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鉄の塊は女を乗せずに発車する

作者:斯波
「愛しているわ」
 女は云う。
 箱庭のような無機質なこの部屋で。

 男の妻が用意した部屋で。

 数年前と同じ言葉を繰り返す。

 そしてその言葉の重みに耐えかねた男は女から目を逸らしながら嘘をつくのだ。

「君を愛していたのはとうの昔のことなのだ」

 女は知っている。
 男は昔から嘘をつくのが苦手な性分であることを。

 そして男は知っている。
 付き合いの長い女にはそんな嘘、見破られてしまっていることを。

 けれど男は嘘をつき続ける。
 脚にピタリとくっ付いた手は震えていて、目には今にもこぼれ落ちそうな涙をたっぷりと溜めておきながら。

 女は云う。
 何度だって男に愛を囁くのだ。

「それでも、それでも私はあなたを愛しています。昔も……そして今も」



 女は名を佐々山 華子という。
 駆け落ち同然に家を飛び出し、そして命と引き換えに子を残してこの世を去っていった女の娘である。
 華子の祖父母は一人娘を蝶よ花よと、それはもう大事に育てた。
 だからこそ娘の命を奪った華子が憎かった。娘を連れ去った男の血を引く華子が仇のように思えて仕方がなかった。
 けれど華子の祖父母は華子を16の立派な女になるまで育てあげた。
 どんなに憎くとも、やはり彼らにとって華子は唯一の孫娘だったのだ。娘の亡き今、彼らにとっての孫は後にも先にも華子だけだった。

 華子はどんなに憎まれようが、祖父母を愛した。
 一人の女の血を、一人の男の血を引いているというだけで数多の感情を向けてくる彼らが愛おしかった。
 そして華子の親族は老いた老夫婦の他を残していなかった。彼女の父は孤児だったという。天涯孤独の男だったのだ。

 そんな唯一の親族さえも華子が16になると彼女の前から姿を消した。
 それは華子の世話をこれ以上見られないと逃げ出した訳ではなく、ただ出かけ先で不慮の事故にあったのだった。
 だんだんと身体の自由が効かなくなってきたのだという老夫婦に湯治のため、温泉でも行ってきたらどうかと薦めたのは華子だった。
 まさか乗った列車が脱線事故を起こすなんて知りもせずに。

 思えば華子の両親もまた列車の事故で命を落としたのだった。
 そして彼らは二人揃って幼い華子を守って命を散らした。

 華子は祖父母の死を薄っぺらい手紙一枚に載せて知らされた時、妙な因縁すら感じたものだった。
 そして自分はこれから先、一生あんな鉄の塊に身を預けてなるものかと決心した。


 近所の人たちはまだ若い華子を心配して頻繁に声をかけてくれるようになった。
 その中には華子の身をカケラも案じてなどおらず、彼女の祖父母が残していったわずかなお金をかすめ取ろうと狙う者さえいた。
 けれど華子にはもう何もかもどうでも良かった。
 いや、元より彼女にとって唯一残った二人の老夫婦以外どうでも良かったのである。

 彼らだけが華子にとどめなく感情を注ぎ続けてくれた人たちだった。
 華子の心は彼らが持っていってしまったピースがポッカリと抜けてしまっていて、その風穴からはいつだってぴゅうぴゅうと音を立てながら冷たい風が吹き込んできた。

 その穴を少しずつ埋めていったのは華子が幼い頃から近くに住む、一人の少年だった。
 名を大黒 大伍というその少年はまともに返事も返さない華子に毎日言葉をかけ続けた。

 朝には『おはよう』『今日はいい天気だね』と。

 日が暮れる前には『おやすみなさい』『ちゃんと布団をかけて寝るんだよ』と。

 一方的に、まるで道の端に祀られたお地蔵様にでも声をかけるかのように、飽きることなく少年は少女に声をかけ続けた。


 華子の真っ黒な目に大伍が写り始めたのは花火大会の日であった。
 空に飛んでいった火花が、地面に光を落としていくと同時に大伍の影までも落としていったのだった。

「あなた、誰?」
「俺は大黒 大伍。ようやく気づいてくれて嬉しいよ」
「私が気づくとあなたは嬉しいの?」
「そうだよ」
 大伍が笑う意味が華子にはよくわからなかった。
 けれどその意味のわからない感情さえも確かに華子に向けられた感情であることだけは確かだった。

 その日から華子の目には次第に色が灯り始めた。
 黒と白の他に、彼の着物の緑が目につくようになったのだ。
 大伍は少しずつ言葉を返し始めた華子に、少しずつ物を与えていった。

 それは露道に咲いていたのだというタンポポであった。

 それは彼のオカズを一つ、横取りした弟に対する怒りと呆れであった。

 それは焼きたてのいい香りを風に乗せて大伍の鼻まで送ってきた煎餅であった。

 それは縁側に座って外を眺める華子への恋心であった。


 いつからか二人は世にいう恋人という関係に落ち着いた。
 大伍はそれからも華子にたくさんのことを教え続けた。そして華子もまた彼の気持ちに不器用ながらも応えていった。

 祝言はもうすぐそこまでやって来ているだろうと噂されていた時、二人の仲を破るようにして一人の男がやって来た。
 それは華子と大伍が住む町でも名高い華族、猪田家の当主であり、そして大伍の家の大のお得意様でもあった。
 濃紺の着物がよく似合う、顔にいくつもの皺を刻んだ男は大伍に娘の婿になるようにと迫った。
 大伍はもちろん一方的な物言いにうんとは頷かなかった。すると男はそうかとだけ言って二人の元を去った。
 何だったのだろうかと二人揃って首を傾げ、男が去った方向をしばらく眺めていた。

