第1話 善光寺
海音寺潮五郎先生を偲んで
秋日 Helbsttag
主よ 時です
まことに夏は偉大でした
いまこそ 貴方の影を
日時計の上に投げ
野に 秋風を 吹かしめ給え
残れる果実に
最後のみのりを命じたまえ
そしてなお 二日の温暖を恵み
かれらを 成熟へとはしらしめ
やがて
最後の 甘き果汁もて
豊潤のぶどう酒となし給え
リルケ 形象詩集 より
山本太郎訳
山国の秋は早い。朝晩吹く風の冷たさで季節の変わったことを知る。でも昼間の日差しはまだ夏の名残りの眩しさだ。
甲斐府中の善光寺は、夏に戻ったような青空の下、その日も朝早くから老若男女でにぎわっていた。今日は月に六回ある、市がたつ日なのだ。
今から五年前の天正元年、先代のお屋形・信玄公が京への上洛途上で亡くなり、その二年後、三河長篠で当代がさんざんに打ち負かされて以来、甲斐武田家はじり貧になる一方だ。
この春、隣国・越後の上杉家で、当主の不識庵謙信が急死し、残された養子の間で争いが起こった。当主の勝頼は、そのうちの一人の義兄にあたる為、越後に出陣し和睦の仲介をした。その御礼として、一兵も失うことなく東上野{今の群馬県東部あたり}を手に入れて凱旋してきたばかりである。
このところ暗い話題ばかりだった甲斐に、久々明るい兆しが見えて、市での物売りの呼び声も、いつもより心なしか威勢が良いように聞こえる。
ところが市へ向かう人の列がいつもより滞っている。列の後ろから不満の声があがったが、前から、関だ、新しく関が出来たのだ、という囁きが伝わってくると、皆あきらめて静かになった。最近あちらこちらで新しく関が出来て、人の通行を厳しく取り締まるようになった。往来に不便なのはもちろんだが、いちいち銭を払わなければならないのも、貧しい人々にとっては痛手だった。
「何でも銭金の世の中になっちまって。」
「躑躅ケ崎でも、先代の頃は玄関先までしか入れなかった商人が、今では奥の寛ぎ所まで入って大きな顔をしているんだそうな。」
「ほんに、当代になってからというもの、住みにくい世の中になったもんじゃ。」
突然、怒声が響き渡った。人々は口をつぐんで、一斉に視線を向けた。
「銭も無いのに、この関を通れるわきゃなかろうが!」
「わしら、この荷を売って銭を作ります、帰りには必ず払いますで……。」
荷車を押す枯れ木のような老人と、七つ八つばかりの痩せて目ばかり光らせた少年だった。
押し問答が続き、番兵が老人を突き飛ばした。よろけた老人は荷車に当たって転び、積荷の籠が地面に散らばった。かっとなった少年が番兵に飛び掛っていき、仲間の番兵も駆けつけて大騒ぎになった。
「おやめなさい。」
よく通る声が凛として響き渡った。
「弱い者いじめは良くないわ。」
「誰だ、出て来い!」
番兵が怒鳴ると、人垣が割れて一人の娘が姿を現した。
身に纏った薄紫の、風に揺れる秋草を散らした小袖は地味だが品の良いもので、見事な栗毛の手綱を引いている。身分の高そうな娘だが、供も連れていない。長い黒髪、色白、細面、柳腰が美人の条件の時代に、茶褐色の巻き毛を無造作に束ねて、笠を手に持っているのに日に焼けた浅黒い肌も、当時の基準ではお世辞にも美人とは言いかねたが、やや大きすぎる程の鳶色の瞳は深々と澄んで、おっとりとした佇まいは、不思議と人をひきつけるものがあった。
「帰りに払うって言っているんだから通してあげなさい。だいたい、天下の往来でしょう。通って何が悪いの。」
そうだ、そうだと群集が沸いた。
「な、何じゃあ、こいつぁ……。」
突然出てきて偉そうに命令する娘に、あっけにとられていた番兵たちも、ようやく体勢を立て直して反撃に出た。
「お屋形さまがお作りになられた関所じゃ、お前はそれに逆らうというのか。」
「だって、私がこないだ通りかかった時には何も無かったわ。こんな所に思いつきで関所を立てられては、皆たまったものではないわ。いったいどうして、こんな事考えついたのかしら?」
番兵たちはただ、上に言われて仕事をしているだけだ。何故と問われて答えようもない。とりあえず、うるさく小理屈を並べるこの妙な娘を手荒く引っ張っていこうとした。
と、そこへ、何頭もの馬の蹄の音が響いてきた。
見物人の垣を分けて到着したのは数人の騎馬武者だった。後から槍を立てた足軽の一群が続く。先頭に立った若い侍が番兵を叱りつけた。
「待て!乱暴するんじゃない!その手を離すんだ!」
関所の責任者らしい侍が飛び出してきて、慌てて番兵を下がらせた。
その隙に娘は、老人と少年をそっと逃がしてやった。
少年は立ち去ろうとしたが、荷車に手を突っ込んで籠を取り出し、駆け戻ってきた。
「有難う。」
手にした籠を娘に押し付けると走り去っていった。
娘は籠を覗き込んだ。赤、紫、緑、様々な色に耀く葡萄が朝露にしっとり濡れている。
「まあ、見事だわ……。」
葡萄に見とれていた娘が、ふと気配を感じて振り返ると、あの若い侍が苦りきって立っていた。
「困ります、姫君。」