第15話 雪の晴れ間
菊が春日山に来てから、雪は日に日に積もり始め、あっと言う間に身の丈を越すようになり、年が明けてからは自然と戦も止んでいる。
並べた灰色の拳骨で頭を押さえつけられるような、うっとおしい日本海側ならではの雪雲が珍しく消え、真っ青な空から陽の光が燦燦と降り注いでいるある朝のこと、ちょっとした用事があって景勝から寄越された使いの者の顔を見て、菊はかねてからやりたかったことを実行に移す気になった。
「こんなに天気がいい日なんてそうそう無いから、私、決めたわ。」
菊は傍らに控えている揚羽に話しかけた。
「今日はこの辺を散策してみようと思うの。」
「何言っているんですか、こんなに雪が積もっているのに。」
菊が予期したとおり、揚羽は難色を示した。
「この辺り、雪が無いように見えるのは、庭師の者がそれは良く働いてくれているからですよ。あの者が居なければ、こうまできれいに雪かきは出来ません。」
あの者、というのは、名を猿若という初老の男だ。
上杉嫌いの揚羽だけれど、猿若のことだけは、よく働く、と褒める。口うるさい揚羽が気に入っているくらいだから、よっぽど気の利く男なんだろう。古来、京で政変のある度、敗北した天皇や上皇が流罪になっていた為か、鄙ながら文化的といわれる佐渡の出身だそうで、当人はどこで覚えたのか、猿楽の心得があり、空いた時間に、侍女たちの所で、おもしろく仕舞などを舞っては喜ばれているという。
「私は雪の中、山歩きなんて御免ですからね。もっと暖かくなって雪が解けてからにして下さいまし。」
「いいわ。そなたには頼まない。」
「姫君、又、お一人で行かれるおつもりですか?それは成りませぬ。」
「ええ、だから、供はその方に頼もうと思う。行っておくれかえ?」
いきなり話が自分の方に振られたので、使いに来た景勝の近習は驚いた。
彼が応えるより早く、揚羽が遮った。
「姫君、さようなこと、お戯れが過ぎます。」
「いいじゃない。私たち、ここに来てから全然外に出てないから、この辺りのこと、何も知らないんだもの。揚羽と出かけたって、迷子が二人でるだけよ。このお城に詳しい人に案内してもらわなければ。」
「あの、私は喜んでお供をさせていただきます。」
菊と揚羽がぽんぽんとやりあうのに気おされていた近習は、ようやく隙を見つけて口を挟んだ。
「仕度して参りますから、今しばらくお待ちを。」
それから小半時もたたないうち、菊は近習と共に雪道を歩いていた。
本丸の辺りに生えている赤松にも雪が積もって、一面、白い花を咲かせている。時折、風花が舞って日の光にきらきらと光り、眩しい。
「甲斐でも平地はこんなに雪は積もらないから驚いたわ。珍しく思えるのは今のうちだけかもしれないけれどねえ。」
『かんじき』を履く足元を気にしながら、それでも楽しそうに菊は歩いていく。
菊の生まれた躑躅ケ崎の館は平地にあるが、戦の時は後方に聳えている要害山に逃げ込む。所謂『詰めの城』だ。
この春日山でも平時は山の麓で暮らしているのだが、今は非常時なので、山の上で暮らしている。山の上と下では、違う国かと思うほど、積もる雪の量が違ってくる。
「こんな雪の中、悪かったわね。」
「いいえ、これでも今年は雪が少ない方です。」
「ここで暮らすのは大変なことね。歩くのひとつとっても。」
ほんとに息が切れる。
「確かに雪は様々な害をもたらします。生活はもちろん、戦においても。雪が降っている間は兵が出せませんし、他国に行っている間に降れば退路を断たれてしまいます。でも雪は又、同時に恵みをもたらします。雪が無ければ、春から夏の農作業に使う水が得られませんから。」
「ふうん、くわしいのね。」
「私の父は、殿の故郷・坂戸城で薪炭奉行をしておりました。私も、子供の頃から農作業を手伝って参りましたから。」
武士といっても色々な階層がある。ごく一部の層を除き、殆どの武士は日常、農民と同じように田畑を耕していて、戦になると武器を手にして兵士となる。
