表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
122/125

第120話 百日紅

 ふすまをそっと開けた。

 枕元に座って顔を眺めた。

 昏々(こんこん)と眠っている。

 涙があふれた。

 ぽとり、と彼のほおに落ちた。

 細く目を開けた。

「やあ、姫君。」

 っすら笑った。

「無事だったか、良かった。」

 頭も身体も手足も、布でぐるぐる巻き。わずかに見える顔も、細かいひっかき傷だらけで、皮膚の色は、打ち身で赤紫になっている。

 こんなに傷ついた彼を見るのは初めてだった。

 菊はのどの奥にかたまりが出来て、声が出せない。

 代わりに彼が、しわがれた声で大儀だるそうにしゃべっている。

「飛び出すところまではカッコ良かったんだけどな。」

 あの後、森の木の天辺てっぺんに引っかかった。

「その後は……まあ、あんまり聞かないでくれ。」

 弥助が、松風を引いて助けに行ったが、大変だったらしい。

 達丸は引っかき傷くらいで済んだ。

 でも自分の身体で達丸をかばった彼は。

 普通の人なら命は無かっただろう。

 なのに、暢気のんきに、

「これで人も飛べるってことがわかった。修道士イルマンにこの結果を知らせて、もっと研究してもらおう。人が空を飛べるなんて、俺たちがこの世で初めて証明したんじゃないのか。」

「うっ……」

「えっ?」

 慶次郎は初めて気が付いたようだ。

「と・と・と。待ってくれ、俺はその、泣かれるのはちょっと、苦手……。」

 もう遅かった。

 菊は彼の首にしがみついて、わあっと泣き出した。

「あっ、てっ、てっ、てっ!」

 脳天のうてんから爪先まで貫く激痛に、思わずあげかけた悲鳴を必死でおさえた。

 慶次郎は彼女の肩にそろそろと手を回しかけて、一瞬止めた。

 ひとりごちた。

「あいつだって、肩くらい抱いただろう。」

 よしよし、と彼女の背中をさすり始めた。



 狩野から招待があったので、菊は達丸を連れて出かけた。

 当主の光信が迎えて、心からのもてなしを受けた。

 菊が恐縮すると、光信は、

「こちらこそ、数々のご無礼ぶれいだん、どうぞおゆるしください。」

 頭を下げた。

「知らぬこととはいえ、一門の者がご迷惑をおかけしました。今日はそのおびがしたくて、こちらまでご足労そくろういただいたのです。私は」

 強く言った。

小細工無こざいくなしで、勝負がしたかった。ご存知のように父の影が大きすぎて、のこされた者は父を越えるのに苦労しております。」

 率直そっちょくに言う。

「あの屏風を見たとき、負けた、と思いました。でも悔しくはありません。研鑚けんさんんで、もっといいものを描こうと思ったから。今までずっと父と比べてどうかということばかり気にしてきました。でもあなたの絵を見て、自分なりの絵を描きたいという闘志とうしきました。自分も、もっとたかみに上れる、と。」

「越後の上杉の城に、お父上がお描きになった洛中らくちゅう洛外図らくがいずがあります。」

 菊が言った。

尋常じんじょうならざる細密さいみつ描写びょうしゃでした。自分が何者か、わからなくて道に迷っていた日々、どんなにあこがれたことか。私を絵師にしたのは、お父上の絵です。あなたの繊細せんさい筆遣ふでづかいは確かにお父上譲りのものだと思います。お父上も注文が殺到して忙しすぎなければ、本当はずっと、あなたのような絵を描いていたかったのかもしれませんね。」

「……。」

 言葉をいだ。

「あなたは、あなたの道を行っていいと思います。私も昔、師匠にそう言われたことがあります。その言葉は私にとって救いになりました。」

綺麗きれいだよねえ。」 

 達丸が突然声を上げた。

 いつの間にか席をはずして、隣の部屋にある屏風を見ている。描かれているのは光信ならではの優雅な松や桜だ。

「この松、昔の、十二単じゅうにひとえまとった女の人みたいだ。この絵、好きだなあ。」

「弱々しい、という人もいるのですが。」

 光信が菊に言った。

「えっ、その人、知らないのかなあ?」

 達丸が言った。

「木はねえ、しなやかでよく曲がる木のほうが、強い風が吹いたとき、倒れにくいんだよ!」

 得意そうに言った。

「あなた、それ、何処で聞いたの?」

 菊が聞いた。

「うん、前、猿若に聞いたんだけど、こないだ木の天辺てっぺんに降りたとき、『証明』された!」

 光信と菊は顔を見合わせて、吹き出した。

 辞する二人を玄関まで送ってくれた。

「これから、どちらへ?」

 光信が聞いた。

「この子を長谷川さまの工房まで送っていきます。」

 菊は言った。

「水墨画の手ほどきを受けているのです。」

「長谷川等伯殿ですね。お願いがあるのですが。」

 光信が言った。

「長谷川殿にお目にかかりたいのです。父の時代は対立しておりましたが、私は、あの方を尊敬しております。お互い協力してやっていくことは出来ないかと思っております。もしその仲介をお願いできたら、大変有難いのですが。」

