第120話 百日紅
襖をそっと開けた。
枕元に座って顔を眺めた。
昏々と眠っている。
涙が溢れた。
ぽとり、と彼の頬に落ちた。
細く目を開けた。
「やあ、姫君。」
薄っすら笑った。
「無事だったか、良かった。」
頭も身体も手足も、布でぐるぐる巻き。わずかに見える顔も、細かいひっかき傷だらけで、皮膚の色は、打ち身で赤紫になっている。
こんなに傷ついた彼を見るのは初めてだった。
菊は喉の奥に塊が出来て、声が出せない。
代わりに彼が、しわがれた声で大儀そうにしゃべっている。
「飛び出すところまではカッコ良かったんだけどな。」
あの後、森の木の天辺に引っかかった。
「その後は……まあ、あんまり聞かないでくれ。」
弥助が、松風を引いて助けに行ったが、大変だったらしい。
達丸は引っかき傷くらいで済んだ。
でも自分の身体で達丸を庇った彼は。
普通の人なら命は無かっただろう。
なのに、暢気に、
「これで人も飛べるってことがわかった。修道士にこの結果を知らせて、もっと研究してもらおう。人が空を飛べるなんて、俺たちがこの世で初めて証明したんじゃないのか。」
「うっ……」
「えっ?」
慶次郎は初めて気が付いたようだ。
「と・と・と。待ってくれ、俺はその、泣かれるのはちょっと、苦手……。」
もう遅かった。
菊は彼の首にしがみついて、わあっと泣き出した。
「あっ、てっ、てっ、てっ!」
脳天から爪先まで貫く激痛に、思わずあげかけた悲鳴を必死で抑えた。
慶次郎は彼女の肩にそろそろと手を回しかけて、一瞬止めた。
独りごちた。
「あいつだって、肩くらい抱いただろう。」
よしよし、と彼女の背中をさすり始めた。
狩野から招待があったので、菊は達丸を連れて出かけた。
当主の光信が迎えて、心からのもてなしを受けた。
菊が恐縮すると、光信は、
「こちらこそ、数々のご無礼の段、どうぞお赦しください。」
頭を下げた。
「知らぬこととはいえ、一門の者がご迷惑をおかけしました。今日はそのお詫びがしたくて、こちらまでご足労いただいたのです。私は」
強く言った。
「小細工無しで、勝負がしたかった。ご存知のように父の影が大きすぎて、遺された者は父を越えるのに苦労しております。」
率直に言う。
「あの屏風を見たとき、負けた、と思いました。でも悔しくはありません。研鑚を積んで、もっといいものを描こうと思ったから。今までずっと父と比べてどうかということばかり気にしてきました。でもあなたの絵を見て、自分なりの絵を描きたいという闘志が涌きました。自分も、もっと高みに上れる、と。」
「越後の上杉の城に、お父上がお描きになった洛中洛外図があります。」
菊が言った。
「尋常ならざる細密描写でした。自分が何者か、わからなくて道に迷っていた日々、どんなに憧れたことか。私を絵師にしたのは、お父上の絵です。あなたの繊細な筆遣いは確かにお父上譲りのものだと思います。お父上も注文が殺到して忙しすぎなければ、本当はずっと、あなたのような絵を描いていたかったのかもしれませんね。」
「……。」
言葉を継いだ。
「あなたは、あなたの道を行っていいと思います。私も昔、師匠にそう言われたことがあります。その言葉は私にとって救いになりました。」
「綺麗だよねえ。」
達丸が突然声を上げた。
いつの間にか席を外して、隣の部屋にある屏風を見ている。描かれているのは光信ならではの優雅な松や桜だ。
「この松、昔の、十二単を纏った女の人みたいだ。この絵、好きだなあ。」
「弱々しい、という人もいるのですが。」
光信が菊に言った。
「えっ、その人、知らないのかなあ?」
達丸が言った。
「木はねえ、しなやかでよく曲がる木のほうが、強い風が吹いたとき、倒れにくいんだよ!」
得意そうに言った。
「あなた、それ、何処で聞いたの?」
菊が聞いた。
「うん、前、猿若に聞いたんだけど、こないだ木の天辺に降りたとき、『証明』された!」
光信と菊は顔を見合わせて、吹き出した。
辞する二人を玄関まで送ってくれた。
「これから、どちらへ?」
光信が聞いた。
「この子を長谷川さまの工房まで送っていきます。」
菊は言った。
「水墨画の手ほどきを受けているのです。」
「長谷川等伯殿ですね。お願いがあるのですが。」
光信が言った。
「長谷川殿にお目にかかりたいのです。父の時代は対立しておりましたが、私は、あの方を尊敬しております。お互い協力してやっていくことは出来ないかと思っております。もしその仲介をお願いできたら、大変有難いのですが。」
「喜んで。」
菊は心から言った。
