第26話 落人
達丸をどうする、と叱られて、小夜姫は泣く泣く、菊たちと共に小田原に向かうことになった。松、盛信の娘、次兄・竜宝の娘など女子供に、護衛の兵三十名ばかりが、脇道から鎌倉街道に入り、御坂峠を目指すことになった。
東を目指す一隊も、南を目指す一隊も、名残を惜しみながら出立していく。
その時、女たちの中から一人の女が走り出て、東へ向かう一隊のうちの一人の腕を掴んだ。
隊列は一瞬止まったが、又黙々と進み始めた。川の流れのように進む兵士たちを邪魔する中瀬の二つの岩のように、女と男は立ち尽くしている。
女は松、男は土屋惣蔵だった。
惣蔵は妻子を妻の実家に逃がし、一人、この行軍に参加している。小夜姫が気を遣って、城を出てからというもの、松の護衛につけていた。ここ二、三日は折に触れ、優しい言葉をかけてくれるので、こんな慌しい中でも松はとても嬉しそうだった。
蒼白な顔の松は、周りの目ももう構ってはいなかった。
「私たちと一緒に来て。私たちの護衛をしてちょうだい!」
哀切極まりない声だった。
二人はじっと見つめあっている。
先に目をそらしたのは惣蔵のほうだった。彼は女の手を優しく外した。
「姫君、私は殿に従います。それが私の使命なのです。どうか、お元気で。」
三年間、伊那と甲斐に別れていた二人だったが、武田が滅亡するか否かの瀬戸際に、初めて心が近くなったようだった。でも彼は、侍の道を選んだ。
具足が触れあう乾いた音をさせながら去っていく一行を呆然と見送った松は、侍女の春日に腕を取られて、魂の抜けたように歩き出した。菊も松に寄り添って歩き出した。皆の意識は松に集中した。
だから小夜姫がどんどん遅れだしたのに気づいたのは、達丸をおぶった猿若以外、居なかった。
猿若と目が合った小夜姫は、軽く会釈した。その眼に込められた思いに気が付いた猿若ははっとしたが、彼女の意思が固いことを知って、仕方なく会釈を返した。彼女は猿若に小さな紙を渡すと、すっと道の脇にそれていった。猿若は、小半時してようやく一行が小夜姫が居なくなったのに気が付くまで、菊に紙を渡すことができなかった。
菊は紙にさっと目を通すと、松に渡して、
「出発するわよ。」
ぶっきらぼうに言った。
松は紙に目を落とした。
「ごめんなさい。達丸をよろしくお願いします。」
とだけ書かれてあった。
石尊山の麓を巡り、茶臼山の脇を通って鎌倉街道に出ようとした一行だったが、人気の無い山道で突然、竹槍を手ん手に持った無頼漢たちに行く手を阻まれた。
落ち武者狩りだった。
この時代、その辺りの百姓でも自分の武器を持ち、戦があると駆けつけて、勝敗の行方を見守った。威張っていた領主も戦に負けたが最後、あっという間に昨日まで踏みつけにしていた領民たちに身包みはがされて命を奪われた。女ばかりの一行、しかも何がしかの財宝を持って逃げているに違いない国主一行は、彼らにとって垂涎の的だったのだ。
護衛の侍たちは勇敢に立ち向かったが、多勢に無勢だ、あっという間に切り伏せられた。女たちは算を乱して逃げ惑った。菊と松は兄の遺児たちの手を引いて走り、その後に達丸をおぶった猿若、揚羽、春日、数名の女房たちが続いた。慶次郎は殿で、数名の侍たちと共に追っ手を防いでいる。
その時、藪からにゅっと細い腕が伸びてきて、菊の袖を捕らえた。菊はひっと言って振り払おうとしたが、腕は放そうとしない。
「こっち、こっちだよ、早く、早く来て!」
見ると、十歳くらいの痩せ細って日に焼けた子供だ。
「ついて来て!」