「喜んで。」 

 菊は心から言った。



 等伯に会って、達丸と共に、このたびの一件の礼を述べた。

 狩野の件は日を改めて言おうと思った。

 光信は信頼できる人だ。今すぐでなくても、彼の誠意は、きっといつか相手に通じるだろう。

 等伯は仕事の手を休めず、ふん、ふんと鼻であしらうように聞いていた。

 又、やる気が出てきたようだった。この人も何があってもくじけない人だ。

稽古けいこを始めるぞ。」

 時間が惜しい、と何事も無かったように達丸に言った。

 菊には

「もう用は済んだじゃろう。」

 早く帰れ、といわんばかりにあごをしゃくった。

 ま、こういう人、よね。

 帰ろうとした。

「おい。」 

 菊が振り向くと、

「よう、やった。」

 親父が、うなずいた。

 ぐっと涙がこみ上げてきた。

 涙が見えないように、深々(ふかぶか)と頭を下げた。



「あら、可愛い。」

 広げて、かしてみる。

「どっちか、まだわからないから。」

 菊は言った。

「どっちでも、いいように。」

 揚羽が言ったことは本当だった。

身籠みごもっていらっしゃいます。」

 菊にささやいたのだ。

「えっ?」

「まず、間違いございません。」

「だ、誰の。」

「さあ」

 知りませんよ、私は。考えたくもございません、全く。

 くわばら、くわばら、と逃げてしまったので、仕方なく菊は、お祝いに赤ん坊の着物を持って松の小屋を訪ねた。

 松は全く悪びれずお祝いを受け取って、あまつさえ、

「ところで姉上は、慶次郎とはどうなってんのよ?」

 聞くので、

「毎日お見舞いに行っている。もう随分良くなったわ。旅にも付いて来れると言っているし。」

「ふっ」

 鼻で笑われた。

()()()じゃあるまいし。」

 ふっ、て、ふっ、て、何?

 何で鼻であしらわれなきゃなんないの、姉なのに?

「ふっ、ま、いいわ。あなたたちらしいわ。ところでこれって、作ったんじゃないでしょ?買ったんでしょ?」

「ええ。」

「最近、金回かねまわりが良さそうね。」

「あの日、あの場に居たっていう武将たちから注文が殺到していて」

 でも、

「皆、女将おかみが来なきゃって、店の者でも済む用事でもいちいち、あたしを呼びたがるし」

 おまけに、行ったら行ったで、

「武将御自(おんみずか)らおましになって、下にも置かぬおもてなしなのは有難いんだけど、お父上の話を聞かせてくれ、だの、武田の軍法についてうかがいたいだの、そのうち、お酒が出るわ、お料理が出るわ、手を握りたがる人もいるし」

 何か、絵とは別のものを売っている気がする、と菊は言った。

「いいじゃない。どうせあたしたちは、父上の影から逃れられない運命なのよ。」

 松は言った。

「人生には何度かモテる時期があるとかいうけど、あなたの場合もう年なんだから、これが最初で最後になるに決まってる。せいぜい楽しんでらっしゃい。」

 ふう、と、ため息をついた。ちょっと顔色がよくない。

「気をつけてよ、最初は用心しないと、っていうじゃない。」

「大丈夫よ、私と彼の子だもん。」

 満足そうに腹をでた。

「それにしても」

「え?」

「あ、ううん、何でもない。」

 すごい執念しゅうねん、と言いかけて止めた。

「あんなに武田の子、武田の子って騒いでいたのに、皮肉なもんね。」

代わりに言った。

「達丸はあんなふうになっちゃったけれど、彼だったらこの子を、天晴あっぱれ立派な武将に育て上げることが出来たでしょうに。」

「あら、男の子だって限らないわよ。可愛い女の子かもしれない。」

 松が言った。

「そうしたら、三人で踊れたのにね。達丸のことは、今更言ったって仕方ないわよ。うちは絵の家なのよ。叔父さまはあんなにお上手だったし、父上もたしなんでいらして、お好きだった。達丸は武田の子らしくまっとうに育ったのよ。」

 驚いた。

 この妹がこんなに優しいことを言うなんて。

 松は菊の表情に気づいて優しく笑った。

 マリアさまのよう。

(怖い、んですけど)

 松は窓の外を見た。

 河原が見えている。流れる水がきらきらと反射している。今日もいい天気だ。

「この子と二人で彼を待つの。日川ひかわでも生きていたのよ、あんなお堀くらい。彼はきっと生きている。あたしとこの子の元に戻ってくる。きっと、いつか。それまで待つの、いつまでだって。」

 菊に向かって、改まった口調で言った。

「もう会うことも無いんじゃないかしら、あたしたち。」

「そんなこと無いわ……。」

 自信の無い口調になってしまったのはいなめなかった。

「二度と言わないから。」

 前置きして、頭を下げた。

「越後から戻ってきてくれて有難う。あなたが帰ってきてくれなければ、あたしたち皆、田野たので死んでいた。そうしたらもう二度と彼に会うことも無かったし、この子を授かることも無かった。」

