今回だって、合い鍵を持っているし友達だから、勝手に入っても大丈夫だとか思っているのだ。こうなってはいくら言い聞かせても無駄なのだ。
「はあ……もういいか。それで、突撃したら次は何やるの? 勉強とか?」
「なぜ休みの日に友達の家に来てまでお勉強なのよ。ぱーっと遊ばなきゃもったいないでしょ?」
ぱーっと、と言いながら大手を広げる彩実。
「ソシャゲやったらガチャでぱーっと散財しそうな勢いだね」
「不吉な方向に解釈するのやめろい」
「んで? ぱーっとゲームでもするの」
「うーん……今日はゲームの気分でもないんだよなぁ。どこかに出かけるには時間が遅すぎるし、さてどうしたものか……」
彩実は腕を組んで真剣に考え始めた。今さら。本当に無計画なまま友達の家に突撃したのか……まあそれも、彩実らしいといえば彩実らしいが。
「そうだ! 旅行の計画を立てるのは?」
「旅行?」
「うん。藤香とふたりだけの旅行に行くの。どうせまだしばらく休みが続くし、ふたりでどっか行こうよ」
女ふたりだけの旅行か……考えたこともなかったけど、彩実とふたりだけというのはちょっと気恥ずかしいな。まあ、断る理由は特にないのだけど。
「いいけど……そういうのって、休みに入る前に計画立てるものじゃないの」
「だって休みに入ってすぐの頃って、藤香が何かと用事あるって言って、付き合い悪かったんじゃん。計画立てようにも顔合わせることもなかったし、そういう話にならなかったし」
「それは悪かったって……で、いつ行くの?」
「明日とか」
「気が早すぎるわ」わたしは即ツッコミ。「旅行の中身によっては準備に時間がかかるし、お金の用意も必要になるでしょ。計画も立てないうちに明日から旅行なんて無茶だって」
「だったらお金も手間もかからない旅行の中身を、今から考えようよっ」
彩実はすっくと立ち上がり、ダンスのようにくるくると回りながらそう言うのだった。まだ何も始めていないうちから楽しそうだ。祭りは準備をしている時が一番楽しいとよくいうが、これもそうなのだろうか……うん、違うか。これは彩実の性格だ。
仕方がないな……こうと決めたら曲げない彩実だから、とりあえずは付き合ってあげよう。案外、色々調べてみたら、お金も手間もかからない小旅行を思いつけるかもしれない。
「分かったよ……自転車で行ける範囲に、いいところがないか調べてみよっか」
「あっ、いいねぇ。自転車ならお金かからないし。藤香、この辺りの地図ってあるかな」
「道路地図なら一応……そっか、彩実、いまスマホ持ってないんだっけ」
「そうなんだよねぇ、だからネットで調べようにもどうにもできないんだよ。でも道路地図っていいかも。細かいやつだと隠れた名所とかも載っているし」
「じゃあ、取ってくるね」
「おっすー、お願い」
そう言って彩実はソファーでくつろぎ始めた。ひとの家なのに自由だな……まあ、そのくらいは友人として許しておこう。
さて、道路地図は電話台の下にあったはず……電話台の戸棚の扉を開けて、電話帳やら電話機の説明書やらでいっぱいになっている中から、近辺の道路地図を引き抜いた、その時だった。
ゴトッ。
重い物が静かにぶつかったような物音がした。廊下のどこかからだと思ったが……。
「…………?」
「ねぇ、藤香ぁ」
「ん、なに?」
ソファーの背もたれから顔を出している彩実に声をかけられ、わたしは振り向く。
彩実は心底楽しそうに、にかっと歯を出して笑っている。
「二人で旅行なんて久々だよね。今年の冬に行ったきりじゃない?」
「そうだね……って、半年しか経ってないじゃない。久々って言うほどかな」
「わたしはいつだって藤香と旅行に行きたいよぉ。いやもう、旅行じゃなくたっていい。二人でお出かけできるならなんだって……そう、なんならデートでもいい!」
「小旅行に変な意味つけないでくれる?」
最近は親しい友人同士での外出もデートに含まれるらしいけど、女子高生として普通に恋愛をしてみたい立場で、あまり軽々しくデートとは言いたくない。そう、これはあくまで小旅行なのだ。
