02.
「御臨終です」
テレビドラマのように告げられた言葉は、信貴の鼓膜をただ揺らした。
理解が追いつかない。いや、理解したくなかった。
自分の人生を捧げ、そして相手の人生を背負うならこの人しかいない、と。この人と結婚したい。幸せにしたい。幸せになりたい。一緒に、幸せに。そう誓った相手だったのに。
妻を失い、まだ幼い娘を抱えて信貴は途方にくれた。
娘の為にも自分が冷静に、理性的に物事を捉え、これからどうすべきか考えなければいけないことは信貴にも分かっていた。けれど、感情がそれを拒否した。
皮肉ではあるが、信貴の頭から八尋が消えたのは後にも先にもこのただ一度きりだった。
龍姫がいない。最愛の彼女がいない。
もう、彼女の笑顔どころか怒った顔も見れない。もう彼女の声も聞けない。触れる手の温かさも感じることはできないと思うと、信貴は涙が溢れて止まらなかった。
傍目にも、信貴は娘と後追い心中でもするのではないかというほどに酷い状態だった。
数人の友人が信貴の家を代わる代わる訪れては、信貴と娘の安否を確認して帰っていく日々。
信貴にとって色のない日々、と言うに相応しい時間だった。誰が来ようと龍姫の代わりにはなれないし、少しも心は動かない。感情は揺れず、波紋すら浮かばない水面のように静かだ。ただただ、彼女が恋しかった。
ともすれば、本当に後追い心中をしていたかもしれないと信貴は考える。
あのとき、八尋が訪ねてこなければ、確実に今とは違った結末になっていただろう。
「……なんだ、その湿気た面は」
「……や、しろ……?」
数年の音信不通を破り、突然現れた八尋はため息と共に辛辣な言葉を吐いた。
事情を知っているなら決して口にはしない言葉だ。
八尋がそれを知らない筈がないのに。
しかし、これだと信貴は思う。これが八尋なのだ。人間嫌いで、わざと人に嫌われるような言葉を選んで放つ。
以前と全く変わらない八尋のその態度は、信貴の静かだった心に一滴の感情を落とした。それは、ゆっくりと波紋を広げ、大きな波に変わる。
「……なん、でっ……」
気がつけば、信貴は八尋の胸ぐらを掴んでいた。
「いまさら……っ、なんで来たんだ」
「…………」
八尋は無言で信貴を見る。
頭のどこかで止せ、と止める声がするのに、溢れる出る感情は信貴の意思に反して止まらない。
「あのときの俺が……っ、どんな気持ちか……分かってたくせに…… 俺がどんなに君を必要としていたか知ってたくせに……っ」
わからなかったなんて言わせない。と信貴は八尋を睨んだ。
八尋がそんな鈍い人間じゃないことは、信貴が一番よく知っている。
「なんでいまさら現れた。なんで今まで傍にいてくれなかった。なんで今なんだ……なんで……なんで、なんで……ッ」
八尋の胸ぐらを掴む信貴の手が、いっそう強く震えた。
「なんで龍姫の葬式に来てくれなかったんだっ!」
君も彼女が好きだった筈だ、と。信貴は自分の立場を棚に上げて八尋を責めたてる。
「君も好きだっただろう!? 愛してただろう!?」
――俺と同じように。いや、それ以上に。好いていた筈なのに。
「…………待ってたのに……っ」
――なにがあっても君なら来てくれると信じていた。例え、俺との仲が修復不可能な程に拗れていても。
目の奥が熱くなる感覚に、思わず信貴は視線を逸らした。
こんな状況でも泣き顔を見られるのは恥ずかしいという感情があるのか、と自嘲する。
しかし八尋から嘲笑うような声が聞こえて、ムッとして視線を戻せばその顔を彩っていたのは苦笑いで面食らった。
「……お前、自分が何を言っているか分かっているか」
「……、……」
八尋の、仕方のない子供へ諭すような言い方が癇に障る。
眉を顰めて先を促せば、八尋の歪んだ唇は無慈悲な言葉を吐いた。
「お前が私を必要としていたことは知っている。だが、それとこれとは違うだろう」
「っ!」
「なんでいまさら現れた? なんで傍にいなかった? だと? ……その質問は、龍姫の為じゃないだろう」
「!!」
凍りついて立ち尽くす信貴を他所に、八尋はさらに続ける。
「全部、お前自身の為のものだろう。龍姫の前で、よくそんな言葉が吐けたな」
八尋の視線の先、微笑む龍姫の遺影に信貴は息を呑んだ。
信貴を、罪悪感が襲う。
八尋の言っていることに間違いはないからだ。
自分が辛くて、八尋に支えて欲しくて、なのに八尋が隣に居ないことが辛くて、なんで自分の傍にいてくれないのかと八尋を責めた。
龍姫がいなくて悲しい気持ちをなんとかしてほしくて八尋を求めた。どうにもならなかった事情を、八尋のせいにした。
「あ、ぁあ……」
信貴の唇から嗚咽が漏れる。
わかってる。八尋は悪くない。正論だ。自分が悪いんだ。だけど苦しくて苦しくて堪らないんだと、信貴は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
視界の端に、赤い線が映る。
龍姫が事切れた瞬間に切れて、今は薬指からただ垂れて揺れる赤い糸。
無情に揺れる赤い糸を恨めしく思ったときだった。
「……ハッ、赤い糸か」




