あとがき
人の命は短く、儚い。この後の菊の命も長いものではない。
江戸時代は血脈の時代だった。即ち、家柄、血筋で全てが決まる、安定した、けれど退屈な時代。
そんな中、家柄、血筋から自由な、私淑、という形で受け継がれていった絵の系統がある。この時代から百年後、会ったこともない人物の絵に傾倒し、手本とした絵師がいた。その名を尾形光琳という。その後も、師弟関係を超えた系譜は続く。
この派を称して、琳派、という。
その琳派の祖と呼ばれるのが、俵屋宗達である。
絵の技術の素晴らしさもさることながら、空間構成の巧みさ、自由さは、他の追従を許さない、日本の絵画史上に燦然と輝く巨人である。
唐様の主題の絵は時の権力者にとって自らの正当性を示すためのものであったが、宗達はやまと絵の伝統を受け継ぎ、権力を修飾するための儀礼や格式から遠く隔たったところにあった。彼の絵の魅力は形式や伝統に縛られない自由な魂にある。
出自も、生まれたときも死んだときもわからない、でも作品だけは残って、今日も人々を魅了し続けている。
この後の日本におけるキリスト教の歩みは周知のとおりである。菊や菊の教え子たちが描いた像は弾圧の嵐の中で廃棄されて、今日まで残っているものは数えるほどである。
しかし今日、キリスト教徒は少ないのに関わらず、日本人の生活と、クリスマスに代表されるキリスト教の行事は、切っても切れない。
日本人は中身より先、形から入っていくといわれる。
仏教も、仏像を通して受け入れるようになったという。古代の日本人にとって、仏像はもっとも洗練された文化の象徴であり、具体的な仏像を通して、仏教の教えを受け入れた、というのである。
今日の私たちも、イエスやマリアの造形の美しさに惹かれて、キリスト教に好意をもっているところが多分にあるように思われる。その意味で絵の工房を作ったヴァリニャーノのアプローチの仕方は正しかったし、四百年前に蒔かれた種が細々と日本人の根底に受け継がれて今日、花開いているのかもしれない。
いわゆる南蛮美術が跡形も無く消え去る中、菊の屏風は明治になって、戊辰戦争でぼろぼろになった会津若松城の中から発見された。上杉が、関ケ原の合戦の後、米沢に去るとき、徳川方に引き渡されたのかもしれない。
西洋の表現を用いながら、日本独自の造形を編み出し、日本人のIdentityを世界に問うた、『MadeIn Japan』。
戊辰戦争、太平洋戦争と幾多の危機を乗り越え、二つに分けられたこの屏風は、東と西の美術館に収蔵されて、四百年前の東洋と西洋の文明の交流を今に伝えている。