とはいえ、彩実とデート……思ったほど悪くはない気がする。
ようやく引っぱり出した道路地図を片手に、わたしは彩実の待っているソファーへ。
「そういえば藤香、あれまだ持ってる?」
「あれって?」
「ほら、この前の旅行のときに、お土産で買ったやつ」
「ああ……あのラジオか」
半年前に二人で旅行に行ったとき、旅行先の公園でやっていたフリーマーケットで、おばあさんが売っていた古いラジオを、興味本位で買ったのだ。おばあさんの旦那さんが亡くなって、遺品を整理して出てきた不用品を、叩き売りに出していたという。
まあ、こういう使いどころの分からないものを、無計画に衝動買いしてしまうのは、もちろん彩実なのだが、なぜか彼女が買ったラジオはわたしが持っている。
「一応まだ持ってるよ。ホコリかぶってるけど」
「使ってないの?」
「彩実が『よく考えたら古いラジオとか使わないから藤香にあげる』って渡されて以来、一度もスイッチを入れてない。電池も切れてるかもね」
「えー、もったいなくない?」
「自分が使わないからって人に押しつけといてよく言うわね」
「だってぇ、何が特別なのかよく分かんなかったんだもん」
ソファーの背もたれに顎をのせて、口を尖らせる彩実。もん、って語尾につける奴が現実にいるのか……。
例のラジオを売っていたおばあさんは、このラジオには特別な秘密があると語っていた。どんな秘密なのかは教えてくれなかったし、きっとそのうち分かると言うばかりで、結局あれから半年経っても、その秘密が何なのか分かっていない。
……使わずに部屋の隅に置きっぱなしでは、分かるはずもないのだけど。まして彩実みたいに、持っていなければ言わずもがなだ。
そういえば、あのおばあさんは気になることを言っていた。どんな素敵な秘密があるんだろう、と浮かれていた彩実を見て、諭すように告げていた。
『お嬢さん。そのラジオの秘密が、素敵なものをもたらすとは限らないよ。世の中には、知らない方が幸せで、知らないから楽しいこともあるものさ。それに、知りたいことがあったとしても、教えてくれるとは限らない。わたしもこれを聞いて、がっかりしたことも何度かあったのよ』
おばあさんは困ったように笑っていた。あれは結局、どういう意味だったのだろう。あのラジオの秘密が分かれば、あの言葉の意味も分かるのだろうか。
「まあ、災害時に役立つこともあるだろうから、捨てずにとっておいてるけどね」
「電池だけで情報が手に入るのは確かにいいかもね。ほら、今のわたしはスマホが壊れているから、ニュースを見ようにもラジオを使うしかないわけよ」
「あんたの背後にある黒くてでっかい板は何だ」
彩実が座っているソファーは、テレビを見る時用に置いたものだ。情報収集ならテレビでもできるだろうに……災害なんて起きてない今、ラジオの出番は無に等しい。
「というわけで、せっかくだからあのラジオ、つけてみない?」
「話の繋がり方が謎すぎる……いいけど、旅行計画のことも忘れないでよ、と」
わたしは道路地図の冊子を、彩実の頭にポンと軽く叩きつけた。
「分かってるって」彩実は頭上の道路地図を受け取って答えた。「ところで、あのラジオはどこにあるの?」
「わたしの部屋にあるはずだけど……どこに仕舞ったかなぁ」
「半年も使わない間に置き場所を忘れたかぁ……」
いや、たぶん忘れてない。急に思い出せないだけで。
とりあえず旅行の行き先については彩実にまかせるとして、わたしは自分の部屋に戻ってラジオを探すことにした。なんか、さっきから彩実の言動に振り回されてばかりだなぁ。
たいして散らかっていないはずの部屋から、一個のラジオを見つけ出すのに、十分もかけてしまった。気づかないうちに部屋の奥まで追いやられていたようだ。やっとのことでラジオを発見(というか発掘?)したので、彩実のところへ戻る。
「ほら、あったよ」
「おー、なんだかすでに懐かしいねぇ」
「ちょっと分かる……半年も姿を見てないものね」