 松はちょっと涙ぐんだ。

 菊ものどしぼられるような気がした。

 性格が両極端だったから。最後までどうにも気が合わなかった。会うたびにいつも、神経を逆撫さかなでされるような思いをしてきた。

 好きかと聞かれて、手放しで好きとはいえなかった。たとえ肉親といえども、そのことは認めざるを得ない。

 けれど、それでも。

 この妹が今、生きていてくれて良かった。

 振り払って明るく言った。

「越後にもそのうち来るんでしょ。」

「ゆっくりゆっくり、回って行くわ。途中で芝居を見せながら。」

 妹も明るく言った。

「『阿国』の芸を待っている人はたんと居るわ。」



「じゃ、もう旅立てそうね。」 

 紅が言った。

「十月には十分間に合うかと。」

 猿若が言った。

「太閤の御成おなりのときに、罰を受けた人間が周りをうろうろしているのは、ちと外聞がいぶんが悪うございますからな。」

『御成り』とは、秀吉の大名私邸への公式訪問のことで、豊臣家との主従の強いきずなを内外に示す儀式だった。もちろん御成りに選ばれるのは大変名誉なことではあるが、同時に、最高の接待が求められた。

 この十月、一条戻り橋にある上杉の屋敷に太閤の御成りが決まった。太閤のとがめを受けて上杉への預かりが決まった菊は、だからその間、国許くにもと逼塞ひっそくしていなければならない。

「でもあの男が一緒なんでしょ?」

 紅が言った。

「傷もえたようで。」

「菊さまは、あの男をどうなさるおつもりなのかしら。」

「さあ、お二人とも、()()()()お付き合いなさるおつもりはございますまい。」

 ふうん、と紅は考えている。

 猿若は美味うまそうに茶をすすった。今日は紅に招かれて茶室にあがっている。

「おいしゅうございます。叔母さまのお仕込しこみですな。」

「お祖父じいさまもお好きだった。」

 紅は猿若に向き直った。

「今度の御成りでは、能も三番演じられる。」

「ほほう。」

 猿若は目を細めた。

「戻って来ない?」

 紅は言った。

「もしそなたが良ければ、うちのおかかえの能楽師として迎え入れたいと思っている。」

 コン、と鹿威ししおどしが鳴った。

「そなたにも長い間苦労をかけた。もうそろそろ休んでもいい頃だと思う。ほんとに、無事に戻ってくることが出来て良かったと思っている。甲斐にやったときは正直、駄目かと思ったもの。」

 少女に戻って、言った。

「姫君。」

 猿若は言った。

「お気持ちは大変有難く存じます。でもこの老いぼれ、まだまだ若い者には負けません。やりたいことがございます。」

「やりたいこと?」

「芝居でございます、能とはまた違った。お松さまが演じていらっしゃる芝居、日本全国できっと流行はやります。手前はお松さまについて行きとうございます。」

「猿若。」

 紅は言った。

「それは松さまが身籠みごもっていらっしゃるからでしょう、あの武田の残党の子を。」

 武田の子がもう一人。

 松は危険を感じて都を去ることにした。身二つになって、ほとぼりが冷めるまで地方に潜伏せんぷくするつもりなのだ。

 猿若は、あたしが松さまのことを気にかけているのを知っている。菊さまも心配していらっしゃる。あたしたちに代わって松さまを見守っていこうとしてくれているのだ。

「松さまは、手前てまえが一座に必要だ、とおっしゃってくださいました。こんな老いぼれを頼りにしてくださるなんて有難いことです。手前は、手前を必要としてくださる方の元に居ようと思っております。」

「猿若。」

 紅はうつむいた。

「そなた、どうしてそこまで私の為に……。」

 言葉に詰まった。

「手前はその昔、長尾家に敵対する家に雇われて内偵ないていしておりました。見つかって先々代の殿、弾正だんじょう為景ためかげ}さまの前に引き出されました。そのとき手前の息子も一緒でした。まだ子供で、ひどい怪我けがをしておりました。その子を弾正さまは、皆の面前めんぜん手討てうちにしようとなさいました。それを身をていしてかばって下さったのが、姫君の叔母さまでした。弾正さまは気が荒くて有名な方で、何しろ御主君ごしゅくんをお二方ふたかたも討たれたお方です、大変なお怒りようで、叔母さまも一緒に手討ちにしようとなさいました。その叔母さまを救おうと、弾正さまの御子息ごしそく不識院ふしきいん謙信けんしん}さまがやいばを振るわれました。それ以来、不識院さまはお父上の御勘気ごかんきこうむり、色々とつらい目においになることになりました。手前の息子は結局、傷が重くて死んでしまいましたが、手前は不識院さまと叔母さまの為なら命を捨てる、と誓いました。姫君は、お二人が宝のように思われていた方。ですからこれくらい、なんでもないことなのです。」

 紅はじっと聞いていたが、ふっと笑った。

「血は争えないわね、やっぱり。」

 光()す庭をながめた。百日紅さるすべりの真っ赤な花が満開まんかいだ。

 今日も暑くなりそう、と思った。



挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