第14話 黒髪
その朝も、揚羽が菊の髪を梳っている所へ、紅が御機嫌伺いにやって来た。
菊の巻き毛は、朝起きたばかりの時は特に言うことをきかない。
紅は、揚羽が菊の髪を纏めるのに苦労しているのを見てとると、侍女に言いつけて幾つかの品を持って来させた。湯を張った角盥に布を掛け、その上に菊の髪を掛けると温めた布で覆った。しばらくして髪がしっとりすると、小さな壷の中からすくった、軟膏のような物を髪に塗りつけ始めた。
「何なの、これは?」
菊が尋ねると、
「椰子から抽出した油脂です。巻き毛を直すことは出来ませんが、これで随分落ち着くと思います。」
紅は手を休めずに言う。
「でも、私は菊さまのお髪は無理に真っ直ぐにする必要はないと思いますが。」
揚羽はその言葉にカチンときたらしい。
「女の黒髪は象をも繋ぐ、と言うではないか。そなたのように黒く真っ直ぐな髪をお持ちの方に菊さまのお気持ちはわかるまい。」
紅はひたと揚羽を見据えた。
「私は、自分の髪の力で象を繋ぐことが出来るとは思っておりません。」
先に目をそらしたのは揚羽の方だった。黙って紅を手伝う。
紅は髪をさすりながら考える。
そう、他人にはわかるまい。
私と喜平二さまのお心は、髪なんかで結ばれているのではない。
あの日、寝所を照らす蝋燭の灯で鈍く光る刃に映った、互いの心は。
私たちがほんとは何で結ばれているかを知る者は誰もいない。
明けて天正七年の正月、城では諸将が揃って宴が開かれた。
戦況は未だ厳しいものがあるが、武田との同盟の証である姫を迎えての宴は、行く手に明るい希望の灯を燈すものとなった。戦時中ではあったが、舞いを舞う者、詩を詠む者で、ささやかながら宴は盛り上がった。
菊は景勝の隣に座っていたが、紅は下座に控えている。主君の愛妾としてではなく、諸将の一員のようだ。景勝の留守を預かっているからというだけではなく、昔からの知り合いも多いようにみえた。
そのせいか、紅にも何か一つ、と所望する声が挙がった。遠慮していると、景勝が珍しく口を挟み、そうだ、笛を吹け、と言う。
紅は侍女に愛用の笛を持って来させると、生真面目に今様を吹き始めた。それを景勝は途中で遮り、違う違う、あれを吹け、と言う。
紅は改めて笛を構えると吹き始めた。美しい玉が次から次へと転がり出てくるような耳慣れない不思議で軽快な曲で、確かに素晴らしいのだが、あまりこの場には似つかわしくないようだ。
何だろう、この曲は、と甲斐から来た者たちは一様に怪訝な思いだった。
だが、上杉の諸将の反応は違った。口々に、これはこれは、先代が戦陣で夜、よく琵琶で奏じていらした曲だ、ああ懐かしい、あの時の、いえ、この時の陣を思い出しまする、いや良いものを聞かせていただいた、と皆、感無量の態だった。
菊は改めて紅と先代の浅からぬ縁に思いを馳せた。
(越後に来てから一年くらいしかたたないのに、紅は何故、先代の弾いていた曲を知っていたのだろう?二人の間にはいったい、何があったんだろう)