第121話 峠
瀬田の唐橋まで、店の皆が見送ってくれた。
ここから舟で、琵琶湖を渡る。
「お祖父さまには昨日ご挨拶したけど」
菊は揚羽に言った。
「相変わらずよ。」
わしは京で、ドン臭い息子や孫が上ってくるのを一足先に来て待っとったんじゃ。これからもずっと、ここで待っとるわい。
「でも呂宋屋が来てくれたのも、お祖父さまが紅に借りを返してもらったからなんですって。」
「先のお屋形さまのことも、お店のことも」
揚羽が言った。
「ご心配なさらずに、どうぞお任せください。」
慶次郎に向き直った。
「それにしても鬼の正体はバレてないんでしょうか?京を出たところでいきなり御用なんてこと、無いですよね?」
「とっくにバレてるさ。」
慶次郎は欠伸をした。
「太閤も皆の前で、そちのやることは天下御免じゃ、天晴れ天晴れ、なんて言っちまった手前、なんにも出来ないさ。」
少し大きめな舟を仕立てて、松風も乗せた。
漣が太陽を反射して銀色に光っている。
舟が沖に出ると、慶次郎が菊の肩をつついて、岸を示した。
達丸が舟を追いかけて、波打ち際を走っている。
何か懸命に叫んでいる。が、聞こえない。
掲げているのは、自分の背より大きい
(御旗だ)
一流の旗が、湖を渡る風に翻っている。
青空の下、金地に赤の日の丸が映えている。
父は、この地に武田の旗を立てよ、と遺言した。
(父上、御覧下さい)
胸の底が熱くなった。
(瀬田に、武田の旗が立ちました)
父の願っていたものとは違うけど。
ひとは、と思った。
失ってこそ得るものがある。
(私の、旗、です)
舟が岬を回って旗が見えなくなるまで、一心に見つめていた。
もうそろそろご用意を、と三九郎が呼びに来た。
はい、と答えて化粧道具を片付け始めた。
惣蔵が仕込んでおいてくれたおかげで、三九郎の『糸より』も何とか様になるようになった。
鏡を覗いて又一本、白髪を見つけた。京に落ちてきたばかりのときにはあった白髪も、暮らしが良くなるにつれ、無くなっていたのに。
(最近、よく見つけるようになった)
『茶屋遊び』も、督姫と明姫に仕込んでおいたほうがいいかもしれない。
(恐怖のあまり、一夜で白髪になった女がいた、とかいうけれど)
あの日の記憶は定かでない。
それでも夜半、飛び起きることもある。
闇の底から這い出てきて、彼女を引きずり込もうとする影に怯えて。
あの日、彼の身体を引きずり込んでいった影。
心の傷は癒えていない。
癒えることは無いかもしれない。多分、一生、でも。
今の彼女は『心の怪我』を治す方法を知っている。
舞台に立った。
鄙びた村の昼下がり。お洒落な京雀とは違う、素朴な人々が集まっている。納戸の奥に仕舞ってある葛篭の中から探し出したありったけの晴れ着を身に着けて、彼らなりに精一杯、お洒落をしてきている。都下りの芝居を目を輝かせて見つめている。
誰も知るまい。
滅びた名家の末裔の才が、このような所で花開いているとは、だが。
この日見た芝居を、人々は一生忘れないだろう。
一番大切なものは記録には残っていないのかもしれない。ただ人々の記憶の底に残っていくものなのだ。
今日の芝居の、最後の一幕。
彼女は墨染めの衣を身に纏っている。
念仏を唱えながら、ゆっくりと踊り始める。
と、客席に誰かを認める。
黒い笠を被った、侍。
彼女が差し招くと、彼は舞台へ上がってくる。
これは現か、幻か。
舞い遊ぶ二匹の蝶のように二人は踊る。
彼女は墨染めの衣を脱ぎ捨てる。彼にもらった鮮やかな赤の鬘帯を額に巻く。
そこはもう、躑躅ケ崎の館に変わっている。
懐かしい人々が集っている。父も、母も、兄も、姉も、家臣の人々の顔もある。
彼女は、父にもらった扇をかざす。
(あたしにしか出来ない踊り)
芸能とは、神に奉納するものなのだから。
戦で理不尽に生命を奪われた人々。
この世に未練を残す人々。
あたしは、踊りによって、亡霊たちを慰めることができる。
そのとき彼女は、自分の中に何かが舞い降りてくるのを感じた。
人はそれを、『神』と呼んでいるのかもしれなかった。
観客は静まり返っていた。皆、息を飲んで見守っていた。誰もがそこに、自分が失った懐かしい人々を見ていた。
何せうぞ
くすんで
一期は夢よ
ただ狂へ
阿国の歌声が天に昇っていった。
ゆっくり旅して七日後、御坂峠に立った。
あの日、春とは名ばかりの寒い夜明け、凍てつく空気の中、一面真っ白な雪に覆われた富士山を横目に、うつむいて足早に峠を下っていった。
激しい戦があったことが嘘のように、真っ青な空の下、頂上に薄っすら雪を被った富士山は悠然と聳えている。
かつて、この国を去ったときには
(もう二度と訪れることは無いと思っていた)
懐かしい故郷の山河を
