【第四回・文章×絵企画】【注ぐは、水と】
牧田紗矢乃さま主催【第四回・文章×絵企画】の参加作品です。
檸檬 絵郎さま(https://22105.mitemin.net/)のイラスト『絵画鑑賞』に文章をつけさせていただきました。素敵なイラストをお借りした檸檬 絵郎様に、深く御礼申し上げます。
ジャンルは指定なし、必須要素は美術館の作品です。
命に水を注ぐ音がする。
「何してるの?」
私たちはまだ赤と黒のランドセルで色付けられている途中。
「助けてる」
彼が持つプリンのカップから注がれるのは小川の水。
「おたまじゃくし?」
日の光を水面に眩しいほど反射させていた田んぼも、今やすっかり地表を覗かせ。点々と残る小さな水たまりのひとつに、いくつもの黒い小さな命が行く当てもなくつるつると絶えず泳いでいる。
「こいつら、生まれるのが遅かったのかな?」
彼は慈悲深い視線も注ぐ。
「ちょっと前まで他のは、こーんなに広いとこ泳いでたのにね」
私は視線を少し上げ、さらさら風に揺れ広がる緑の稲を眼球に映した。
ふと隣を見ると誰もいない。
彼はまた小川から、プリンのカップに水をくんで戻って来るところだった。
「おたまじゃくし、好きなの?」
命に水を注ぐ音がする。
「嫌いじゃない」
彼は慈悲深い視線も注ぐ。
「……カエルは?」
顔を上げた彼の眼球が、この地に広がる緑色を含んだ。
「あいつらは、だって」
風が止んだ。
「どこにでもいけるだろ?」
「タンタカ、タンよ。タンタカ、タン」
お酒じゃないんだから、と幼児を前にして心の内側で呟く。厳しい口調とは裏腹に、今行っていることを冷めた気持ちで見ている自分がいる。
「先生……、できません」
小太鼓のバチを持った小さな両手と頭はうなだれている。運動会の練習で、グラウンドに綺麗に整列している年少組。確かに他の幼稚園に比べて、この年頃に見合っていないレベルの高いことをやらせようとしている。
「できないじゃない、やるの」
これはここの幼稚園の教育方針のひとつだ。良く言えばここに通わせればしっかりした子が育つという、悪く言えば……そんなことを考え出すと教員二年目の私の心は揺らいでしまう。
「それじゃあもう一度やるよ、はい、タンタカ……」
君たちはつるつるとしたおたまじゃくしのような輝きを放ちながら入園してきた。先生たちは君たちが立派なカエルになるように厳しい環境に身を置いてあげよう。私たちが持つホースから、周りの水が吸い取られていく音がする。そして混じり聞こえる。先生、窮屈だよ、という声も。
「こらっ、ちゃんとやりなさいっ」
主任教員の怒号が響く。あの子かっ。
「ぼくのママはチアガールしてたんだあーっ」
バチを両手に列から颯爽と抜け出して駆けてゆく眩しいあの子。全体的にピリピリムードだった園児たちの緊張の糸を、あの子が風を起こしながらプツンプツンと切っていく。先生陣がすぐに来られない滑り台のてっぺんにひょいひょい上り、一本のバチは左手と共に腰に、そしてもう一本のバチを器用に八の字に回しながら体の左側から頭上を通り右側へと円を描いた。その華麗なバトンさばきを思わせる動きに、子供たちや先生までもが目を見開いて彼に注目している。極めつけにあの子はもう一度同じようにバチをくるくる回しながら体の周りで円を描き。
「ほーれえっ」
その反動でバチを空高く放り投げた。大きく緩やかに回転しながら空を目指す一本の棒。下を向きがちだった園児たちは今や、きらきらした日の光を浴びながら顔をほころばせて上を向いている。私には、まるで棒の先から輝く無数の水滴がみんなに降り落ちかかっているかのように見えた。恵みのシャワーがたくさんの固まった幼い心をほぐしてゆく。やがてバチは、滑り台のてっぺんで片手を天に掲げて佇む小さなヒーローに受け止められた。
「わあああああ」
歓声と同時に肩に衝撃を受けた。
「早くっ、何してるのっ。示しがつかないでしょっ」
「はいっ」
主任教員に肩を叩かれ、私は急いで滑り台の階段を上り始めた。あの子は私が受け持つクラスの子であり、この厳しい園ではかなり稀有な問題児と言われているような存在だ。
「真人くーんっ」
ヒーローはにんまり笑って、いとも簡単に輝く鉄板の上を滑り降りた。
「小旅行ですか?って聞いて欲しいの?」
夕暮れの駅前。マフラーで隠した口元から出る白い息の合間から、視界に現れたブレザー姿の彼。私立の中学校に行ってしまった彼とは、小学校の卒業式から5年ぶりの再会だった。
「聞いて欲しくないけど……ねえ、すっごく久しぶりだね」
セーラー服にカーディガン姿の私は、重いボストンバッグを肩にかけ直した。ふと、おたまじゃくしに恵の水を注いでいる当時の彼を思い出す。
「そんな重そうなの、何入ってるの?」
彼は再会への余韻よりも、目の前にある不自然な荷物の大きさが相当気になるらしい。