等伯に会って、達丸と共に、このたびの一件の礼を述べた。
狩野の件は日を改めて言おうと思った。
光信は信頼できる人だ。今すぐでなくても、彼の誠意は、きっといつか相手に通じるだろう。
等伯は仕事の手を休めず、ふん、ふんと鼻であしらうように聞いていた。
又、やる気が出てきたようだった。この人も何があってもくじけない人だ。
「稽古を始めるぞ。」
時間が惜しい、と何事も無かったように達丸に言った。
菊には
「もう用は済んだじゃろう。」
早く帰れ、といわんばかりに顎をしゃくった。
ま、こういう人、よね。
帰ろうとした。
「おい。」
菊が振り向くと、
「よう、やった。」
親父が、頷いた。
ぐっと涙がこみ上げてきた。
涙が見えないように、深々と頭を下げた。
「あら、可愛い。」
広げて、透かしてみる。
「どっちか、まだわからないから。」
菊は言った。
「どっちでも、いいように。」
揚羽が言ったことは本当だった。
「身籠っていらっしゃいます。」
菊に囁いたのだ。
「えっ?」
「まず、間違いございません。」
「だ、誰の。」
「さあ」
知りませんよ、私は。考えたくもございません、全く。
くわばら、くわばら、と逃げてしまったので、仕方なく菊は、お祝いに赤ん坊の着物を持って松の小屋を訪ねた。
松は全く悪びれずお祝いを受け取って、あまつさえ、
「ところで姉上は、慶次郎とはどうなってんのよ?」
聞くので、
「毎日お見舞いに行っている。もう随分良くなったわ。旅にも付いて来れると言っているし。」
「ふっ」
鼻で笑われた。
「ねんねじゃあるまいし。」
ふっ、て、ふっ、て、何?
何で鼻であしらわれなきゃなんないの、姉なのに?
「ふっ、ま、いいわ。あなたたちらしいわ。ところでこれって、作ったんじゃないでしょ?買ったんでしょ?」
「ええ。」
「最近、金回りが良さそうね。」
「あの日、あの場に居たっていう武将たちから注文が殺到していて」
でも、
「皆、女将が来なきゃって、店の者でも済む用事でもいちいち、あたしを呼びたがるし」
おまけに、行ったら行ったで、
「武将御自らお出ましになって、下にも置かぬおもてなしなのは有難いんだけど、お父上の話を聞かせてくれ、だの、武田の軍法について伺いたいだの、そのうち、お酒が出るわ、お料理が出るわ、手を握りたがる人もいるし」
何か、絵とは別のものを売っている気がする、と菊は言った。
「いいじゃない。どうせあたしたちは、父上の影から逃れられない運命なのよ。」
松は言った。
「人生には何度かモテる時期があるとかいうけど、あなたの場合もう年なんだから、これが最初で最後になるに決まってる。せいぜい楽しんでらっしゃい。」
ふう、と、ため息をついた。ちょっと顔色がよくない。
「気をつけてよ、最初は用心しないと、っていうじゃない。」
「大丈夫よ、私と彼の子だもん。」
満足そうに腹を撫でた。
「それにしても」
「え?」
「あ、ううん、何でもない。」
すごい執念、と言いかけて止めた。
「あんなに武田の子、武田の子って騒いでいたのに、皮肉なもんね。」
代わりに言った。
「達丸はあんなふうになっちゃったけれど、彼だったらこの子を、天晴れ立派な武将に育て上げることが出来たでしょうに。」
「あら、男の子だって限らないわよ。可愛い女の子かもしれない。」
松が言った。
「そうしたら、三人で踊れたのにね。達丸のことは、今更言ったって仕方ないわよ。うちは絵の家なのよ。叔父さまはあんなにお上手だったし、父上もたしなんでいらして、お好きだった。達丸は武田の子らしく全うに育ったのよ。」
驚いた。
この妹がこんなに優しいことを言うなんて。
松は菊の表情に気づいて優しく笑った。
マリアさまのよう。
(怖い、んですけど)
松は窓の外を見た。
河原が見えている。流れる水がきらきらと反射している。今日もいい天気だ。
「この子と二人で彼を待つの。日川でも生きていたのよ、あんなお堀くらい。彼はきっと生きている。あたしとこの子の元に戻ってくる。きっと、いつか。それまで待つの、いつまでだって。」
菊に向かって、改まった口調で言った。
「もう会うことも無いんじゃないかしら、あたしたち。」
「そんなこと無いわ……。」
自信の無い口調になってしまったのは否めなかった。
「二度と言わないから。」
前置きして、頭を下げた。
「越後から戻ってきてくれて有難う。あなたが帰ってきてくれなければ、あたしたち皆、田野で死んでいた。そうしたらもう二度と彼に会うことも無かったし、この子を授かることも無かった。」
松はちょっと涙ぐんだ。