(今、又、眼にすることが出来た)
その間にどれほどの出来事があったろう。
(あたしは変わった)
でも富士の嶺は変わらず彼女を見下ろしている。
先ほど、籠を一杯荷車に積んだ村人とすれ違った。少し話をした。
最近は戦が無いんで、と村人は言った。
葡萄の栽培が盛んになっています。結構いい値で売れるんでさ。
良かった、と慶次郎に言った。
「越後は青苧の栽培が盛んで、先代はそれで莫大な利益を上げたというけれど、甲斐はこれといった産業が無いから貧しくて、戦によって周辺から簒奪し続けるしかなかった。葡萄の栽培が上手くいって、少しでも皆の暮らしが楽になれば嬉しいわ。」
言った後で、照れ隠しのように笑った。
「国主の一族でも何でもない私が、領民の暮らしを心配しても、なんにもならないんだけどね。」
「この辺は内府{徳川家康}の領地になっている。」
国境の小さな城を死力を尽くして取り合った相手が今、武田の本国まで支配している。
なんと虚しいことだろう。
「皆、武田のことなんて忘れちゃっているわね、きっと。」
二人並んで馬を立てて、辺りを見渡した。
「姫君を越後に送り届けたら、俺は朝鮮に渡る。」
慶次郎が言った。
「虎狩りをする。太閤と約束したから。」
「そう。」
彼女の表情を見て、彼は言った。
「俺は戻ってくる、必ず。帰ってきたら越後権中納言{上杉景勝}に話をする。もう離れない、二度と。」
菊は山々を見渡した。
山の上のほうから秋が降りてきている。赤や黄色に染まる峰々。
紅との会話を思い出した。
「殿が何で家臣の前では表情を隠しているのか、ようやくわかったわ。あたしも太閤の前に引き出された時、もう駄目だと思ってあせりまくっていた。でも怯えているのを相手に悟られちゃまずいと思って我慢していた。当主には、自分の気持ちを隠さなきゃならないときがあるものなのね。」
「菊さまも立派な武田の御当主でいらっしゃいます。」
紅はにっこりした。
「そういえば、あの屏風はどうなったのかしら?」
「ああ、あれは」
紅は肩をすくめた。
「明との交渉が上手くいっていないので、贈り物は取りやめになったそうです。今度の御成りのときにお返しくださる、との内々のお達しがありました。」
結局行き場が無くなって、宙に浮いてしまった、というわけか。
あんなに必死に描いたのに。
「亭主が宜しく申しておりました。」
紅が妖艶に微笑んだ。
「ううん、こちらこそお世話になったわ。」
「実はあの競売で、店も随分と儲けさせていただいたのです。」
紅は言った。
呂宋屋は一夜にして徳人{億万長者}になった。一説には、現在の価値に換算して十二億円も得たという。
店に戻って、助左は紅に言った。
「師匠の考えを、あの武将たちが理解したから、壷を買っていったわけじゃねえ。ただ周りに合わせようとしただけさ。でも今度のことが評判になったお陰で、師匠の考える美が少しでも世間に広まったと思って、良しとしよう。」
そしてこれが、堺の商人の最後の光芒でもあった。この後、かつて『黄金の日日』を謳歌した自由都市・堺は、大坂夏の陣で焼き払われ、その繁栄に止めを刺される。
「亭主はすっかり菊さまが気に入ってしまったようです。」
紅は付け加えた。
「その場にいた人も皆、菊さまに魅せられてしまったって。」
菊は、武将たちから父の話ばかりせがまれる、という話をした。
紅が、先代の偉業をどう継承していっていいのかわからなくなるときがある、と言った。
菊は言った。
「私たち、越後の先代お屋形さまやうちの父のような、いえ、幾多の勇猛な武将たちの後に生まれて、見劣りがするのはどうしようもないことよ。でも夏の日差しは強すぎて草花を枯らしてしまったりする。秋の日差しは弱くて淋しいけれど、そこには豊かな実りの世界が広がっている。大きくて強いものも、小さくて弱いものも其々、身の丈にあった実りをそこに結んでいる。ねえ紅、私たち、秋の日差しになれそうかしら?」
紅は黙って微笑んでいた。
菊は慶次郎に言った。
「ほんとにずっと側にいてくれるの?」
「生きている間も、死んでからも。墓の番人もしてやるからな。」
「ひどい、自分のほうが長生きするつもりでいる!」
大笑いする慶次郎が、菊が手にした薄の穂で打とうとするのを、するりと避けて、松風を走らせる。
菊も、馬を煽って追いかけながら考える。
(これからは囚われの身なの?いえ、違う。これは何かの始まり、なのだ)
富士の嶺から吹き降ろしてきた風が二人の髪を逆立て、耳元で音を立て、地上の秋を告げている。
馬の蹄が、咲き乱れる黄や紫の可憐な野の花を掻き分けていく。
薄の穂が銀色になびいている。
遥かに聳える富士、その更に高い大空を、陽の光に輝きながら、幾つもの雲が流れていった。