「服とか」
「でも旅行じゃないんだ」
少し目にかかる前髪が好みだな、と思った。
「渡り鳥だよ」
「どこからどこへ?」
「叔母さんの家から伯父さんの家」
次の言葉を探すかのように、上品な唇は僅かに開いたまま一瞬時が止まる。
「お父さんがね、転勤で数年中国に行くことになって。お父さんラブのお母さんが私を置いて、ついてっちゃったの。それで一週間ずつ、行ったり来たりをする生活」
言葉を待たずして説明したことによって、上品な唇は穏やかさを取り戻した。
「良かった、何かもっと悲しい理由かと思った」
「うん、でも悲しくはないけど」
冬の風が肌を通り過ぎ、私は目を細める。
「居場所はないかな」
伏せたまつ毛を上げると、彼が私に向かって手を差し出していた。
「それ、持つよ」
不思議と吸い寄せられるボストンバッグを持つ手。
「親戚の家まで送るよ」
彼と私が、一瞬バッグの取っ手で繋がる。その手に今年初めての雪が舞い降りた。
はらはら舞い始めた雪を纏う彼の表情は、深い慈悲で満ちている。それは時間にしてはほんの数秒の出来事だったのに、私にとっては永遠で。あの時二人でおたまじゃくしを囲んでいた時を想う。また命に水を注ぐ音が、しんしんとした雪の音がする。
耳に届く音は、どれも穏やかなものばかり。川のせせらぎ、小学生が部活動に励む声、散歩中の犬と飼い主がまだまばらな落ち葉をかさかさ踏む音。目の前に広がるのは、木々に支えられ紅く染まり合う葉の群れだ。深呼吸をすると、自分の中の淀みが少しずつ浄化されてゆく気がする。自宅から近い土手は人々の散歩コースになっており、皆、秋を楽しんでいる。
幼稚園という職場から町を一つ挟んだ離れた地で暮らしているのは、休日に園児に会わないで済むようにしているためだ。日々幼い人間たちを律することでしか存在できない自分を忘れたい。小学校のグラウンドに目を向けると、低学年と思われる体格をしている子供たちがサッカーボールを追いかけ合っている。感心するのは、小さな体で意外な技術が垣間見える瞬間だ。教え子もいずれあれぐらい背が伸びて、小学生になるんだ……。
「れまちゃーん、待ってー」
思わず見遣る。自分の母ほどの年齢を重ねられた女性が教え子の名前を呼んだ。今時珍しい名前じゃないものの、どんな場所にいたって遭遇する可能性はある。
「ばあば、もみじきれいーっ」
半分後ろを振り返りながら、その女性、ばあばに可愛らしく叫ぶのは、私が受け持つクラスの令麻ちゃんであった。私は少し動揺しながらも、気づかれないようにそっと背を向ける。髪型もいつもと違っておろしているし、おそらく後ろ姿では分からないはずだ。
「全部赤いよーっ」
空によく通る声は子供そのものであり、園での様子より快活だ。
「そうだねー、赤いねー」
先に駆けて来ていた令麻ちゃんは立ち止まり、ばあばと合流したようだ。
「幼稚園にももみじの木、ある?」
ばあばがふと出した話題にどきりとした。
「……あるよ」
彼女の世界の熱が急激に冷めていくのを感じた。ばあばはそれを知ってか知らでか話を続ける。
「最近は幼稚園で何してるの?」
令麻ちゃんはとても手のかからない子で、運動会の練習をしている小太鼓だってすんなり……。
「怒られないようにしてるの」
流れる川も、少年たちの掛け声も、人の流れに沿い動く落ち葉も、音を失くした。
「毎日、先生に怒られないように」
飲み込む唾がないほどに、渇ききる喉。
私は、毎日、命から水を奪っている。
ボストンバッグを手渡すたび、心が潤いを取り戻しているような心地になった。バッグの取っ手を通して繋がる、寒さに悴むお互いの手。いつしか取っ手を介さずとも繋がるようになったのは、春の陽気のせいだったかもしれない。私は幸せだった。
4月から私たちは高校三年生なりの責務を負いながらも、二人で過ごす時間を大切に扱った。しとしと雨が降り続いても、暑さに身が焦げそうになっても、木枯らしが吹き荒れても、手は繋がれたまま。見上げると雪の結晶がこの地に向かって舞い落ち、責務が全うされ得る時期に差し掛かっていた。
会いたくて、会いたくて、雪解け道を走り出す。いつもは駅で待っている身だけど、今日ばかりは私から向かって行くの。前方から彼の姿が見えた時、私の足元に大きな水たまりが現れて、カエルのように思いっきり跳んだ。
「見て、見て」
ぴょんぴょん跳ねるような気持ちで、歩いて来る彼に白い紙をかざす。
「受かった、受かった」
待ち合わせを約束したメールの雰囲気から、すでに良い知らせだということは気づかれていただろう。それでも会って伝えたかった。
「おめでとう」
彼は微笑んだ。もう歩みを止めて目の前にいる彼に、想いをぶつける。
「私、やっと自立できる道が見えてきた気がするのっ」
彼は石像のように微笑みを湛えている。