そのラジオはボディーが白くて(おばあさん曰く、白ではなく象牙色らしい)、古い物なのでデジタルの表示板などはなく、ツマミを回して周波数を合わせるタイプだ。両手にすっぽりと収まる大きさで、小型というには少し大きい。
スイッチを入れたのはそれこそ、買ってすぐに二人で聞いて以来かもしれない。二人でソファーに腰かけて、ちょっとドキドキしながら、視線の先にあるラジオのスイッチに、わたしは指をあてがう。
そして、オンにした。
『……ザザッ……関係者の話によると、○○氏の周辺でも離反する動きが相次いでいて、求心力の低下は否めないとのことです』
「…………」
「……ニュースじゃねぇか」
「時間的に六時前のニュースみたいだね。だけど、こうして改めて聞いてみても、特別なところなんて特になさそうだよね」
「もういいやぁ。特別な秘密とか、絶対わたし達に興味持たせて買わせるための嘘だよ。もう終わり、消しちゃうねー」
彩実はそう言って、早々にスイッチをオフにした。
「それより旅行先だけど、こことかどう?」
道路地図を片手に、わたしにぴったりと肩を寄せて、彩実は旅行の話を始めた。自分から言い出したくせに、もうラジオには興味を示さないみたいだ。
ソファーの前にあるテーブルの端っこに置いたラジオには目もくれず、わたし達は道路地図を見ながら旅行の流れを決めていく。彩実が見つけたのは、隣町の山の中にある史跡だった。距離的には自転車でも一日で回れそうだし、山の中腹にあるので見晴らしのいい所もある。ちょっとした、隠れた名所という感じがする。
「うん、いいんじゃない。軽い気分でお出かけするにはちょうどいいかも」
「決まりだね」
「じゃあ、待ち合わせ時間とかはどうしようか……」
「それなら、今日わたしここに泊まるから、ここから二人で直接行こうよ」
「またそんな急に……」
ちょっと楽しいと思っていた気分が台無しだ。げんなりとするわたしとは対照的に、友達の家に泊まる楽しみでいっぱいらしく、彩実の目は輝いていた。まだ許可してないのに。
「……着替えとか、持ってきてるの?」
「全然!」
「自慢げに言うな。服とかは貸してあげられるけど、下着とかはたぶんサイズ合わないよ」
「そうかなぁ」彩実の視線がわたしの胸元へ。「掴みづらさはわたしと大差なさそうだけど」
「誰の胸が掴みづらいって? はっ倒すわよ」
「まあ要するに、ちょっとくらいサイズが違っても大丈夫ってことだよ」
「それを言うために胸の掴みにくさを持ち出すのはどうかしてる。というか、なんで掴めるかどうかが基準なのよ」
「ほら、最終的に大事なのはやっぱりそういう所じゃん? ぐへへ」
「その手の動きやめて」
今にも掴みかからんとばかりに、手をワキワキとうねるように動かす彩実に、わたしは釘を刺しておいた。まったく、女しかいないからって奔放が過ぎるだろ。というか、最終的って何の話だ。
「服はともかく、下着を貸すのは恥ずかしい。まだお店も開いているし、今から買いに行ってくれば?」
「ちぇっ、分かったよぉ。えっと、この辺りで一番近い下着屋は……」
「ランジェリーショップって言え、変態」
「横文字使わないくらいで変態とか言うなよぉ。てか、藤香、どこ行くの?」
下着を売っていそうなお店を、道路地図で調べ始めた彩実を放置して、わたしはソファーから立ち上がって離れた。
「トイレに行くんだけど。言わせないで」
「おー、すまんすまん」
「まったく……」
さっきからずっと彩実のペースに振り回されている。明日のお出かけも、存分に彩実に振り回されそうだ。まあ、それも楽しみの一つだと思っておこう。
「ん? トイレ? やばっ……!」
そういえば、お母さんもずいぶん帰りが遅いな……彩実が泊まること、お母さんにも許可をもらいたいのに。
そんな事を考えながら、わたしはトイレのドアを開けた。
ドサッ。
直後、ドアの隙間から、血まみれの人間が出てきて、わたしの足元に倒れ込んだ。
* * *
「…………は?」
あまりに突然の出来事で、一瞬思考が停止していた。
「え? なに、これ……?」
