第2話 兄妹
「何度言ったらわかるのだ、え?」
若い当主は頭を抱えた。
「戦いに出る、戻る、小言を言う、戦いに出る、戻る、小言を言う、いつもこの繰り返しだ。菊、そなた一体、何を考えておるのだ。」
娘は顔を上げてはっきりと答えた。
「申し上げます、兄上。私、意味も無いのにぶらぶらしているわけじゃありません。絵を描きに行っていたのよ。」
「だからそれが悪いというのだ。何も館の外をうろうろしなくても、しかも供も連れずに」
「だって、揚羽を連れて行ったら、あっちに行ったらいけない、こっちに行ったらいけないってうるさいんだもの。父上だって、詩作と称して領地の巡視をなさって、それが治世に役立ったって、逍遥軒の叔父さまがおっしゃっていたわ。」
この館の当主、武田勝頼の顔がふいに歪んだ。唇の端がぴくぴくと震えて怒鳴りだしそうになったが、強い意志の力で抑えた。ふぅっと深く息を吐くと、気持ちを切り替えた。
「まあ、よいわ。今日、そなたを呼んだのは、別の用があっての事だ。菊。」
言葉を切って、思わせぶりに妹を見る。
「そなたに縁談がある。いや、もう話は決まっている。」
とっさに頭に浮かんだのは、これは何かの間違いでは、という疑惑だった。
縁談、とは。私に?別の誰かさんではなく?
勝頼は、菊の沈黙を了承と受け取ったようだった。
「相手は越後の上杉の当主だ。二十四歳、でも初婚だ。そなたももう二十一歳、後添いにと言われてもおかしくない年だ、いい話ではないか。今では縁談も、松の後回しではないか。落ち着かない性格だから、こんな事になるのだ。」
逆らったって仕方が無い。
慣習の社会に生きる彼女には、『人生を自分で選択する』という概念自体がそもそも無い。彼女に限らず、この時代に生きる人々はすべからく、職業は親の跡を継ぐしかなく、結婚離婚は個人ではなく家と家との問題であった。
「わかりました。」
菊は大人しく答えた。
(何といっても結婚は女の務めなんだから)
ともかくこれでお小言は終わるだろう。
「婚礼は十月だ。それまでに用意しておけ。」
案の定、勝頼は機嫌を直した。
すかさず菊は、傍らに置いた籠を手元に引き寄せて、葡萄を取り出した。勝頼の手に一房、脇に控えた先ほどの若い侍の手にも一房、載せてやった。
「召し上がって下さい。おいしそうでしょ。」
これ以上何か言われないように、さっさと退出していった。
全く当主というのは、と勝頼は苦笑した。
戦いの采配を振るったり、領地の経営を見るだけが仕事ではなかった。家族の行状にまで目を配らなければならないとは。でも結婚は国の運命を左右する大行事だ。
(それにしても憎めない)
新羅三郎義光以来、四百年続く清和源氏の名門・甲斐武田家の姫君としては型破りだが、この妹の大胆さを勝頼は決して嫌ってはいなかった。もともと彼自身も命知らずな戦いぶりが評判な武将なのだ。
だが父の死後、『当主であって当主でない』立場が彼を苦しめている。彼は庶子であり、武田家を継ぐ立場には無かった。
かつて嫡男・義信の謀反を疑った信玄は、息子を幽閉して自殺に追い込んだ。義信は武勇の誉れ高く将来を期待されており、その死は家中にわだかまりを残した。
しかも四郎勝頼は、信玄に滅ぼされた信濃の諏訪家の血筋だ。その為、家臣たちは決して彼に心服してはない。『お屋形』と呼ばれてはいるが、実は正式な跡取りである息子・信勝の後見として暫定的に治政を行っているに過ぎない立場だ。当然、腹違いの兄弟姉妹とも上手くいっているとは言いがたい。
僅かに仁科盛信をはじめとする油川氏の生んだ子供たちだけは、心から忠誠を誓ってくれている。菊はその中の一人なのだ。
勝頼は、手にした葡萄を持て余している若侍に声をかけた。
「ところで惣蔵。結局、引っ掛かったのは我が家の姫だけか。」
「は。手を尽くして捜しておりますが……。」
土屋惣蔵は、葡萄を懐紙に包むと傍らに置き、手をついた。
「賊は取り逃がしたものと思われます。」
「北条であろうか。」
「このところ、往来する他所者が目に見えて増えております。北条の者ばかりとは限らないかと。」
だから関を増やしたのに、その網から曲者どもはこぼれていく。引っかかるのは我が家の姫をはじめとする、つまらない雑魚ばかりだ。
自分がおおざっぱな性格で、細やかな統治が苦手なのはわかっている。でも父が統治していた頃は、人の往来も、もっと穏やかだったような気がする。
「父上は『人は石垣 人は城』と詠まれた。言いかえれば、この館が城と呼ぶには脆弱過ぎるからだ。今までは人が手を尽くして防備することで成り立ってきたが、もう父上の時代とは違う。この館は時代遅れなのだ。」
時代は動いている。そして、この甲斐武田家も。
勝頼も時代の波に乗らなければならない。