菊も喉が搾られるような気がした。
性格が両極端だったから。最後までどうにも気が合わなかった。会うたびにいつも、神経を逆撫でされるような思いをしてきた。
好きかと聞かれて、手放しで好きとはいえなかった。たとえ肉親といえども、そのことは認めざるを得ない。
けれど、それでも。
この妹が今、生きていてくれて良かった。
振り払って明るく言った。
「越後にもそのうち来るんでしょ。」
「ゆっくりゆっくり、回って行くわ。途中で芝居を見せながら。」
妹も明るく言った。
「『阿国』の芸を待っている人はたんと居るわ。」
「じゃ、もう旅立てそうね。」
紅が言った。
「十月には十分間に合うかと。」
猿若が言った。
「太閤の御成りのときに、罰を受けた人間が周りをうろうろしているのは、ちと外聞が悪うございますからな。」
『御成り』とは、秀吉の大名私邸への公式訪問のことで、豊臣家との主従の強い絆を内外に示す儀式だった。もちろん御成りに選ばれるのは大変名誉なことではあるが、同時に、最高の接待が求められた。
この十月、一条戻り橋にある上杉の屋敷に太閤の御成りが決まった。太閤の咎めを受けて上杉への預かりが決まった菊は、だからその間、国許で逼塞していなければならない。
「でもあの男が一緒なんでしょ?」
紅が言った。
「傷も癒えたようで。」
「菊さまは、あの男をどうなさるおつもりなのかしら。」
「さあ、お二人とも、こそこそお付き合いなさるおつもりはございますまい。」
ふうん、と紅は考えている。
猿若は美味そうに茶をすすった。今日は紅に招かれて茶室にあがっている。
「おいしゅうございます。叔母さまのお仕込みですな。」
「お祖父さまもお好きだった。」
紅は猿若に向き直った。
「今度の御成りでは、能も三番演じられる。」
「ほほう。」
猿若は目を細めた。
「戻って来ない?」
紅は言った。
「もしそなたが良ければ、うちのお抱えの能楽師として迎え入れたいと思っている。」
コン、と鹿威しが鳴った。
「そなたにも長い間苦労をかけた。もうそろそろ休んでもいい頃だと思う。ほんとに、無事に戻ってくることが出来て良かったと思っている。甲斐にやったときは正直、駄目かと思ったもの。」
少女に戻って、言った。
「姫君。」
猿若は言った。
「お気持ちは大変有難く存じます。でもこの老いぼれ、まだまだ若い者には負けません。やりたいことがございます。」
「やりたいこと?」
「芝居でございます、能とはまた違った。お松さまが演じていらっしゃる芝居、日本全国できっと流行ります。手前はお松さまについて行きとうございます。」
「猿若。」
紅は言った。
「それは松さまが身籠っていらっしゃるからでしょう、あの武田の残党の子を。」
武田の子がもう一人。
松は危険を感じて都を去ることにした。身二つになって、ほとぼりが冷めるまで地方に潜伏するつもりなのだ。
猿若は、あたしが松さまのことを気にかけているのを知っている。菊さまも心配していらっしゃる。あたしたちに代わって松さまを見守っていこうとしてくれているのだ。
「松さまは、手前が一座に必要だ、とおっしゃってくださいました。こんな老いぼれを頼りにしてくださるなんて有難いことです。手前は、手前を必要としてくださる方の元に居ようと思っております。」
「猿若。」
紅はうつむいた。
「そなた、どうしてそこまで私の為に……。」
言葉に詰まった。
「手前はその昔、長尾家に敵対する家に雇われて内偵しておりました。見つかって先々代の殿、弾正{為景}さまの前に引き出されました。そのとき手前の息子も一緒でした。まだ子供で、ひどい怪我をしておりました。その子を弾正さまは、皆の面前で手討ちにしようとなさいました。それを身を挺して庇って下さったのが、姫君の叔母さまでした。弾正さまは気が荒くて有名な方で、何しろ御主君をお二方も討たれたお方です、大変なお怒りようで、叔母さまも一緒に手討ちにしようとなさいました。その叔母さまを救おうと、弾正さまの御子息の不識院{謙信}さまが刃を振るわれました。それ以来、不識院さまはお父上の御勘気を被り、色々とつらい目にお遭いになることになりました。手前の息子は結局、傷が重くて死んでしまいましたが、手前は不識院さまと叔母さまの為なら命を捨てる、と誓いました。姫君は、お二人が宝のように思われていた方。ですからこれくらい、なんでもないことなのです。」
紅はじっと聞いていたが、ふっと笑った。
「血は争えないわね、やっぱり。」
光射す庭を眺めた。百日紅の真っ赤な花が満開だ。
今日も暑くなりそう、と思った。