足元に転がっている人物は、動く気配をまるで見せない。長くて少し荒れている黒髪は、その女性が多忙で髪を整える暇がないからだ。そして服装にも、体型にも、見覚えがある。ちょうどわたしの立っている角度から顔は見えないが、その死体が誰なのかは容易に察せられた。
彼女の背中には、うちで使っている包丁が突き立てられている。そのせいで、部屋着の背中部分はべっとりと赤黒く染まっている。殺されたのは明らかだった。わたしが帰宅する前からトイレに隠されていて、恐らく何かの拍子に倒れて、ドアに寄りかかった状態になったのだろう。たぶん、さっきの何かがぶつかる音がそれだ。
そして、彼女を殺害して隠したのは……。
「なんで……どうして、お母さんを……」
「あーあ、見つかっちゃった」
彩実の声が、すぐ後ろから聞こえて、わたしはびくりと肩を揺らした。
「やっぱトイレに隠したのは失敗だったかなぁ。どうしたっていつか誰かは入ってしまうもんね。クローゼットとかに隠しておけばよかった」
いつの間にかわたしの背後に来ていた彩実は、悪びれる様子も焦るそぶりも見せず、あっけらかんと自分のした事を白状した。この状況とあまりに釣り合わない彼女の言動に、わたしは慄然として、震えながらゆっくりと、ゆっくりと振り向く。
「……彩実、どうして、お母さんを……」
「殺すつもりなんて全然なかったよ。でもこの人、わたしに言いがかりをつけて、藤香と縁を切れって言い出すから、なんか腹が立って」
それで……そんな理由で、友達の母親を殺したのか。
ふざけんな、という言葉が出る前に、わたしの中の冷静な部分が、気になった言葉について口をついた。
「言いがかり、って……?」
「藤香が、平日に遅くまで帰らないことが増えて、休日も、それこそ夏休みに入ってからも家を空けることが増えたって。それで、藤香にいつも付き纏っているわたしが、悪い遊びに巻き込んでいるんじゃないかって」
「…………」
「わたしは全く身に覚えがなかったんだけど、わたし、この人にどうも好感を持たれてないみたいでね……一方的にわたしが悪いと決めつけて、汚らわしいから娘に近づかないで、なんて言い出したんだよ。ひどくない?」
ひどい……とは思う。お母さんはきっと、娘のわたしを案じて、彩実を突き放そうとしただけだろうけど、身に覚えのない人からすれば、たまったものじゃないだろう。せめて、わたしに事情を聞いてから、彩実への対応を決めるべきだった。
そして、これは恐らく……いや絶対に、わたしにも問題があった。ひどいといえば、わたしも同様なのだろう。
でも、だからと言って、彩実のしたことは見逃せない。わたしの、大切な、たった一人の肉親を……。
「それはあんたも同じでしょう!?」
彩実の言い訳を聞いてなお、わたしの怒りは膨らみ続けている。
「いくら腹が立ったからって、それだけで人の母親を殺すなんて、あんまりじゃない!」
「汚らわしいって言われて突き飛ばされて、殺意の湧かない人なんているの?」
「…………なんて?」
「わたしねぇ、それだけは言われたくなかったんだぁ。藤香への気持ちを、わたしの思いを、汚らわしいって言われるのは……」
彩実はにっこりと、穢れのない笑みを浮かべて言い放った。
「女の子を好きな人が、世間でよくそう言われるの、知らないのかな?」
……血の気が引いた。
彩実が、わたしのお母さんの言葉に腹を立て、凶行に走った、そもそもの要因は……わたしへの好意だ。それも単純な、友愛というレベルの好意じゃない。もっと大きく、失うことによるダメージが著しいほどの、強烈な想いがあった。
怒りが瞬時に引いた。その代わりに、目の前にいる友人の女の子への、筆舌に尽くしがたい恐れが襲ってきた。
わたしだって、彩実のことは好きだ。友人としてはもちろん、ひとりの女の子としても大切な存在だ。彩実に好きだと言われて、きっと悪い気はしないだろう。それが、こんな状況でなければ。
彩実を殺人に至らせたのは、わたしの母親の不用意な発言と謂れのない疑い、そして大きすぎる好意……そのどちらも、渦中にいたのは、他ならぬわたしだった。