少年は菊の袖を捕らえたまま走り出した。一行も少年の後について走っていく。少年は道なき道を、藪をかき分けかき分け、山を登ったり沢を下ったりしながら、がむしゃらに進んでいく。
追っ手は、深追いはしてこなかった。散り散りになった女たちの後を苦労して追うより、道に残された荷車に積んである荷物の方が気になったのだろう。
何処をどう通ったのか、笹に隠された窪地で、少年はようやく立ち止まった。一行は一息ついた。ざっと見渡しても半数以上が脱落している。とり残された者たちが心配だった。
菊の思いを見破ったように少年が言った。
「おいら、後で探してきてやるよ。どっかに隠れている奴もいると思うよ。」
「あ、有難う。おかげで助かったわ。」
菊があえぎながら礼を言うと、少年は鼻をうごめかした。
「いいってことよ。恩返しさ。」
菊がきょとんとしていると、少年はじれったそうに言った。
「ほら、三年前、甲斐府中の善光寺のお祭りの時に……。」
「ああ、葡萄の。」
思い出した。
あの時、助けた少年だ。
大きくなっているから、とっさにわからなかった。
少年は、恩人が武田のお姫さまだと人づてに聞いた。
お屋形さま一行が落ちてくると知って、ずっと見張っていたという。
「そういえば、おじいさんは?」
「死んだ。」
「そう……。」
少年は、菊の顔を真っ直ぐに見上げて言った。
「独りぼっちなんだ。なあ、おいらも連れてっておくれよ。役に立つぜ。」
「私たちと来ても、あんまりいいこと無いと思うんだけど……。」
菊はためらった。
「ここに居た方がいいんじゃない?」
「いいことっていうのはさ、良い人たちと暮らしていくことなんだ。」
少年は大人びたことを言う。
「おいら、色々苦労してきたから、わかるんだ。情けある人っていうのは、そうそう巡り合えるもんじゃないぜ。」
「お前さん、名は?」
菊が黙ってしまったので、代わりに猿若が尋ねた。
「三九郎。」
三九郎が戻って数名を探し出し、連れてきてくれた。護衛の者が数名死に、荷物が奪われ、何人かの女たちが連れ去られてしまった。
でもどうすることもできなかった。
(すまない)
菊は心の中で頭を下げると、残った者たちを取りまとめて、三九郎を道案内に、御坂峠に向かって道無き道を進むことにした。
落ち武者狩りにぶつかる心配は少なくなったが、木の根が野放図に地を這う険しい山道に、身体のバランスを崩した人々は何度も尻餅をつき、向う脛を擦り剥き、足場を崩しては、切り立った崖から転がり落ちそうになった。日陰には溶け残った雪が硬い氷になって、滑って歩きにくかった。尖った石が突き刺さり、女たちの柔らかい足の裏は血まみれになっていた。
頭上は山桜が満開だったが、一行は振り仰ぐ余裕も無く、黙々と歩を進めた。
どれくらい歩いただろう。
陽が山の端に差し掛かり、麓に夕闇がしのび寄る頃、少年が
「あそこだ。あの峠を越えれば富士の御山が見える。」
と指を差した。
黒々と山の稜線が浮かぶその山にはしかし、あかあかと篝火がたかれ、炊事の煙が立ち、馬のいななく声がしている。落ち武者狩りより恐ろしい、それは、武田の者を一人たりとも逃がすまいとして峠を固める軍勢だった。
「あれは小山田の軍勢だわ。」
旗印を見て取った菊がつぶやいた。
「もう一隊いる。誰?」
軍旗がはためいているが、逆光で見づらい。
「あれは総白に総赤の招き。幔幕の紋は丸に竪木瓜。」
皆にはよく見えないのに、彼にははっきりと見えるのだろうか。
寺を出て以来、一言も口を利かなかった慶次郎が、はじめて口を開いた。
「織田の四天王の一人、滝川伊予守{一益}の軍勢だ。」




