第40話 聖母子
菊が弥助を従えて姿を現したとき、猿若は僅かに眉を上げた。それがこの何事にも動じない男の驚きの表情だった。でも三九郎は、震え上がって近づこうとしなかった。
「御曹司はもう逆賊と戦っている。だからあなたの役目は終わったの。あなたはこれからどうしたい?」
菊が尋ねた。
「オ寺ニ帰リタイ……。」
「お寺?」
「南蛮寺のことでございましょう。」
猿若が言った。
「姥柳町にございます。」
菊は、店と河原を往復するのがやっとの暮らしだったので、寺のことは噂に聞いていただけだった。
「途中じゃない。この人を送り届けてから行きましょう。」
平屋ばかりの京の街で、三階建てのその建物は、和風の造りであるにもかかわらず人目を引いた。京の名所にもなっているというその寺の周りには門前町まで出来ていた。門内には団扇の骨を大きく長細くしたような妙な植物が植えられていた。後々《のちのち》聞いたところによると棕櫚という南国の植物だそうだ。
時の権力者信長は、自らの覇権を阻む旧勢力の一つである寺社に対して容赦ない弾圧を行った。反面、はるばる遠い国から命がけで布教にやって来たこの異国の坊さんたちの行動力とその科学や文物に対しては、過分とも思えるほどの好意を示し、いまやキリシタンは十数万人ともいわれる一大勢力となっていた。
案内を乞い、出てきた使用人に弥助を引き渡した。坊さんたちを呼んで参りますので少々お待ちくださいと言われて、聖堂の中に通された。
菊は聖堂の中に一歩足を踏み入れたとたん、冴え冴えとした空気に心が静まるのを感じた。
暗い中、そこには様々な光が溢れて彼女の上に影を落としていた。壁に沿ってはめ込まれたたくさんのぎやまんから朝日が薄く差し込んで、様々な模様を椅子や床に描いていた。祭壇には蝋燭が何本も灯って壁を橙色に染めていた。ちょうど朝の礼拝の支度をしているところらしかった。早朝にもかかわらず、数人の信者が彫像のように頭を垂れて、それぞれ祈りの世界に入っていた。異国の音楽が鳴っていて、幼い子供たちが歌の調子を合わせていた。地響きのする楽器と細く高い声が耳慣れない旋律を奏でていた。不思議な香りが鼻を刺激した。
聖堂の中央には磔刑台が高々と掲げられ、哀しそうな顔をした痩せ衰えた男が菊を見下ろしていた。
(罪人をあがめる宗教だと聞いてはいたが)
菊は思った。
(それにしても、あの男は優しい目をしている)
なるほど、仏や神をあがめる日本の宗教とは、ずいぶん違うようだ。
一筋の光が祭壇の横に架けられた小さな絵に当たっていた。
菊の目はその絵に釘付けになった。
それは子供を抱いた女の絵だった。
優しい、でも哀しげな目は十字架に架けられた男のそれに何処か似ていた。透明な白い肌、柔らかな金髪は細かく波立ちながらその艶やかな肌に影を落としている。無邪気な丸裸の赤ん坊は手に鳩を持っている。背景には山や湖が霧の中から僅かに望まれる。
ゆらゆらと立ち上る香華の中、母子は今にも動き出しそうに見えた。
(浮き上がっている)
まるで生きているような絵。
どうしようもない違和感、でも同じくらい、どうしようもなく人を惹きつける絵。
愕然とした。
絵といえば、平べったいものだと思っていた。でも、この絵の人物は触れることさえ出来るようだ。
(知りたい……どうしたらこんなふうに描けるのか)
扉が開いて、二人の南蛮人たちが弥助を従えて入ってきた。老人と若い男だ。
年配のほうが言った。
「あなたがたが通りかかってくださらなかったら、弥助は明智殿の軍勢に殺されていたところだったとか。御礼申し上げます。」
「当然のことをしたまでです。」
「これはささやかながら御礼です。」
若いほうの坊さんが折敷に載せた小さな巾着を差し出した。中身は金に違いなかった。
「いいえ、御礼なんて結構です。」
三九郎ががっかりしたことに、菊は金を受け取ろうとしない。
「私には、あの時ああすれば良かったと悔やむことが山のようにあります。そういう後悔の種をこれ以上増やしたくなかったんです。それだけです。礼なら、この者たちに言ってください。兵たちの気をそらすため、命がけで働いてくれました。私はただ、この者たちに手伝ってくれるよう頼んだだけです。」
菊が教会の門をくぐろうとすると、弥助が後から追いかけてきた。弥助はいきなりひざまずくと、彼女の足の甲に額を付けた。
「有難ウ。コノ恩ハ忘レナイ。」
その様子を見ていた若い修道士は、
「ああ、思い出した。施粥をこぼした女だ……。」
独り言を言った。




