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01.

 鳥井崎信貴(とりいざきしぎ)には通常ならありえないものが見える。

 と言っても、別に幽霊や妖怪といった夏の風物詩のことじゃない。所謂、運命の赤い糸というやつだ。


 いつからなのかは信貴も覚えていない。気がついたら見えていて、不思議なことにそれに全く違和感をもたなかった。皆、見えているものだと思っていたくらいだ。

 信貴にだけ見えているものだと気づいたのは、嘉神八尋(かがみやしろ)がきっかけだった。


 当時、信貴はまだ中学に入ったばかりで、友達といえば幼馴染の八尋しかおらず、いつも彼と一緒に行動していた。

 四六時中傍にいるのだ。八尋の糸が、自然と目に入ってきても不思議はなかった。


 ふと目についた八尋の糸。運命の相手に繋がっているだろう、赤い糸。

 だがしかし、八尋の糸は皆と同じように指から垂れ下がっていたが、その先が無かった。切れていたのだ。


 そんなことがありえるのか。


 信貴にとって、運命の赤い糸は当たり前にあるもので、今までの経験上からも相手がいない人間などありえなかった。

 なのに、八尋の糸には先がない。

 疑問に思った信貴は、バカ正直に尋ねた。


「八尋、なんで君の糸、切れてるの?」

「……は? 何を言っている?」


 返ってきた答えは、今ならば当たり前と認識できるものだった。


 件の八尋の発言によって、信貴は赤い糸が自分にだけ見えるもので、不確かなものだと認識できた。それについては、今はお世辞にも仲がいいとは言えなくなってしまった関係でも、信貴はありがたく思っている。

 もし赤い糸が見えるなどと教師や大人の前で口走っていたら、どういうことになっていたか想像するに容易い。


 だが、結果的には逆に謎が一つ増えたようなものだった。

 なぜ、八尋の糸には先がないのか。恋人のいない自分にさえ、薬指から伸びる赤い糸が存在していたというのに。


 八尋の赤い糸が存在しないことに気づいてから、信貴は彼を観察することが癖になった。

 彼のふとした表情。ちょっとした仕種。少しキツい言葉遣い。

 それらからわかったことは、彼は極度の人間嫌いらしいということだった。

 でも時々、ひどく優しげな目で信貴を見る。

 人間嫌いの八尋が、信貴とだけはなぜ一緒にいてくれるのか。理由がどこにあるのかまったく分からなかったが、なんにせよ信貴にとって嬉しいことであるのは確かだった。

 それは、他の人間には懐かなかった気位の高い猫が、自分だけには懐いたような優越感に似ていた。自分だけ特別だと言外に言われているような気がして嬉しかったのだ。

 下卑た快感だと言ってしまえばそれまでだが、嬉しいものは嬉しいし、人間なら当たり前の感情だろう。


 その関係は、ずっと続くものだと信貴は思っていた。明確な理由も根拠もなかったのに。


 案の定、と言っていいものかどうか。関係が変わったのは、突然だった。

 ……いや、予感はあった。彼女と出会った瞬間に感じた違和感は、今思えばそうだったのだと信貴は思う。

 彼女を見た瞬間の、八尋の目。驚愕と羨望と哀愁が、ない交ぜになった目だった。

 今まで見たことがない顔をして彼女を凝視した後、八尋は信貴を見た。なんとも言い難い視線で。

 どこか、愛憎を感じる目だった。

 信貴は、八尋が彼女に恋をしたのかと思った。自分がそうだったから。

 彼女は優しく聡明で、とても明るい性格をしていた。誰からも好かれる太陽のような女性だった。信貴が一目で恋に落ちるほどに。

 極めつけは自分と彼女を繋ぐ赤い糸の存在だったが、例え赤い糸が見えなかったとしても、もしくは赤い糸が彼女と繋がっていなくても、信貴の気持ちには微塵の揺らぎもなかっただろう。

 その気持ちを、八尋に見抜かれ敵意を抱かれたのだと信貴は考えた。


 それに、その後の八尋の対応も、信貴の予想に拍車をかけた。

 あれほど一緒にいることが自他共に普通という認識になっていたというのに、一切自分に近寄らなくなった。

 言葉の暴力や、明確な嫌悪を向けられたわけではない。むしろ、八尋からの視線は以前と変わらず常に感じていたくらいだ。しかし、一切の接触がない生活というのは、信貴にとって物理的にも精神的にも突き放されたようなものだった。

 ある人にはケンカでもしたのかと心配され、ある人には八尋はついに本性を表したんだと揶揄された。

 信貴には、言い返す言葉が見つからなかった。実際どうなのか、当事者である信貴にすら分からなかったからだ。


 信貴の悩みを嘲笑うかのように、時間はあっさりと過ぎていった。

 気がつけば八尋と最後に話したのは数年前という有り様で、八尋のいない生活に慣れていく自分が知らない人間のようだと思ったことすら、すでに過去のことだ。

 今、八尋の代わりに信貴の隣にいるのは彼女――龍姫(たつき)だった。


 龍姫と信貴は、長年の交際を経た末に結婚した。

 八尋が居なくなって信貴の心に空いた穴を、龍姫が埋めてくれたと言ってもいい。

 龍姫との間に娘も生まれ、信貴は幸せの絶頂――、の筈だった。愛する女性と結ばれ、最愛の娘も誕生し、これ以上の幸せはないだろう。頭の中が、妻である龍姫と娘のことだけで埋まっていてもおかしくない筈だった。

 それなのに、なぜかその頭の大半を占めるのは未だに八尋のことばかりで、信貴は困惑を隠せなかった。


 学校を卒業して社会人になった今、滅多に会わないのは当然だし会う理由もない。誰にでも分かる簡単な話だ。にも関わらず、信貴の中にはどこか納得できない自分がいたのだ。


 たかだか親友。されど親友。ただの友達じゃない。親友だ。

 そう、信貴にとって八尋は間違いなく親友だったのだ。物理的に距離をおかれ、精神的に突き放されて、心を病むほどに。

 八尋という存在の大きさに信貴は直面していた。


 龍姫が信貴の心情に気づいていたのかどうかは定かではない。

 ただ、転機は過ぎていった時間と同じであっさりと訪れた。…最悪の形で。




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