薪炭奉行は身分の低い侍だ。お城勤めだけでは到底食べてはいけまい。侍とは名ばかり、実質は百姓だったろう。
ようやく頂上にたどりついた菊は、辺りを見回して歓声をあげた。
眼下には頚城平野が広がり、中央を関川が貫いている。白い雪を被ったなだらかな米山に連なる山々、そして海上遥かに霞んでいるのは佐渡ケ島か。
頂上には、近くの櫓台に立つ兵の詰め所として使われている小さな東屋があり、風を避けられるようになっている。今日は人が居ないようだ。
菊は縁に腰を下ろした。
近習が雪の中に色代しようとするので、
「濡れちゃうわ、そちらに掛けて。いいじゃない、私、殿じゃないから、そんなにかしこまらなくても。」
それでも近習は離れて座って、しゃちほこばっている。
菊は、揚羽に用意させた包みを取り出して、彼に差し出した。
「こういう所で頂くと、美味しいのよ。」
近習が押し頂いて中を開けると、焼け焦げた赤い皮を被った細長い物体だ。
「あ、見たことない?これはね、琉球から渡って来た芋なんですって。甲斐から送ってきたものよ。珍しいでしょう。食べてみて。」
皮を剥くと、ほくほくした身は黄色く、ほわっと微かに湯気が上がった。
近習はおそるおそる口にした。思わず声が出た。
「甘い。」
菊は嬉しそうに笑った。
「さっき、清所で焼いてもらったの。あったかくて湯たんぽ代わりになるし、おなかが空いたら食べられるし。」
菊は水筒を取り出して水を飲むと、芋に夢中になっている近習に言った。
「ところであなた、詩が上手ね。」
そう、彼女が彼を目に止めたのは詩がきっかけだったのだ。
この近習、名を樋口与六兼続という。
先だっての正月の宴で詩を詠んだのは、彼である。
冬風吹きつくして又春を迎う
春色悠悠晷の運ること長し
池上糸を垂れ新柳緑に
檻前気を飛ばして早梅香し
冬の風が吹き尽くして、又春を迎える
春の日は悠々と 日の光の運りは長い
池のほとりには柳が枝を垂れて緑に萌え
軒先には早梅が馥郁と香る
宴が終わって部屋に戻ると、侍女たちが何だか騒がしいので、どうしたの、と揚羽に尋ねると、彼のことが話題になっているのだ、と答える。
「ああ、若いのになかなか上手かったわね。情景が目に浮かぶっていうか、絵心があるっていうか。」
「何言ってるんですか。何処に目をつけているんですか。」
揚羽が呆れて言ったものだ。
「いい男だったからに決まっているじゃないですか。」
確かに、言われてみれば、背が高く、雪国育ちらしい白くて滑らかな肌を持つ端正な美男子で、この男が通ると、侍女たちが目引き袖引きして仕事が手に付かないようだ。頭が良く気が利くので、景勝はもちろん、紅も重用している。
だが菊は、先日の宴で、金糸で縫い取りした水浅葱注連縄に譲り葉を散らした華やかな打掛を羽織って、景勝や諸将と楽しそうに話をしている艶やかな紅の姿を、末席から目を放すことが出来ないかのように見つめている彼の姿に気が付いていた。紅のことを『姫君』と呼んでいる唯一の男が、彼だった。
「父上も詩がお好きで、一時は政務を放り出して熱中していらしたの。あなたの詩は新鮮で絵心がある。先代のお屋形さまもお上手だったそうだけれど、そのお仕込みかしら。」
「いいえ。」
兼続は、何故かちょっと言葉に詰まった。
「紅姫さまのお祖父さまに教えていただいたのです。」
意外な名前が出た。
菊は驚いたが、これは本題に入るきっかけだと思った。
「今日あなたに来てもらったのは他でもない、その紅のことよ。あの人は一体、何者なの?」
兼続は又、黙ってしまった。
「そうよね、あなたに聞くのは筋違いよね。」
菊は空を見た。
鳶がゆっくりと輪を描いている。
いいな、自分の翼で好きな所へどこまでも飛んで行けて。
久しぶりに太陽の下に出たせいかもしれない。この男を責めても仕方ないと思いながら、止まらなくなってしまった。
「だって、誰も教えてくれないんだもの。私がよそ者だから、以前敵だった国から来たから。」
兼続が顔をあげた。
「あの方は……逆賊の娘なのです。殿と姫さまは……仇同士なのです。」