「あ、彩実は、わたしのことを……」
「別に藤香が自分を責める必要なんてないんだよ。ただわたしが、藤香と一緒にいたかっただけなんだよ。ずっと、ずーっとね……」
いつもなら、そんなふうに言われたら嬉しく思えたのに、今は恐くて仕方がない。彩実のその感情は、叶わないと知れば殺人に手を染めるほどのものなのだ。思い込んだら止まらない性格とは知っていたけど、ここまでだなんて。
彩実がじりじりと、わたしとの距離を縮めようとしてくる。彩実はずっと笑っている。その笑顔が恐いはずなのに、なぜだか目を逸らせない。まるでわたしの意識が、彼女の笑顔に引き寄せられ、縛りつけられているように。
駄目だ。飲み込まれちゃ、駄目だ。
彩実が近づいて来るごとに、わたしはゆっくりと後ずさる。そのまま走って逃げればいいのに、彩実の笑顔から目を離せなくて、逃げ方が分からない。
「ねえ藤香、どうせもう後戻りできないんだし、こうなったら今からでも旅行に行ってみない? 藤香と最後の思い出作り、してみたいな」
「あんた、何言って……」
「藤香のお母さんを殺しちゃったのは、なかったことに出来ないし、自首しても逃げても破滅が待ってるだけ……そうなる前に、藤香といっぱい遊んで、後悔なく人生終了したいわけ。一度諦めていたけど、藤香が帰って来てくれてよかった」
一度諦めたって、どういう……。
その言葉の意味を問いかけようとしたが、後ろへの注意を怠っていたせいで、ソファーの肘掛けに足をぶつけて、わたしはよろけて後ろ向きに倒れてしまった。
思い切り尻もちをついて、すぐに起き上がれない。
「いったぁ……」
「大丈夫ぅ? 藤香」
「ひっ……!」
完全に油断していた。彩実はわたしの、文字通り目の前まで接近していて、床に倒れたわたしに覆い被さるように、四つん這いになってわたしを見つめていた。さながらラブコメの、押し倒されてキスをされる寸前のように。
もちろん、そんなロマンチックな状況では断じてない。
彩実は丸腰で、その笑顔には一切の悪意も敵意もない。普通に考えてわたしが襲われるとは思えないのに、わたしは冷や汗が止まらない。心臓の拍動が激しさを増している。
……あるいは、彩実の顔が目の前にあって、緊張でドキドキしているのか?
わたしもそれくらい、彩実のことを……?
ああ、もう、何も分からない。何も考えられない。
床に両手と尻もちをつきながら、わたしはもがくように後ろへ下がろうとするけど、その度に彩実は四つん這いのまま近づいて、わたしの視線を掴まえている。
「ねえ、藤香は、わたしのことを友達だって思ってるよね?」
「あ、あぅ……」
「わたしは藤香が好きだけど、だからって友達以上になりたいってわけじゃない。ただ一緒にいられたらいいの。だから、友達だと思ってくれるだけで嬉しいんだ」
「いや、あの……」
「だって、藤香と一緒にいるだけで楽しいし、顔立ちも髪も綺麗だし、ちょっと胸は小さいけどスタイルもいいし、ぶっきらぼうに見えて人を気遣えて優しいし……こんな素敵な女の子、そばに置きたいって思うのは自然だよぉ」
「待って、彩実……!」
「ああ、好きだよ、藤香……このまま、わたしと、ずーっと一緒n
堅いものがぶつかるような鈍い音がして、わたしは目を開いた。……いつの間にかわたしは、両目をぎゅっと閉じていたらしい。
目の前にある光景を見ても、わたしの心は凪いだままだった。
安心した、というか安堵したのかな。
彩実はわたしの脚の間にうつ伏せで倒れ、わたしのお腹に顔をうずめていた。そして後頭部は血が滲んでいた。
呆然とするわたしの左手には、あの象牙色の古いラジオが握られている。その角には、べっとりと血がついている。
「…………」
物言わぬ身となった彩実の頭を見下ろして、わたしは悟った。
わたしが、彩実を、死なせたと。
「……なんでよ」
自責の念がじわじわと生じて、涙がぽろぽろとこぼれてくる。
「なんで、もっと……好きだって言うなら、もっと普通に、恥ずかしそうに言って、ほしかったのに……」