「こうなったら、幼稚園の先生に向かってまっしぐらだよっ」
考えたこともなかった。
「それにね、お父さんが、大学生になったら一人暮らししていいって」
彼が私といた理由。
「そうだ、今まで支えてくれたお返しに料理いっぱい作るね」
だって彼は。
「ずっと誰かの世話になりっぱなしだったけど」
居場所のないおたまじゃくしに慈悲深く水を注ぐ行為が好きで。
「もう、自分でどうにかできるから」
どこにでも行けるカエルには興味がないんだから。
彼の表情の変化は、数年経った今でもはっきり覚えている。幼稚園教員への道を一歩踏み出した、短大合格発表の日のことだ。思いの丈をまくし立てるように話した私は、最後に自立の喜びを口にした。すると石像のように微笑みを湛え続けた彼の表情から、私への執着が剝がれ落ちてゆく。はらはらと、はらはらと。どうしてそんな満ち足りていないような顔をするの。最後に彼はこう言った。
「カエルになれたんだね」
クラクションにハッとした。青信号だ。私は急いで車を発進させる。ここのところ、園への通勤途中によく彼のことを思い出すようになった。逃避なんだろうか。当時、彼は間違いなく私の命に水を注いでくれていた。『水』という優しさを。それなのに。
本日の園行事は、美術館での絵画鑑賞。これもまた、この園の特有さが目立つ行事だ。園の関係者が美術館を経営しており、休館日に特別に場所を提供してくれるという。車から降りる前に、普段とはまた違う感覚で気持ちを引き締めた。
そんな私が職員室の扉を開けるや否や、浴びせかけられた言葉は次のものだった。
「れんげ組高坂真人に退園を勧告しようと思います」
余りにも突然のことで、一瞬声を失った。副園長の冷たい目が、私の喉を突き刺す。
「それは……普段の行いのせいでしょうか……」
「この園のカラーには合わないと、先生も気づいてらっしゃるでしょう?」
カラー。それだけの理由で。
「夏の個人面談でもおっしゃっていたのでしょ?高坂さんのところは転勤で引っ越して来てすぐに、この園の方針も調べずに入園させたと。ま、でも正式決定じゃないの。園長とも、今後よく相談しますので」
正式決定じゃない。体内に酸素が突然戻った。私はどうすれば……。
私は、どうしたいの?
「みなさん聞いてください。この部屋には生き物の絵がたくさんあります。また園に帰ったらどんな絵があって、どう思ったのか聞きますので、絵をよく見てくださいね。あと、絵を触ってはいけませんよ。分かりましたか?」
園児たちの従順な返事が響く。この広い部屋は比較的幼い子たちでも楽しめるように、生き物の絵画で占められているとのこと。最も、年少という年齢で言われた通りに大人しく鑑賞できるのは、この園に鍛えられたためなのだろうが。園児たちは絵画の前で、思い思いに生き物を発見している。私はふと行動が心配になった真人くんの姿を探す。
「せんせえ」
振り向くとそこに本人がいた。
「せんせえ、ぼく今日大人しいでしょお?」
予想してなかった言葉に少し目を丸くした。
「れまちゃんに『今日は大人しいねえ』って言われちゃったんだあ」
へへへといたずら混じりに笑う姿に心がきゅうとなる。いつも大人しかったら退園なんて話にならな……結局自分も大人の都合を押し付けるのか。
「絵を見るのが楽しいからかな?」
うーん、と子供なりに考えて。
「それもあるけど、みんなが楽しそうだからかなあ」
「え?」
「今日はみんなが楽しそうだから、僕が笑わせなくてもいいんだよお」
無意識に両手で口を覆っていた。この子がいつも暴れていたのは。
大人の圧力に押しつぶされそうになっている友達を笑わせるためだったんだ。
「ねえ、せんせえっ、カエルだあ」
話題をくるりと変えられ、差された指の方向を見ると、そこにはカエルの絵があった。白い雲が浮かぶ薄水色の空の下、黄緑が鮮やかな草原に一匹のカエル。遠くの空を見つめる目は物悲し気で、口元は微笑むことを忘れてしまったかのようだ。草原の色がところどころに淡く空に混じる。真人くんが言葉を続ける。
「どうして悲しそうなんだろお」
これは。
「カエルなのに、跳べないのかなあ」
私だ。
ねえ、あの日、私のこと、カエルになれたって言ったよね?
でもね、私、ずっと跳べなかったの。
どこにも行けずに、周りに合わせて、毎日を。毎日を。
「ねえ、せんせえ、次の絵見ようよおー」
服の裾を引っ張る真人くんを思わずぎゅっと抱きしめた。
「私が、守るからね」
必要以上の指導をする園の空気を変える力は私にはない。だけど、だけど、頑張っている子供たちの心に私が水を注ぐの。命に水を注ぐの。
不意に心を疼かせたのは、与えることで自分を満たしていただけだった彼の冷たい記憶。私が注ぐのは優しさだけじゃない。私は、子供たちが大好きなの。私が、私が注ぐのは。注ぐのは、水と、愛。