 その数日後、猪田家当主は大伍の家に直接出向いた。
『大黒の次男坊をうちの娘の婿に欲しい』と大伍の家族に伝えるために。

 もちろん彼の家族は彼が華子と好い仲であることを知っていた。
 けれどそれと同時に猪田家の申し出を断ればただの商家の大黒家などすぐに潰れてしまうこともよく知っていた。

 そして大黒家の主人は華子の元へとやって来て、深々と床に額がつくことも構わずに頭を下げた。

「どうか、どうか大伍と別れて欲しい」
 それは愛した男の父親からの、心からの懇願だった。

「わかり、ました……」
 華子には断れるはずもなかった。
 それが再び華子を暗闇へと突き落とす選択になろうが、彼女にはそれ以外の道は残されていなかったのだ。

 翌日華子は大伍の父親と約束した通り、彼に別れを告げた。
 もちろん大伍はそれを拒んだ。やっとのこと手に入れた愛しい女をそう簡単に手放してやるものかと、考え直すようにと華子の肩を掴んで揺さぶった。
 だが華子の決心は固かった。
 高く昇った日が山の裾へと沈んでいこうが華子は考えを変えなかった。

「もう、いい」
 そして大伍の方が先に折れたのだった。
 もう遅いからまた出直そうと決めた彼が翌日その家を訪れた時、そこにはもう誰も残ってはいなかった。
 大伍が華子の家を訪れたのは彼女がもう何もない自らの命を絶ってしまおうと、あれだけ乗るものかと決めていた鉄の塊に身を預けようと駅舎に向かった後だった。
 行き先もろくに見ずに華子は一番高い値段の切符を購入し、いよいよ乗り込む直前、華子の前に一人の娘が現れた。

「佐々山、華子さんですね?」
 娘はなぜか華子の名前を知っていた。
 だが死ぬ覚悟を持った華子には見知らぬ娘がなぜ自分の名を知っているのかなど些細なことだった。

「ええ、そうですが……何かご用ですか?」
 発車までまだ幾ばくか時間のある列車に踏み込もうとしていた足を引き、そして娘の方へと歩み寄った。

「ご旅行ですか?」
 旅行に行くには小さな巾着だけという、いささか軽装すぎる華子にかけるには不思議な質問だった。
「ええ」
 華子は行き先こそ決まってはいるものの、下車する駅は決まっていないため、ただ娘の質問に肯定だけした。

 すると娘はもう少しだけ踏み込んだ質問をかけた。
「どちらへ行かれるのです?」
「遠く、ですかね……」
 華子は答えた。
 祖父母と両親が待ってくれているかもわからない黄泉の世界は遠いのか近いのか、訪れたこともない華子には到底想像もつかなかったのだ。

「そこからはいつ頃お戻りになるのでしょうか?」
 娘はどうやら華子のことが余程気になるようで、華子の旅の詳細を知りたがった。
 ここまで来るとさすがの華子でもその娘の目的が知りたくなって来た。
 だから尋ねた。
「そういうあなたはどこへ向かうご予定ですか?」
「私は、深い闇の中まで」
「そう、ですか。ではあなたもそろそろ列車にお乗りになってはいかがです? そろそろ出発の時間になりますわ」
「いえ、私はもう乗っているのです。父が敷いたレールの上を走る列車に」
 娘は彼女が向かう先らしい深い闇のような漆黒の瞳で、華子が乗る予定の列車を見つめた。

「佐々山 華子さん、あなたの部屋は離れに用意してあります。ですからどうか私の夫の愛人になってはくださいませんか?」
「あなたは……」
「私は猪田 早紀子と申します。あなたの恋人だった大黒 大伍の妻となる女でございます」
 よくよく見れば仕立てのいい着物に身を包んだ娘は数日前に華子と大伍の元に現れた男と目元がよく似ていた。綺麗に折られたその背中からも彼女の品の良さがうかがい知れた。

 華子の背後で彼女の乗る予定だった列車が汽笛を鳴らして駅を出発して行った。もちろん行き先は黄泉ではなく、二つ隣の県の大きな駅である。

 駅に残された華子は早紀子と名乗る娘に問うた。
「愛人に迎えるのはあの人の意志ですか?」
 早紀子はゆっくりと首を振ってから答えた。
「私と、そして父の意思でございます」
「理由をお聞きしても?」
「あの人はお優しい人です。そして猪田の家に入るに相応しい聡いお方でもあります。ですが彼は今でも私の夫となることを拒んでいるのです。それはあなたがいるからだと。ですから猪田はあなたを彼の愛人として迎えることにしました。彼との間に子を成しても構いません。猪田の名にかけて大きくなるまで養育するお約束もいたします」
「私がもし断ったらとは思わないのですか?」
「列車に乗ることを選ばなかったあなたなら断りませんよ」
 猪田 早紀子という娘はきっと全てを見通して華子に声をかけたのだろう。華子の口からは白い息が漏れた。

 華子には初めから鉄の塊に乗る資格など持ち合わせていなかったのだろう。
 なぜならそれは生きることを望んだ者が乗るための乗り物なのだから。

 華子は早紀子の先導のもと、幼い頃から何度も目にした大きな屋敷の中へと足を踏み入れた。
 早紀子が離れと称した場所は華子の生家と同じかそれよりも大きく、華子には勿体無いくらいの広さだった。
 それから猪田の婿の愛人として迎え入れられた華子には朝昼晩と食事が用意された。

 猪田 大伍と名を改めたかつての華子の恋人は月に一度だけ彼女の元を訪れる。
 彼は華子に会うたびに泣くのを堪えるようにして顔をしかめる。

 そしてかつて恋人に、日陰者として存在する華子に嘘をつくのだ。



「君を愛していたのはとうの昔のことなのだ」――と。

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