彩実があんなふうに言ってくれて、本当に嬉しかった。わたしだって、同じことを言いたかったし、彩実にも言ってほしいと思ってきた。
それなのに、血に染めた手をわたしに差し伸べられると思ったら、何ひとつ素直に受け取れなかった。
そのことが、悲しくて、悔しくて、情けなくて……挙句の果てに、これ以上近づかせたくないという一心で、彩実をラジオで殴ってしまった。二人で買った、思い出の品を、凶器にしてしまった。
どうしてだ。こんなはずじゃなかったのに。
「わたしだって、彩実と一緒にいたかった……ずっと一緒にいられたら、幸せだろうなって思ってた。だから……」
だから、彩実と同じことをした。
だから、今日は帰りが遅かったのだ。
「彩実のお父さんとお母さんを、殺してきたのに……無駄になっちゃったじゃん」
わたしのお母さんが気にしていたこと……平日の帰りが遅いこと、休日に必ずどこかへ出かけていること。それはすべて、彩実の父親と会うためだった。
平日も休日も関係なく、仕事で多忙を極め、いつも疲れた様子の母親を、わたしはずっと見てきた。そのうち、わたしのお世話に手をかけさせず、お金の面でも楽をさせたいと思うようになっていた。
高校生でもできる割のいい仕事を探している時に、彩実の父親と出会った。もちろん友達の父親なので、家へ遊びに行ったときに面識はあったが、この時に初めて、二人きりで話したことになる。そして彼から提案された、高校生にできて割のいい仕事とは……稼ぎのある成人男性と一時的な交際をして、その対価としてお金をもらうことだった。
要するに、彩実の父親はわたしに、パパ活を斡旋したのだ。最初にわたしを見た時から、その素質があると判断し、SNSの知り合いを何人も紹介してきた。もちろん、彩実の父親もその相手に含まれていた。
最初はただ一緒に食事をするだけだったが、相手の方が味を占めたのか、次第に注文の内容はエスカレートしていった。ボディタッチ、露出の多い服、しまいには自慰行為を見せて撮影させるという、犯罪と言っていい行為まで要求されるようになった。その度に報酬の額は上がっていたが、比例してわたしの恐怖心もじわじわと上がっていた。
そして今日、これ以上エスカレートする前にやめたいと、彩実の父親に申し出たのだ。しかし彼は拒んだ。
彼は最近、職場で何やらヘマをしでかして、降格処分を受けて給料が減ってしまい、そのせいで、家計を管理している母親からの小遣いも減らされたという。それで副業としてパパ活の斡旋を始め、紹介料をこっそり稼いでいたのだ。
でも、そんな事情などわたしには関係なかった。そもそも、大切な友人である彩実を裏切っていることもあって、罪悪感に苛まれながら続けるのは無理だったのだ。何と言おうと続けるつもりはないと言ったら、彩実の父親は激昂して、わたしを押し倒して、無理やりわたしを犯そうとしたのだ。
悪い出来事とは続くものだ。大の男に押さえつけられ、抵抗できず、されるがままになっていたところを、彩実の母親に目撃されてしまったのだ。母親は父親を跳ねのけて、わたしを助け出そうとした。そのせいで、感情まかせになっていた父親と取っ組み合いになった。
……ほっと一安心、なんてことは微塵もなかった。むしろ恐怖ばかりがあった。
今回のことが表沙汰になればどうなるか。彩実の父親は捕まって、わたしはパパ活から解放される。だがその代わり、父親がパパ活を斡旋していたとして、彩実は周りから白眼視される。わたし自身もたぶん高校にはいられなくなる。何より、ずっと内緒にしていたパパ活行為を、彩実に知られてしまう。いずれにしても、もう彩実と一緒にはいられなくなる。
そのことが、わたしにとっては何よりの恐怖だった。人付き合いが苦手なわたしにとって、彩実は貴重な友人で、それを失って孤独に突き落とされることが、とてつもなく恐かったのだ。
わたしは、彩実の父親の手から解放された隙に、部屋にあった父親のゴルフクラブを使って、無我夢中に振り回しているうちに、二人を撲殺してしまった。
そしてその足で、ここに戻ってきた。
