03.
ボソリと呟かれた八尋の言葉は小さく、しかし信貴の気を引くのには充分な大きさだった。
赤い糸が見えるのは自分だけの筈だ。
八尋には、というより他の誰にも見えない筈だ。
赤い糸が自分以外に見えないものだと証明してくれたのは、他ならない八尋なのだから。
だが、八尋の眼は確かに信貴の薬指から垂れる赤い糸を捉えていて困惑する。
「……い、今……なんて……」
八尋が何と言ったか。はっきり聴こえていたのに、どうしても信じられず信貴は改めて問い返してしまう。
八尋は今度こそ嘲笑に顔を歪めた。
「赤い糸がそんなに重要か?」
「!」
「赤い糸が見えるとして、何か意味があるのか」
「…………」
赤い糸が見える意味――。
信貴は、そんなことは考えたことすらなかった。
信貴にとって赤い糸はあって当たり前のもので、そこに意味を求めたりするものではなかったからだ。
それは、言い換えれば「人間になぜ生きるのか」尋ねるようなものだ。
だが、もし信貴が赤い糸に意味を持たせるとしたら、そんなものは龍姫に決まっている。それ以外有り得なかった。
赤い糸は運命の相手を指し示す。一生添い遂げる相手を繋ぐ大切な糸だ。赤い糸が見えたことで信貴は龍姫と結婚できたと思っている。
だから、信貴にとって赤い糸が見える意味とは、龍姫に出会う為の必須条件のようなもので、赤い糸の意味を語るなら龍姫だった。
「意味は龍姫だ……! この赤い糸は龍姫と……っ」
「お前のは薔薇色だ」
赤い糸は龍姫と出会う為のものだったと信貴は言おうとして、不可解な八尋の言葉に遮られる。
「? バラ……薔薇色……?」
信貴は単語を呆然と繰り返すしか出来ず、途方に暮れた。
意味が分からなかった。
「お前と彼女を繋いでいたのは赤い糸じゃない。薔薇色の糸だ」
「赤い糸じゃない……? 薔薇色の……糸?」
薔薇色……ともう一度復唱して、左手を掲げて見てみる。
薬指から垂れる糸は、言われてみれば赤というよりは鮮やかな深紅……薔薇色と言われてもおかしくない。
しかし、信貴にとって問題はそこではなかった。
どうして八尋はそんなことを知っているのか。いや、そんなことよりもやはり見えているのか。自分よりも詳しく色の分別まで正確に。
ならばなぜ今まで隠していたのか。
この時点で完全にキャパオーバーだったのに、八尋は信貴をさらにどん底に突き落とす言葉を吐いた。
「薔薇色の糸は赤い糸と違う。赤い糸は正しく運命だろうが、薔薇色の糸は男女間の性欲のみの……遊び相手の間で結ばれるものだ」
「は……?」
遊び相手。今、遊び相手と言ったのか。
――龍姫が……遊び相手だと?
フツフツと信貴の中で湧き上がる怒りを知らず、八尋は淡々と続ける。
「こっちが赤い糸だ」
そう言って掲げられたのは、八尋自身の左手だった。
「っ!? ちょ、ちょっと待て……だって……君、それ……」
八尋の赤い糸は初めて見たときから変わらず、誰とも繋がれないまま薬指から垂れ下がっていた。
赤い糸は運命ではないのか。それとも運命がいない人間もいるとでも言うつもりか。
そう言いたいことが伝わったのか、八尋は簡単明確に言い放つ。
「自分で切った」
「きっ……、え? 切った?」
「切った。………お前と、繋がっていたから」
「……え?」
情報過多で、整理ができない。
八尋は、赤い糸が見えていた?
八尋も、赤い糸の存在を知っていた?
八尋は、赤い糸以外の存在すら知っていた?
八尋は、最初から俺の糸が彼女と繋がっているのを知っていた?
いや、俺の糸は初め八尋と繋がっていた?
……どういうことだ。
信貴も、糸が同性間でも結ばれている場合があるのは見て知っている。
けれど、信貴は八尋と糸が繋がっている瞬間を、一度も見たことがなかった。
困惑を深める信貴に、八尋も自嘲の笑みを深める。
「……知っているか? 本来繋がっていた糸は、何度切っても離しても、近づけるだけで再び繋がろうと藻掻く」
「!!」
八尋が、途中で切れている己の赤い糸を信貴の糸に近づけたときだった。
まるで、生き物のように信貴のそれがピクンと跳ね動いた。
鮮やかだった薔薇色が、切れた先から赤い色に変わり、うねり、伸びて、八尋のとっさに隠された左手の上の右手にまとわりつく。
信貴の糸が、何とか八尋の左手に近づこうと四苦八苦しているのが見てとれた。
「……ッ!! や、やめろ!!」
信貴は思わず叫んで、自分の左手から伸びる赤い糸をわし掴んだ。
「ちが……っ、ちがう! おれ、俺は……!」
「違わない」
「……っ違う! だって俺の、俺の糸は龍姫と繋がってる……ば、薔薇色の糸なんだろ!?」
「何も糸は一本だけじゃない。複数存在する。その為の色だ」
「……っで、でも……今まで……今まで龍姫以外との糸が見えたことなんて……!」
「当たり前だ。お前には私と、龍姫以外の糸はなかった」
「――!!」
だから、自分との縁を切ってしまえば、必然と信貴の縁は龍姫のみになるのだと、八尋は己の途中で切れている糸をスラックスのポケットに左手ごと突っ込む。
「繰り返すが、薔薇色の糸は遊び相手の糸だ」
「! ……それはもう聞いた」
「……納得したのなら話は早い。遊び相手の子供を産んだ場合、薔薇色の糸は切れるんだよ」
運命の赤い糸とは違い、薔薇色の糸は性欲のみで繋がっているような関係に結ばれる糸だ。と八尋は瞼を伏せた。
本来の役割が違うのだと。役割から外れたら、糸は切れるのだと。
「う、嘘だ!」
信貴は悲鳴に近い声を上げる。
「その原理で言ったら、あの子が生まれた瞬間に糸は……切れていた筈……っ」
「龍姫はお前との糸を無意識に繋ぎ直していた」
眼を伏せたまま、八尋が語る真実はどこまでも残酷だった。
「それも何度も、何度も、何度もだ」
つまり――、
「糸が自然に切れた場合、それは本来修復不可能だ」
龍姫は信貴を愛していた。
「だがあの女は娘を産んでから、自然と千切れる度に結び直していた」
真実、性欲のみではなく。愛していた。
「それがどういうことか分かるか?」
薔薇色の糸という運命に関わらず、本気で。性欲のみではない愛情を向けていた。それは――、
「寿命を、縮めるんだよ」
「龍姫が死んだのはお前のせいだ。お前の子供を産んだから……龍姫は、死んだ」