「とりあえずひと晩考えて、身の振り方を決めようと思っていたのに、ここで彩実と出くわすし、しかも彩実もわたしのお母さんを殺しているし、最悪の日だよ、本当に……」
なんともひどい偶然というか、不吉な巡り合わせというか。友人同士のわたし達が、一緒にいたいという理由だけで、同じ日に、何も知らずに互いの親を殺していたなんて。これも互いを想っていた親友ゆえなのかな。
「その親友も殺してしまうんだもん……わたしの人生も終わったなぁ」
悲しいはずなのに、苦しいはずなのに、なぜかホッとしている自分がいる。母親や彩実に黙って、最低な行為を繰り返してきた、その罪悪感からは解放されたから、だろうか。母親が死んで、親友も死んだ。何もかもどうでもいいと思えたら気が楽だ。
ああ、でも後悔もあるなぁ……。
「ラジオ、壊れてないかな……」
なんだか彩実の亡骸を放り出すのも忍びないから、わたしの腹部に彩実を被せたまま、わたしは手元のラジオを見た。
彩実の頭部にぶつけた箇所は、明らかに表面が欠けている。しかし、スイッチを入れてみると、若干のノイズは入るが、ちゃんと音声は流れてくる。
「よかった、これが無事なのが唯一の救いかな」
『……ザザッ……次のニュースです。○○県△△市の一戸建ての住宅で、四十代の夫婦の遺体が発見された事件について……』
「え?」
一瞬、幻聴かと思った。
流れてきたニュースは、ちょうどこの町で起きた殺人事件の話題だった。四十代の夫婦……彩実の両親の年代と一緒だ。偶然だろうか?
『昨晩八時ごろ、近所の通報で警察が駆けつけ、この家に住む真中賢哉さん、淑子さん夫婦が、頭から血を流して倒れている所を発見しました。警察の調べによりますと……』
偶然なんかじゃ、ない。流れてきた名前は間違いなく、彩実の両親だ。
おかしい……見つかってニュースになるのが早すぎる。ゴルフクラブで殴った後、二人の遺体は部屋に放置していた。夜になっても明かりがつかなくて、不審に思った近所の人が通報したのだろうが、まだ六時になって間もないはずなのに……。
六時?
あれ、さっきラジオは、昨晩八時と言ってなかったか……?
「もしかして、これって、明日のニュース……?」
ようやく分かった。このラジオの秘密。
このラジオから流れてくるのは、翌日の同じ時間に放送する内容なのだ。言ってみれば、未来が分かるラジオというところか。
でもラジオなので、流れてくる情報は放送局の都合次第だから、例えば明日の試合の結果が知りたいと思っても、都合よく流れてくるとは限らない。そして、未来の出来事を知って幸せになるとは限らないし、知ってがっかりすることもあるだろう。
それが、おばあさんの言葉の真意だ。
「何よ、確かに素敵ってわけじゃないけど、面白い秘密じゃない……あのまま最後まで聞いていたら、気づいたかもしれないのに、彩実ももったいないことしたなぁ」
ニュースが流れただけじゃ、それだけでどの日付のものかは分からない。でも、あのままスイッチを切らずに聞き続けていれば、何かしら手掛かりが聞こえてきたかもしれない。でもまあ、こういうのは飽きっぽい彩実に向かないかな。
……というか、こうしてニュースになって、警察も動いているってことは、今のわたしの状況って危うくないか。警察が調べれば、あの家に娘が一人いて、その子が行方不明になっていることはすぐに分かる。いずれはここにも辿り着くかもしれない。
まあ、その時は観念するしかないか。わたしが彩実の両親を殺したのは、彩実と一緒にいるためだ。今はその彩実もいない。だったら逃げる意味なんて……。
『そして今日の午前十時ごろ、真中さん夫婦の娘である彩実さん(17)が、△△市内の山中で、遺体で発見されました』
「…………え?」
『警察による検視の結果、高所から墜落したことによる全身打撲が死因と断定されました。また、近所の住人からは、昨日の午後三時ごろ、現場の真上にあるマンションから人影が飛び降りたところが目撃されており、警察は自殺とみて捜査を進めています』
は?
えっ、ちょっと、待って……は? は? どういうこと?
彩実が、このマンションから飛び降りた? 自殺? それも、午後三時ごろ?
いや、いやいや、いやいやいや。
おかしいでしょ。わたしがこの部屋に戻ってきて、彩実と出くわしたのが、日没の直後だぞ。夏の日没だから、少なくとも五時よりは後だよ?
それなのに、そのずっと前、三時ごろには飛び降りて死んでいた?
ちょっと待って。だったら……。
いま、わたしのお腹に覆い被さっている、この子は?
「…………っ!」
分かった。何ひとつ訳が分からないのに、分かってしまった。
なぜ彩実は窓を開けていたのか。窓を開けて、そこから飛び降りたから、閉められなかったのだ。
なぜ彩実のスマホは壊れたのか。スマホを持ったまま飛び降りて、その衝撃で壊れたのだ。
彩実の言っていた「一度諦めた」とはどういうことか。すでに一度、後悔を抱えたまま死んでいたという意味だ。
つまり、そういうことだったのだ。
……ラジオからは、ニュースの続きが流れている。これはすぐ未来の、明日のこの時間に流れているニュースだ。
―――知りたいことがあったとしても、教えてくれるとは限らない。
おばあさんの言ったとおりだ。ラジオはまだ、同じニュースを流しているのに、わたしの一番知りたいことは教えてくれない。
わたしがこれから、どうなってしまうのか。
わたしのこの身が、どんな結末を迎えてしまうのか。
ねえ、早く教えてよ。わたしは知りたいのよ。逃げることを諦め、警察に捕まることも覚悟したはずのわたしが、得体の知れないものと同じ空間にいて、明日にはどんなことになっているのか、今はそれだけが知りたいのに。
なんで。どうして、肝心なことは何も教えてくれないの。
早く。早く。さっさと教えて。
だって早くしないと、この、彩実であって彩実でない、訳の分からない何かが、もうすぐ目覚めだして……。
「…………」
「…………」
知りたいことを何ひとつ伝えないまま、ラジオは次のニュースに移った。
そしてふと、ラジオから自分の腹部へ視線を移したとき、それと目が合った。
遅かった。
それは、さっきまでと変わらない、屈託のない魅力的な笑顔で、額から血と脳漿を垂らしながら言った。
「藤香。明日はいよいよ旅行だよ。お金もかからない、二人だけの小旅行」
二人だけの旅行。その行き先は……。
「わたしと一緒に、旅立とうね」
ホラー初挑戦です。この手の作品を全く見たことがないので、とりあえず自分が恐ろしいと思えるものを書いてみました。最後の最後で亡霊っぽいものを使ってしまうあたり、いかにも素人っぽいと思わずにいられません。
前回の公式企画『春の推理2022』でも、女子高生二人をメインにしていましたが、懲りずに今回も女子高生二人がメインです。しかもまた片方が××です。そして、前回はふわっと表現するだけに留めた“百合”ですが、今回はがっつりと本筋に絡めました。やっぱ、この世で一番怖いのって、感情が暴走した時だと思うんですよ。
ラジオをテーマに、という話ではありましたが、ラジオそのものに恐怖ポイントは与えていません。なんてことない普通のニュースが、知りたくなかった真実に気づかせてしまう、という形で恐怖感を演出したかったのです。上手いこといったのでしょうか……。
初めて書いたホラー作品なので、至らない所は数多くありましょう。しかも締め切りギリギリでの投稿……これも前回と同じです。でも何とか間に合わせられました。普段はミステリや百合を書いている深井陽介が、ホラーを書いたらどうなるか、お楽しみいただけましたか。
ところで、アナログラジオの変調方式には、AMとFMがありますね。その要素も作中にあるので、探してみてください。では。